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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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ホンモノの歴史教育を考える会(第21回)

昭和史論争を再び!② ~ホンモノの歴史教育を考える会(第21回)

高大連の第1次提案を読み進めましょう。
「Ⅰはじめに」には「量的増加以外に」「質的に」も問題があるとして以下の2つを指摘しています。
①用語の重要度の区別がなく、生徒は平面的・羅列的に覚え続けなければならない。
②人名・事件名などの固有名詞や事実に関する用語に偏っている。歴史・社会の一般概  念や方法概念を大事にする必要がある。
ここを読んで私はピンときました。とくに②です(①は②をもっともらしく見せるための前段のように感じます)。
これは今から60年前の昭和30年に岩波新書から発刊された『昭和史』のマルクス主義歴史観そのものです。当時、この『昭和史』の歴史記述をめぐって論争がありました。それが昭和史論争です。以下、ウィキペディアから引用します。

昭和史論争(しょうわしろんそう)は、岩波書店から1955年(昭和30年)に刊行された岩波新書、遠山茂樹・今井清一・藤原彰共著『昭和史』の内容をめぐっておこなわれた論争。論争の発端は、亀井勝一郎が同書に対して、人間が描かれていない、動揺した国民層の姿が見当たらない、と批判したことであった。この亀井の批判に対して、歴史学研究者の井上清、江口朴郎らが反論した。亀井の批判に、松田道雄、山室静、竹山道雄らが同調して論戦に加わった。昭和史論争は、第二次世界大戦後の日本における歴史認識の問題をめぐっての、また、歴史教育や歴史教科書の問題をめぐる論争の出発点としての意味を持つとも言える。なお、著者たちはこれらの論争をもとに、1959年(昭和34年)8月に改訂版[1]を刊行することで、当初の版は絶版にした。

この論争は発端になった亀井勝一郎の「人間不在」歴史観への強烈な批判が何より重要なのですが、この批判は今回の高大連の提案にもピッタリ当てはまります。
人物名と事件名を減らし、一般概念・方法概念なるものを重視しようとする高大連の姿勢には「人間不在」の歴史観を教科書に反映させたいという魂胆がまる見えです。
 つまり、左翼的な歴史観をもつ人間は60年前と変わらずにまったく同じことを繰り返そうとしているというわけです。
「用語が多くて生徒が可哀想だ」とか「歴史的思考力こそが大事だ」というような耳触りのよい言葉にだまされてはいけません。
昭和史論争を再び!です。ちなみにですが、論争の発端となった亀井勝一郎の論文タイトルは「現代歴史家への疑問」です。サブタイトルは「歴史家に「総合的」能力を要求することは果して無理だろうか」となっています。
 この60年前の亀井勝一郎の言葉をそのまま突きつけたいです。
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2018.03.21(Wed) | ホンモノの歴史教育をまじめに考える会 | cm(0) |

ホンモノの歴史教育を考える会(第20回)

昭和史論争を再び!① ~ホンモノの歴史教育を考える会(第20回)

 すっかりご無沙汰して申し訳ありません。ここから、当初に話題とした高大連携歴史教育研究会の「高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次)」の話題に戻ります。例の「坂本龍馬が教科書から消える」という話です。
このレポートを読んでみましょう。高大連は「Ⅰはじめに」で以下のように論を進めています。

 高校の歴史教育では「歴史的思考力の育成」の重要性が指摘されている。ところが今だに歴史は「暗記科目」と考えられている。しかも、高校の歴史教科書に収録されている用語数はうなぎのぼりで1300語ぐらいからどんどん増えて3400~3800語になっている。授業は膨大な用語の説明と暗記に追われて「現代」まで到達しないばかりか、思考力育成もかなわないし、学ぶ楽しさを実感させられる授業をする余裕がない。そこで、用語を精選する必要がある。

一読すると「そんなものかな」と思ってしまいますが、よーく考えるとおかしなことに気づきます。そもそも「歴史的思考力」と「用語」の数は相反するものなのでしょうか。 例を上げましょう。<源頼朝>という用語一つでは歴史的思考できません。<源頼朝>という用語にもう一つ<源義経>をつなげると、兄弟という関係から過去の別れ、再会、反発と鎌倉政権樹立の過程の一部が思考されます。<後白河法皇>を入れれば今後も続く武士と貴族の関係が思考されます。<鎌倉幕府>という用語がなければこの時代を歴史的思考することもできません。鎌倉政権とその基盤について思考するのにも<守護・地頭>という用語が不可欠です。
つまり、思い切って言っちゃいますが、用語は多ければ多いほど歴史的思考は広くかつ深くなります。たしかに、あまりに細かすぎる用語は不要と言えるかもしれませんが、用語の数が多いから歴史的思考力を育てることができないというのは筋が通りません。この2つは全然別の話でしょう。
現場の人間として言っておきますが、用語の多さへの悩みはなにも高校・大学だけの問題ではありません。小学校も中学校も同じです。小学校教師の私は歴史的思考力養成のための「人物学習」を推進していますが、それだけではいわゆる市販テストをカバーできないので穴埋めプリントなども宿題にしたり、授業中に集中的に取り組ませたりしています。中学校の先生だって同じです。世の中の歴史教師はみんなテストという現実と自分の理想の授業の狭間で悪戦苦闘しているんです。そんなことは昔から変わりません。これもはっきり言っちゃいますが、要は教師の工夫の問題にすぎません。
 
 しかし、こういう「用語」の問題をダシにして高大連という団体が何を画策しているのか? これを次回以降考えていきたいと思います(私はこの高大連が引き起こしている問題の本質は昭和30年代の再開のタイトルにした昭和史論争とまったく同じだと考えています)。

2018.03.21(Wed) | ホンモノの歴史教育をまじめに考える会 | cm(0) |

ホンモノの歴史教育を考える会(第19回)

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ホンモノの歴史教育を考える会(第19回)

もう少し、アイデンティティの観点から歴史教育について考えてみます。先の分類で注目したいのは②の「共同体との一体感」です。
 エリクソンもその内容は共同体の歴史(神話)と未来の2つであると言っています。
 まずは、歴史と未来をつなぐキーワードとして「伝統」というものを考えてみたいと思います。私たちの身の回りを見れば、どこの共同体にも歴史=伝統があり、これを未来へと残そうとする運動があります。よく見るのは地域のお祭りなどの昔から残る風習などで、こうした伝統の保存・継承の対象となることが多いように思います。さらに、それを受け継ぎ残そうとする地域の人々の動きそのものに一体感があるように感じます。
 この「伝統」というキーワードについて哲学者の森有正さんは「人間は、過去の伝統に中に生きる」「伝統はわれわれに深い促しを起こす」と言って「内面的促し」という言葉を使い、次のように説明しています。

「つまり、内面的促しというのは、自分では気づかない形で、自分に先立つところの、すでに存在している文化が、私にある方向へ向かうオリエンテーションを与えてくれることなのです。それは自分だけでのオリエンテーションではない。自分を超える、伝統的・社会的なオリエンテーションというものが自分を通して働いている。そういうものとしての内面的促しというものを考えてみたのです。」(森有正『生きることと考えること』講談社 p93)

先のエリクソンの言う共同体との一体感とつながる考え方です。
ということは、各地で行われているお祭りや様々な風習・慣習を経験することはそのまま自分をある方向へ向かわせるオリエンテーションになっているということになりますし、過去からつながる歴史と伝統は自分を超えるパワーで人間の生きる方向を決めているということになります。これは社会的・対人関係的な側面でしょう。
ということは同じく国や地域の過去を扱う歴史教育にも同じ機能があり、その重要な使命として児童・生徒の「内面的促し」があるということになります。
エリクソンはこれに関連して以下のようにも述べています。

「大人になるとは、過去の回想も未来の展望も含めた一貫した時間的流れの中で自分の人生を見ることができるということである。自分が何者であるか(たとえば、経済状態・世代関係における位置・社会における位置)を受け入れることによって、大人は少しずつ(それが計画されていたかのように、あるいは、それを自分で計画してきたかのように)自分の過去を選択し再構成する。」(p172)

ここに書かれている「過去の選択」の中には両親、家庭の歴史に加えて「王や神々の歴史」も含まれています。これは自国の歴史や民族の歴史、あるいは語り継がれてきた神話や伝説も人は「選択」しているということでしょう。
さらにエリクソンはこう言います。

「そして、そのように歴史を選ぶことによって、私たちは所有する側・創造する側に回ろうとする。」(p172)
「私たちが自らを第一原因であるかのように感じることができるのは、私たちが不可避的なものを特別な自尊心をもって受け入れる時である。すなわち、運命に身を任せる覚悟を持つとか、あるいは不可避的な宿命が私たちを選ばぬのなら私たちの方からそれを選び取るというほど、不可避的なるものを善きものとして受け入れる時である。」(p172~173)

つまり、エリクソンがいいたいのはこう言うことでしょう。
 自国の歴史、民族の歴史、神話・伝説等は「宿命」です。すでにその人が生まれた時には存在した「不可避」なものです。人はそれを「運命」として受け入れなければなりません。しかし、ただ受け入れるのではなく「選択」することが大事です。この「選択」するときに重要なポイントがあります。
 それが「特別な自尊心」と「善きものとして」です。これなくしては人は自分の人生を所有することも創造することもできないのです。
内面的促しはこうして選び取られたものでなければ起こらないのではないかと思います。

2018.02.10(Sat) | ホンモノの歴史教育をまじめに考える会 | cm(0) |

ホンモノの歴史教育を考える会(第18回)

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ホンモノの歴史教育を考える会(第18回)

 なぜ歴史教育は「自己肯定感」を育てることを基本とすべきか?についてもう少し考えていきたいと思います。このテーマを考えるにあたってはアイデンティティが大事なキーワードになります。
 アイデンティティとは何か。
これについてはこの用語を世界へ広めたアメリカの発達心理学者・精神分析家であるエリクソン自身が語る「定義」を見てみることにしましょう。

「アイデンティティの感覚とは、人が成長し発達していく過程で抱く、自分自身と一体であるという感覚を意味しますし、また同時に共同体の歴史-あるいは神話体系-ばかりでなくその未来とも一体である、という共同感覚にたいする親和感をも意味します。」
(E・H・エリクソン 五十嵐武士訳『歴史の中のアイデンティティ』みすず書房 p30~31)

 つまり、アイデンティティとは「一体である感覚」です。
この定義によれば、それは
 ①自分自身と一体である感覚
 ②共同体と一体である感覚
 の2つに分けられます。さらに②は
 ②-1歴史(神話)と一体である感覚
 ②-2未来と一体である感覚
 にも分けられます。

別のエリクソンの著書からもう一つ見てみます。

「「アイデンティティ」という言葉は、〈自分自身の中で永続する(自己斉一性)〉という意味と、〈ある種の本質的な特性を他者と永続的に共有する〉という両方の意味を含んでおり、その相互関係を表しているである。」(エリク・H・エリクソン『アイデンティテイとライフサイクル』誠心書房 p112)

最初に示した定義とほぼ同じ事を述べています。
つまり、アイデンティティは自分自身及び他者(共同体)との一体感ということになります。 なお、先の「一体である感覚」はここでは「自己斉一性」と「共有」という言葉に代えられていますが、ここでは以後「一体感」という言葉を使うことにしたいと思います。
ちなみに、それまでの発達論はフロイトの学説が主流で、個人の先天的な性質によって人間の発達は促進されたり遅滞されたりすると考えられてましたが、エリクソンは「心理・社会的」という概念で社会的・対人関係的な側面を重視したところに特徴があります。(鑪幹八郎『アイデンティティの心理学』講談社 p50~51)

なお、アイデンティティは適切な日本語訳を作るのが難しいらしく、それだけ意味するものが複雑でさらにさまざまな分野で広範囲に使用さている言葉のようです。日本の精神科医であった神谷美恵子さんも「アイデンティティとは訳しにくいことばで自己同一性などと訳されてもあまりピンと来ない」と言っています。その神谷さんはアイデンティティの意味は次のようなものであると言っています。

「自分は何ものであるか、自分はどこに立ち、これからどういう役割と目標にむかって歩いて行こうとするのか」(『神谷美恵子コレクション こころの旅』みすず書房 p98)

 これまで続けて読んでくださっている方ならば、アイデンティティの形成と歴史教育は密接な関係があることがおわかりいただけるかと思います。(つづく)

2018.02.08(Thu) | ホンモノの歴史教育をまじめに考える会 | cm(0) |

ホンモノの歴史教育を考える会(第17回)

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ホンモノの歴史教育を考える会(第17回)

 心理学に「時間的展望」という研究領域があります。
 レヴィンという研究者の定義によれば「ある与えられた時に存在する個人の心理的未来及び心理的過去の見解の総体」と呼ばれるものです。この「時間的展望」は歴史教育にとって大事な観点だと思います。
 例えば、以下のような大学生を対象にした榎本博明さんの実験があります( 榎本博明「第7章 大人の時間」 子安増生・白井利明編著『発達科学ハンドブック第3巻 時間と人間』新曜社 2011年 p118~119)

榎本さんは大学生(平均年齢20,0歳)を対象とした調査をもとに以下の見解を述べています。
①過去としてイメージする年齢(平均は14、1歳)が高いほど自分の過去への態度が肯定的で、自己評価も高い。また、過去として大学時代よりも児童期を思い出す者の方が自分の未来に対して否定的である。
②未来としてイメージする年齢(平均は26,7歳)が低いほど自己の過去への態度が肯定的で、自己評価も自尊感情も高かった。
つまり、過去を近い昔としてイメージできると自己肯定感が高く、近い未来を想定できる場合も自己肯定感が高いという結論です。これは自己の人生についての調査ですが、自己と自国の歴史に当てはめることはできないでしょうか?
 つまり、青少年たちは同時代に近い自国の近現代史と自分とのつながりをイメージできればできるほど過去への態度が肯定的で自己評価も高いということになるのではないかという仮説です。
さらに榎本さんは、横井さんと共に大学生を対象に過去への態度や評価に関する調査も行っていて、この調査結果についてこう言います。

「過去に対する態度が肯定的であるほど過去評価得点も現在評価得点も高いこと、過去評価も現在評価も自尊感情と有意な中程度の正の相関があり、抑うつと中程度の負の相関があり、回帰性と弱い負の相関があることがわかった。また、現在悩みがない者ほど過去評価も現在評価も高かった。これらの結果は、自分の過去評価と現在評価は密接に関連しており、ともに現在の適応状態と正の関係にあることを示すものと言える」

この結果も上記と同じく、その人の自国の歴史に対する評価が高ければ現在評価も高くなり、自国の歴史に対する評価が低ければ現在評価も低くなると言えるのではないでしょうか。
榎本さんによれば「私たちの感情や行動は、現在の状況によって規定されるのみならず、過去や未来を含む時間的展望によって大いに規定される」と言いいます。(p117)
 また、榎本さんは白井さんの論を紹介して以下のように述べています(都築学・白井利明編『時間的展望ガイドブック』ナカニシヤ出版 2007年)。

「白井は、時間的展望は自分の人生だけで完結しない、自分の生を越えた世代間にわたるいのちのサイクルのなかで見通しをもつことである。また、われわれは意味ある刻みを入れていくことによって時代をつくり、時代をつくることによって、今を新しいものとして打ち立てて歴史的時間を流れさせることができる。そして、未来に希望をもつことである、と指摘した。社会のレベルの場合の時間的展望は、特に歴史認識と呼ぶことができるかもしれないとし、今後は、歴史認識のような問題にも時間的展望の研究が答えられるようになっていくことが必要であろうと示唆した」(p82)

 時間的展望は自分の人生だけではなく個人の生から死までの範囲を越えた世代サイクルをも範囲に入っているというわけです。やはり、その人の自国の歴史に対する評価が自分自身の評価と関係しているのは間違いなさそうです。(つづく)

2018.02.04(Sun) | ホンモノの歴史教育をまじめに考える会 | cm(0) |

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