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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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歴史教育ノ道標64信長と弥助②

【歴史教育ノ道標64信長と弥助②】
 さて「弥助」が日本に来てから約360年後のことです。
日米開戦の前年の1940年に、来栖良夫さんは『くろ助』という児童文学を発表します。あの「弥助」が主人公です。

物語では「弥助」は「カルサン弥助」=「くろ助」と名付けられ、信長のお馬廻りに任ぜられます。彼は信長の遠乗りにいつも一番に追いつく俊足で、周囲の人々に望まれれば手品なども見せます。もともと陽気な性格で信長ばかりか周囲の人々からも気に入られていきます。彼の一番の理解者はキリシタンで足の不自由な老武士伴太郎八です。本能寺の変では2人も奮戦しますが、太郎八は安土の戦場へ旅立ち、くろ助は命を助けられ南蛮寺に移されます。そして彼の夢に故郷アフリカの両親が現われます。

 一読後の感想は正直あまり面白いとは思いませんでした。ストーリーがやや暗くて積極的に子どもに勧めたいという気持ちにはなりません。「そこがいいのだ」という評価もあるのかもしれませんが(実はこの作品は29年後の1969年に発表されて日本児童文学者協会賞を受賞しています。来栖さんは戦前は綴方運動をしていた教師なので戦前と戦後で作品の評価に違いがあるかもしれません。現在もフォア文庫に入っています)。

 この『くろ助』が執筆された時代背景について前回ご紹介した『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(太田出版)の著者であるロックリー・トーマスさんは次のように書いています。少々長いのですが引用します。
「ここで忘れてはならないのは、日本が第二次世界大戦に参戦した大義名分は―最終的にどういう結果になったにせよ、また戦後に歴史がどう捉えたにせよ―、ヨーロッパ列強の植民地支配からの脱却だったという点だ。二十世紀初頭には世界中の何百万もの人々がこのメッセージを信じ、日本の方策を支持するにせよしないにせよ、そこから何かを感じ取っていた。その中には、ガンジー、中国最後の皇帝溥儀、孫文、スカルノ、アウンサンといった著名人や、それほど有名ではないアジアやアフリカの独立運動の指導者たちもいた。今日ではほとんど忘れられているが、日本軍には日本国内の日本人だけでなく、台湾と朝鮮の植民地部隊や中国と満州の志願兵、遠く離れたインドの反植民地主義者の同盟軍も含まれていた。また、二十世紀初頭にには、欧米列強による統治と支配を終わらせてアジア人のためのアジアを築くという汎アジアの夢の名のもとに、中国やフィリピンで起こった独立運動に参加して死ぬまで戦った日本人志願兵もいた」(p99~100)

信長と弥助のエピソードはアジア・アフリカの独立運動に影響を与えた日本人と日本軍のエピソードへとつながっているのです。こんな壮大な話を歴史の授業に結び付けたいものだと思います。
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2019.03.21(Thu) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標63信長と弥助①

【歴史教育ノ道標63信長と弥助①】
 「きりしたん国より黒坊主参り候」(『信長公記』)
 あの織田信長が「弥助」という名の黒人青年を家来の一人に加えていたことは有名です。戦国時代にイエズス会のヴァリニャーノが実質的には奴隷として日本に連れてきたことがその書簡に記されています。
 信長はこの肌の黒人青年が「墨を塗っているに違いない」と考えて着物を脱がせて体を洗わせたと言われています。何事も新奇なものに興味を示した信長ですから初めて見る肌の黒い青年に関心を持つことは理解できます。
 ところで、信長はこの青年を「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、ゆくゆくは城主にしようとまで考えていたというのですから驚きです。また、自宅と刀を与えて時には道具持ちをさせていたという史料も残っているそうで、松平家忠の日記にも「弥助」は「扶持もちの士分」だったと書かれいます。
 きっと「弥助」は優秀な人だったのでしょう。でなければ「実力主義」の信長が単に好奇心だけでここまで取り立てるとは思えません。
 この青年を決して奴隷扱いせずに「弥助」という名前まで与えて家来の一人に加えていた事実は、信長をはじめとして当時の日本人は肌の色で相手を差別するような感覚がなかったことを証明しています。
「1581(天正9)年、堺の港に上陸した弥助の存在は、大興奮の渦を巻き起こした。彼の体の大きさや、立派に飾り立てたイエズス会士の列に加わっていた事実も後押ししたにちがいない。この時代の日本人は、黒い肌やアフリカ人に対してとくに否定的なイメージは持っていなかったようだ。リチャード・コックスの記述によると、仏陀の肖像が黒い肌で描かれることもあり、黒い肌が崇拝の対象だった可能性もある。(中略)弥助が日本人に雇われた最初のアフリカ人だったかどうかは定かではないが、リチャード・コックスによれば数十年のうちに、数多くのアフリカ人が日本で雇用されるようになっていた」(ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』太田出版p60)
 よく映画やドラマで出てくる「弥助」が信長を慕っていて本能寺の変では最後まで信長を守ろうとするシーンが描かれています。上記のような事実を知ると「本当にこうだったかも?」と思えてきます。
 きっと弥助も日本人を好きになったに違いありません。(つづく)

2019.03.20(Wed) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標62太平記

【歴史教育ノ道標62太平記】
 坂本太郎さんの著作『史書を読む』(吉川弘文館)から歴史教育のヒントを探る第3回です。
 今回は『太平記』を取り上げます。『太平記』は、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその後の南北朝分裂、将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの軍記物語です。
ちなみにタイトルの「太平」は細川頼之の管領就任で太平の世が来たことを喜んで付けたという説が有力らしいのですが、坂本さんはこれには懐疑的です。むしろ、太平でない状況をあえて太平と名付けたいわゆる反語的な意味があるのではないかと言っています。
さて、今回は中身の話ではなくこの軍記物の扱いです。
 坂本さんによれば、『太平記』は明治初年にその史料価値を問われたことがあったそうです。当時の高名な歴史学者たちは「太平記は史学に益なし」(久米邦武)など否定的な見解を論じていたようです。
歴史学の勃興時代に『太平記』はやり玉にあげられていたわけですが、これに対して坂本さんは反論しています。
「しかし、これには一つには水戸の『大日本史』が余りにも『太平記』を信用し、その記事によって、南朝武士の誠忠を讃えたことに対する反撥の意味が、底流に存したことを私は看取せずにはいられない。すべて学説は先行の有力な学説を破り、それを乗り越えるために、存在の意味を見出すが、歴史書の編修でも、先行の歴史書の史実の認定を誤りを指摘し、史観の歪みを正すことに生甲斐を求める」(p165)
歴史学は歴史の真実を解き明かしてくれる大事な学問ですが、こんな人間臭い問題も潜んでいることを知っておく必要があるかもしれません。
「明治になって伝えられた西洋の、厳密な史料批判の上に史実を構成するという実証主義は、修史局の諸学者の脳裏に深く刻まれ、その応用の第一として、当時世上に大きな影響をもった『大日本史』を槍玉にあげたのである。『太平記』が史料として役に立たないと論じたのは、一時の熱病のようなものであって、今日から見れば強いて欠点ばかりを挙げて、『太平記』を誹謗したという感を否み得ない」(p165)
いわばないものねだりをしているようなものだということです。
私は同じ軍記物である『平家物語』を源平合戦の授業の中で必ず紹介します。那須与一の話や源義仲、義経の活躍などの場面が生き生きと伝わり、子供たちは喜びます。そして、その時代を理解する上で有益です。時代の雰囲気や当時の人々の考え方がよくわかるからです。
坂本さんはこう結んでいます。
「『太平記』は史学に益なしどころか、大いに有益であると、私は言いたい。『太平記』の描く人物像は、変転きわまりない時勢を生きた人として、多種多様であって、興味が尽きない」(p166)

2019.03.19(Tue) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標61扶桑略記

【歴史教育ノ道標61扶桑略記】
 坂本太郎さんの著作に『史書を読む』(吉川弘文館)から歴史教育のヒントを探るの第2回です。
 今回は『扶桑略記』を取り上げます。これは平安時代の私撰歴史書で著者は比叡山の僧・阿闍梨皇円(あじゃりこうえん)です。六国史をはじめ寺院関係の日記等を参考に編纂されています。なお、書名の「扶桑」とは中国の伝説で東海のはてにある巨木のことで、日本の異名です。
さて、この扶桑略記の中には面白いエピソードがあります。それをご紹介したいと思います。醍醐天皇の時代の日中交流の記事です。
「それは延長4年(926)2月、興福寺の寛健法師が、唐の商船に乗って入唐求法し、かねて五台山を巡礼したいと申し出て、天皇の許しを得たという話である。これだけなら何の変哲もないが、法師はその際日本の文筆を持って先方に行きたいと願ったというのである。詳しくいうと菅原道真・紀長谷雄の詩各三巻、橘広相の詩二巻、都良香の詩一巻計九巻、小野道風の行草の書各一巻である。これを唐に流布させたいというのであるから、日本文化の発達に対する並々ならぬ自信のほどがうかがわれる」(p87)
遣唐使廃止以後もこうして僧侶がたびたび渡航していたようですが、こんなファイティング・スピリッツをもったお坊さんが平安時代にいたとは驚きます。本場・唐の人に日本の文筆のすごさを見せたやりたいという心意気に拍手を送りたくなります。
坂本さんは続けてこう解説しています。
「これを日本文化独立の一つの微証として、辻善之助博士は特筆するが、たしかに近々二百年程の間にかの国から全面的に受け入れた漢詩や書を、すぐれた人のものに限って先方に持って行き、流布させようというのは、日本人の外国文化摂取の逞しい力量を示したものとして注目に値する」(p88)
平安時代の文化の学習では国風文化として日本独自の文化が発展したと教えますが、そこにこのエピソードを入れてみると日本独自の文化の発展イメージが変わるのではないでしょうか?
 異文化を積極的に取り入れ、自家薬籠中のものとしてしまうのが私たち日本人の特徴ですが、さらにそれを発展させてオリジナルを超えるものへと育て上げようとする逞しさも日本人の大きな長所でしょう。

2019.03.18(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標60古事記と日本書紀

【歴史教育ノ道標60古事記と日本書紀】
 昭和期の碩学・坂本太郎さんの著作に『史書を読む』(吉川弘文館)があります。ここから、歴史教育のヒントを探りたいと思います。
 第1回目は『古事記』と『日本書紀』です。
 どちらも奈良時代に編纂された歴史書ですが、この二つはよく比較されます。坂本さんも『日本書紀』は「苦心して年紀を作り、記事を年月日にかけ、むずかしい漢文を使って、できる限り国史としての威儀を整えようとした」いわゆる正史であり、対して『古事記』は「神典」「民族的叙事詩」という評価もあり「多義性」があると言っています。つまり『古事記』は正史・『日本書紀』に対する補助的な史書であるというのが坂本さんの評価です。
さて、ここまで二つの史書の違いに目を向けたわけですが、じつは坂本さんはこの二つの同じところを強調しています。それはどちらも『帝紀』をその源泉としているということです。『帝紀』とは歴代天皇の系譜です。『古事記』も『日本書紀』も様々な性質の違いはあれど次のような共通点があると言います。
「ところが歴代天皇の次第については、両者は大本において全く一致する。第一代の神日本磐余彦天皇以来第三十三代豊御食炊屋姫天皇に至るまで、歴代天皇の名称は文字は違っても訓みは同じであり、ひとりの相違もない(中略)こうした日継の根本に関する点では、本来の帝紀がよほど確乎としたものであり、後人の恣意的な変改を許さないものであったことが察せられる」(p49)
 『古事記』『日本書紀』と『帝紀』のつながりは大事なポイントです。
また、坂本さんはこうした伝承を根拠もなく疑う戦後の風潮を戒めてこう言っています。
「それらの人は大した根拠もなく、己の臆断をもって神武天皇は存在しなかったとか、続く八代も造作加上したものだとか言い放つ。これらの人に学者としての謙虚さがあったならばそんなことは軽々しく言えるはずはないと思う。『記紀』の一致する帝紀の重みを考えただけで、古伝承の底の深さを私は思わずにはいられない」(p50)
 私も古代を扱った歴史の本をこれまで何冊か読みましたが、たいていは「神武天皇なんているわけない」「その後の八代まではみんな作り話だ」などほぼ定説であるかのように書いていました。
これらは皆、現代人の傲慢による見解だと思います。当時の古代人の立場に立って考えるという歴史の見方の基本がないのです。現代人から見れば「まさか」と思うことも古代人にとっては「常識」なのです。「滑稽」に見えることも古代人にとっては「大真面目」なのです。文字もなく、語りによってしか継ぐことのできなかった古代人の世界を文字・画像・映像にあふれた現代人が理解しようとするのですから、そこには古代人へのリスペクトがあってしかるべきでしょう。
 神を本気で信じている古代人はわれわれ現代人と違ってそう簡単にウソなんて書けません。私はそう思います。

2019.03.17(Sun) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |