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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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平清盛

  藤原道長の次に平清盛を取り上げる。
 貴族の世の中から武士の世の中へと変わろうとする胎動を感じ取らせたい。

 清盛の肖像画を見せる。
『今日は武士の世の中を作ろうとした人の勉強をします・・・平清盛です』

平清盛肖像画

<ワークシート・第1ページ>
 ★下の絵は平安時代のようすを描いた『平治物語絵巻』の一部です。これを見て気づいたことを箇条書きで書き出しましょう。


平治物語絵巻

 子どもたちの気づきを見てみよう。
「屋敷みたいなものが焼けている」
「火が燃え広がっている」
「すごい煙」
「鎧を着た人がいる」
「弓矢を持っている」
「馬に乗った武士がたくさんいる」
「武士と貴族の戦いか?」
「源氏と平氏の戦いだと思う」
「逃げている人がいる」
「女の人もいる」

 ここで以下の説明をする。
*これは貴族同士の争いにそれぞれ武士が味方になって起こった戦い。
*そういう理由で相手の貴族の屋敷を武士が襲撃している。
*よく見ると貴族の女の人が逃げたり、隠れたりしている。捕まっている人もいる。

 『貴族と武士の間にはこの絵のような関係があったことをここでつかんでおきましょう』

<ワークシート・第2、3ページ>
★都に進出した武士
 武士はもともと都から離れたいなかに住んでいました。いなかで朝廷や貴族の土地を守るように頼まれたり、自分たちの土地も守っていました。そこで敵に備えて武装し、刀や弓矢などの訓練をしていたのです。
その武士が大都会である平安京に進出するチャンスがやってきました。
 当時、京都の延暦寺・園城寺や奈良の興福寺などの大きなお寺は「僧兵」という兵士を持っていたのですが、こうした寺は貴族と意見が対立したり、自分たちの意見を押し通したいときはこの僧兵を使って貴族を脅かしました。困った貴族は僧兵の乱暴から身を守るために武士にボディガードを頼むようになったのです。
こうして武士の中でもとりわけ強いボディガードである源氏と平氏が貴族に大事にされ、だんだんと政治にも参加するようになっていったのです。とくに貴族同士の争いに、武士が加わった保元の乱・平治の乱の2つの大きな戦いで武士はなくてはならない存在になっていきました。
平安時代の終わりごろは、貴族・寺・武士の3つの大きな力が日本を動かしていたと言えるでしょう。

★平清盛の活躍
都に進出した武士の中で最初に活躍したのは源氏でしたがその後、平氏がライバルである源氏を上回り、力を伸ばしていきました。その平氏のリーダーになってのが平清盛です。では、清盛はどんな人物だったのか調べてみましょう。

①少年のころから貴族の世界を知っていた
清盛のお父さんの忠盛は鳥羽上皇というもと天皇に気に入られ、貴族の仲間入りをして富を得ていきました。清盛も都で貴族の一員として育てられました。しかし、武士の子でもある清盛はすぐれた武将としても成長していきました。

②御神輿に矢を放った
30歳の時にある事件が起きました。延暦寺と平氏の間にもめごとが起こり、僧兵と平氏の間で戦いになったのです。ふつう、僧兵たちは御神輿を担ぎながら相手を脅します。御神輿には神様が乗っていますから「俺たちに刃向かうと天罰が下るぞ」と神仏の力で相手を脅そうとするのです。当時の人はこれをたいへん恐れました。しかし、清盛はそんなことは気にもかけずに御神輿に矢を放ったのです。ぶすりと刺さった矢に当時の人は震え上がりました。清盛は古くさい迷信を嫌い、神仏を戦いに利用する行為に真っ向から挑戦する進歩的な人だったのです。ただし、清盛は神仏をうやまう心は強く持っていました。とくに広島に厳島神社を造ったことが有名です。

厳島神社


③平治の乱で活躍
 貴族同士の争いから起きた平治の乱で清盛は相手側の源義朝を打ち破り、源氏を壊滅させました。これによってライバルがいなくなった平氏がさらに力を伸ばしていきました。

④中国の宋と貿易をした
 平氏は日本近海の海賊退治も行っていました。そのため、日本と宋の貿易にも関わるようになったのです。福原(いまの神戸)を拠点にして貿易を行いました。主な輸入品は中国の銅銭(お金)です。この銅銭を大量に輸入することで日本の経済は活性化しました。輸出品は金、真珠、水銀、硫黄などです。この貿易によって平氏は豊かになっていきました。

⑤どんどん出世する清盛
 清盛は武士と初めて朝廷政治に中心とした参加できる地位に出世し、さらに検非違使という当時の警察組織のリーダーにもなりました。さらに太政大臣という貴族として最高の地位にまで登り詰めました。


★都を平安京から福原に移そう!~清盛になって考えてみよう

 清盛の夢は武士が安心して暮らし、武士が活躍できる世の中を作ることです。では、当時のようすを見てみましょう。
 
*貴族たちはボディガードの平氏がいなくなったら困ると思っているが、内心は「武 士のくせに貴族よりも出世しやがって」と妬んでいる。
*平氏の貴族重視の政治に不満を持っている全国の武士が源頼朝をリーダーにして平 氏に反抗し、各地で戦いが始まった。
*寺のリーダーである延暦寺・園城寺・興福寺などの昔からある大きな寺は、清盛が 厳島神社という新しい神様を大事にしていることを批判している。
*武士のリーダーである清盛の娘が高倉天皇と結婚して男の子を生み、この子が安徳 天皇になった。こうして清盛は藤原道長のように天皇の外戚になった。
*貴族のリーダーである後白河法皇(もと天皇)は昔のように天皇中心の政治に戻し たいと思っている。

 清盛は当時の首都である都を平安京(いまの京都)から福原(いまの神戸)に移すことにしました。なぜ都を福原に移そうと考えたのでしょう?清盛になって考えてみましょう。


福原周辺図

子どもから出てきた意見を紹介しよう。

「平安京を移すことによって、もうみんなに恨まれることもないし、貴族を守る必要もなくなって、これでおおよそは武士の政治ができるから」
「ここはもともと貿易しているところだし、3つの大きな寺から攻撃されるのをさけるため」
「批判してくる大きな寺から離れたい。もしも何かあったら挟み撃ちになってしまう。それに海の近くなら中国と貿易できる。一石二鳥ではないか。それに自分たちのことをよく思っていないいない人たちがたくさんいる所より、田舎の方が安全」
「3つの寺から遠い。まわりが山で守りやすい。海が近くて貿易もできる。源氏の拠点である鎌倉から少し遠くなるし、厳島神社に近くなる」
「平氏を恨んでいる敵から身を隠す。それに貴族からも逃げる。貴族は平氏を妬んでいる」
「平安京のまわりは自分たちを嫌っている人がたくさんいる。大きな権力を持っている人もいて危険」
「源氏が攻めてくるかもしれない。貴族の反乱を起こして源氏と手を組んで攻めてくるかも。安徳天皇を守るためにも都を移す必要がある」
「敵から身を守りやすい。山が3つくらいあるし、海もあるから攻撃しずらい。鎌倉に似ている」
「平氏の力は都市を動かす力まで持っているんだぞ、ということを見せつける」
「福原を拠点にして宋と貿易しているから、都がここにあればもっと貿易しやすくなり、景気がよくなる」

<ワークシート・第4ページ>
★なぜ清盛は都を福原へ移そうとしたのか?
 
 なぜ清盛は都を平安京から福原へ移そうと考えたのでしょうか?これにはいくつかの理由はあると言われています。

①敵から身を守りやすい
 平氏に反撃ののろしを上げたのは武士である源氏だけではありません。延暦寺・園城寺・興福寺などの僧兵も源氏側に味方するようになりました。延暦寺・園城寺・興福寺に近い平安京では守りに不安があったのです。
それに対して福原は背後の北には山、正面の南には海があり、東と西も狭くなっていて大軍が入りこみにくい地形になっていました。

②貴族の対立や争いからのがれ、武士の政治を行いたい
 平安京にいると、貴族の中に起こるさまざまな対立や争いに巻き込まれてしまいます。さらに、これまでは貴族が政治を担当して、武士は戦いを担当していましたが、清盛はそろそろ政治も武士が担当する世の中に変えるべきだと考え、そのきっかけとして貴族の世界である平安京から離れようとしたのかもしれません。

③貿易をさらにさかんにする
福原は清盛が以前から宋と貿易をしていた場所です。ここが都になればさらに貿易は活発になるでしょう。

 都を福原へ移す計画に対して、住み慣れた平安京から離れたくない朝廷や貴族たちは大反対でした。800年もの間、都が置かれていた平安京は自然と風土の豊かなと土地であり、大事な寺や神社に囲まれている歴史のある町なのです。これには平氏内部からも反対があったほどでした。
 清盛はこの計画を強引に実施しましたが、あまりにも反対が強く、わずか半年で都を平安京へ戻すしかありませんでした。
 翌年、源氏との戦いで平氏が不利になる中、清盛は重い熱病にかかり亡くなりました。


 子どもたちの感想を見てみる。
*どちらかというと、僕は源頼朝派なので今まで平氏のことを軽く見ていたのですが、結構すごい人だったということがわかりました。
*平清盛がいろいろなことを考えていたということがわかりました。平氏が実現できなかったことをライバルの源氏が成功させたというのがとてもいい。よきライバルだと思えるようになりました。
*清盛は武士を変えようとしたけど、失敗してしまった。清盛がもう少し生きていたら武士は少しは変わっていたかもしれないと思いました。
*清盛は古くさい迷信を嫌うというところが信長に似ていると思った。だけど、神仏を敬うところは違うなと思いました。福原に都を移してたら源氏は攻められなかったのでは?と思いました。
*清盛は僧兵がいて強い寺があっても、あわてることなく福原に都を移そうとしたことがすごいと思いました。武士の世の中の始まりは清盛の後、というイメージがあったけど、清盛が始める準備をしていたのだな、と思いました。
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2016.02.14(Sun) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

藤原道長

 平安時代の貴族の学習として藤原道長を取り上げる。
 なお、平安時代の貴族の生活(寝殿造や平安期の文化)を学習した後にこの授業を計画したい。
 
 前回の寝殿造について簡単におさらいした後に道長の肖像画を見せる。 

<ワークシート・第1ページ>
★下の絵は藤原道長(右)と道長の自宅のようすです。気づいたことを箇条書きで書きだしましょう。


藤原道長肖像画

 子どもたちの気づきは次のようなものである。
「道長が庭を見ている」
「視線の先に船がある」
「池を見ている」
「鳥?みたいなものが船に取り付けられている」
「龍みたいなものもある」
「道長以外にオレンジの服を着た人がいる」
「道長は縁側に出てきて見ている」

 以下の説明をする。
*個々は道長の自宅である。
*池に浮かんでいる二艘の船は道長が新しく注文したもので、それが届けられたところである。
*道長は注文していた船のできばえ満足している。
*この船を注文したのは道長の自宅に大事なお客様が来るから。お客様に満足してもらえるように注文した。
*そのお客様はなんと天皇陛下。
*天皇陛下が自宅に遊びに来るとはさすがは藤原道長。

『では、道長について調べてみましょう』

<ワークシート・第2ページ>
★藤原氏と摂関政治
 745年、いまの京都に平安京という都がつくられました。この後、約400年間が平安時代です。
都が平安京に移ったころから、天皇が政治の場で意見を言う必要がなくなり、貴族たちが中心になって政治を進めるようになりました。その中でも藤原氏は、他の貴族たちをたくみに退け、一族の娘を天皇のお后さまにして生まれた皇子を天皇に立てて天皇の外戚(母方の親戚のこと)となって勢力をのばしたのです。
また、藤原氏は、天皇が幼いころは摂政(せっしょう)として、また成長したのちは関白(かんぱく)として政治を動かすリーダーになりました。どちらも天皇を助けて政治を行う仕事です。これを摂関政治(せっかんせいじ)とよびます。

★出世する藤原道長
 道長は966年に兼家の五男として生まれました。
上から道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道綱(みちつな)、道義(みちよし)と4人のお兄さんがいました。また、一条天皇の母である詮子(せんし)、冷泉天皇の奥さんである超子(ちょうし)の2人のお姉さん、後に三条天皇のお妃になる綏子(すいし)という妹がいました。

 道長は上に4人もお兄さんがいましたから、お兄さんのかげに隠れてなかなか出世できなかったのですが、お姉さんの詮子の子どもが一条天皇になり、それに合わせて父である兼家が摂政になると一気に出世しました。しかも、疫病の流行でお兄さんである道隆・道兼が亡くなると、いきなり大事な仕事を任され、政治を動かす仕事に着くことになったのです。
その後、ライバルとなった道隆の子ども・藤原伊周(これちか)を退けて出世競争に勝利すると、自分の娘を天皇のお后さまにして天皇の外戚となり、死ぬまでリーダーとして活躍しました。
4人いた娘はすべて天皇のお后さまや母親になっています。
*長女・彰子(しょうし)・・・一条天皇の后、後一条天皇・後朱雀天皇の母
*次女・妍子(けんし) ・・・三条天皇の后
*三女・威子(いし) ・・・後一条天皇の后
*四女・嬉子(きし) ・・・後冷泉天皇の母

 有名な「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」(この世は、まるで自分の世のようだ。満月が少しも欠けたところがないように、望みがすべてかなって満足だ)という和歌は三女・威子が後一条天皇と結婚するときに読んだものです。


藤原氏家系図

 『天皇が遊びに来るのは親戚だからなのですね』

<ワークシート・第3ページ>
★天皇の外戚になる日がやってきた~道長はどんな夢を見ただろうか?
 
 平安時代の貴族というといつも楽しく遊んだり、ぶらぶらしていイメージがあると思いますが、そうではありません。
平安貴族たちの政治の仕事や大事な儀式の量はたいへんなものでした。仕事と儀式は連日、深夜まで続き、休日はめったにありません。しかも現代とはちがい、平安貴族たちにとっては貴族の世界で出世することだけが子孫を残していくためのただ一つの方法だったのです。

1008年9月11日。
 藤原道長にとって待ちに待った日がやってきました。
 一条天皇と結婚した長女の彰子に赤ちゃんが生まれる日です。この子は将来の天皇になる可能性があります。つまり、道長一族が天皇の外戚になるのです。

この日に道長は夢を見ました(という設定にします)。道長はどんな夢を見たと思いますか?道長になって考えてみましょう。

Aの夢:太陽と月
 夕方、散歩に出た。ふと見ると、空に太陽と月が同時に出ていた。気がつくと右の手のひらに太陽、左の手のひらに月が乗っていた。そのまま太陽と月を持ってやしきに帰り、月を足もとに置き、太陽を胸にだいてそのまま寝てしまった。

Bの夢:物の怪
 やしきの柱のかげや屋根裏、庭の植木の下に何やら人間ではないものがうごめいている。どうやら物の怪らしい。この物の怪は「くやしい、くやしい」と気味悪くわめきたてている。追い出そうとしてもなかなか捕まらずにわめき続けている。

Cの夢:雲の中の人
 大勢の人がやしきの庭から東の空を見て騒いでいる。見ると、雲の中に人がいて地上の人間をとらえて連れて行こうとしている。人びとは「きっと道長を連れて行こうとしているんだな」とか「いや今、道長を連れて行ってはいけない」など騒いでいた。

◇あなたの考えを書きましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 話し合いの前に意見分布を取った。

A・・・1組  7人  2組  7人
B・・・1組  7人  2組 11人
C・・・1組 11人  2組  9人
 
 見事に3つに分かれた。 
 ではそれぞれの意見を見てみよう。

A派
「太陽は赤ちゃんが生まれることで、月は天皇の親戚になれることを表している。つまり、両方手に入れられるということだと思う」
「貴族は政治の仕事とか大変なのに、天皇の外戚になることでもっと大変になるので、太陽は昼・月は夜で一日中休む暇もない生活がやってくるのでは?ということを表している」
「和歌で、まるで自分の世のようだ・・・って言っているから太陽と月を自由に操れるということとつながっている」
「太陽はうれしい、赤ちゃんが生まれるから。月は不安、元気で生まれてくるだろうか。道長の複雑な気持ちを表している」
「太陽はこれから生まれてくる子、月はその子の未来」

B派
「物の怪の正体は亡くなった道隆・道兼で、天皇の外戚になれるチャンスを弟の道長に取られたことを悔しがっていると思う。それに出産の時には不安もあるし、こわい夢を見てもおかしくない」
「道長は他の貴族を退けることで相手のくやしがる姿見ていると思うし、天皇の外戚になると敗れた貴族たちが反乱を起こすかもしれない・・・と思って心配していた」
「自分は子孫を残せるけど、子孫をの残せるのはある意味、道長だけだから物の怪は出世競争で負けた人、もしくはお兄さんだったのかもしれない」
「亡くなったお兄さんたちが、何でもできすぎの道長を恨んでいると思う」

C派
「新しく生まれた命と引き替えに道長の命が奪われるのではないかと恐れた」
「自分が出世しすぎてそれを上から見ていた空の人がうらやましいなと思って連れて行こうとした。でも、道長にお世話になっている地上にいる人も連れて行ってほしくないと思っている・・・それぐらい自分は偉いと思っている」
「道長が雲の中に行ったらなんかいい気分で暮らしているということじゃないか」
「道長がとても頭がよくて日本の政治を進めているから、雲の中の人間もそのような人材がほしい」
「道長にとって待ちに待った日だから、うれしくて道長がもしも有名になったら・・・という理想の夢を見た」

 おおよそだが、A派はおめでたい吉夢としてとらえ、B派は出世競争に着目して敗れていったライバルたちの怨念をとらえている。C派の解釈はさまざまである。
 
 この「夢分析」を通して貴族の内面に触れてみるのがこの授業のねらいである。

<ワークシート・第4ページ>
★藤原道長の悩み

 道長は『御堂関白日記』という日記を付けていました。ここには道長の日常の出来事なども記録されています。この日記を見ると道長が夢を見たことが何回も記録されています。しかし、残念ながら「どんな夢を見たか」までは書かれていません。ですから、彰子に子どもが生まれたときに見た夢については正確にはわかりません。しかし、ある程度推測することはできます。

じつは道長が政治のリーダーになったときには、まだ天皇の外戚とはなっていませんでした。ですから、自分がリーダーとしての手に入れた権力を子孫に残せるように、はやく天皇の外戚になりたいものだ、と思っていました。そのためには自分の娘を天皇の奥さんにして、運よく皇子を生んでもらい、その子を天皇にして、自分が天皇の外戚になる必要があります。

道長の娘・彰子と亡くなったお兄さんである道隆の娘・定子はどちらも一条天皇の奥さんでした。定子はすでに一条天皇の第1皇子・敦康(あつやす)を生んでいます。
 「子どもは天の授かりもの」とはいえ、道長はあせっていました。お兄さんはすでに亡くなっているので、自分が敦康皇子のめんどうを見てはいるのですが、やはり自分の娘が皇子を生まなければ天皇と強い関係を結ぶことができないからです。道長は金峯山(きんぶせん)という山にお参りして「彰子に子どもができますように」とお経を埋めて、お祈りをしています。

そんなとき、彰子が妊娠したという知らせが入りました。たいへんうれしいニュースなのですが・・・道長はこのことはぜったいに知られないように「極秘事項」としました。なぜなら、出世競争のライバルや道長に怨みがある貴族たちが呪いをかけるかもしれないからです。
彰子が第2皇子・敦成(あつひら)を生んだとき、彰子のもとで働いていた紫式部は日記に「物の怪がくやしがってわめきたてている声はなんとも気味が悪いものだ」と記録しています。恐ろしいことにこれは夢の中のことではなく、実際に起きたことととして記録されているのです。ですから、もしかしたら道長は不気味な物の怪の夢を見たかもしれません。


 児童の感想を見てみよう。

*道長はいろいろなことを抱えて生きていたことがわかりました。
*道長の願いがわかった。幸せ、悲しみ、不安、いろいろな気持ちになつていたことがわかった。
*なんか初めて人の夢を予想した。本当のことはわからないけど、すごい不思議な感覚。最後の「物の怪」の話が夢じゃないというのがコワイ。
*道長は何でも成功して、不安や悩みがないものだと思っていましたが、今日道長はが不安や心配をしていたということに驚きました。
*平安時代の貴族は平和で楽しそうに見えていましたが、本当は子どものことや出世のことで不安いっぱいだったのですね。
*貴族も忙しいんだなとあらためて思いました。当時は呪いとかよく信じられていたらしいから、こういうことなっても仕方がない都は思うけど、道長はとても複雑な気持ちだったと思います。
 

2016.02.13(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

北条時宗(3)

 第2時は「元寇」という問題に北条時宗になって考えてもらう学習である。
  
 「今日は北条時宗になって考えてもらいます。そのときのテーマはこれです」
 黒板に<国防>と書いたカードを貼る。
 「じつは元軍は2回攻め込んできています。1回目と2回目の間は7年間です。すでに前回の勉強で調べましたが、1回目の戦い は苦戦でした。2回目はこれを反省して迎え撃つ必要があります」
 <1回目→反省・2回目>と板書する。
 「そこで今回の学習のめあてはこうなります」
 めあてを掲示する。
 <時宗はどんな作戦や準備が必要だと考えたのだろうか>
 
<ワークシート 1ページ目> 
□この授業ではみなさんに北条時宗になって考えてもらいます。
 そこで、3つのエピソードを読んで北条時宗がどんな人だったのか考えてみましょう。

◆エピソード① 18歳で執権になった
 時宗は10歳のときに小侍所という所で幕府の仕事を手伝うようになりました。
 この時宗の小侍所入りは、将来の執権になるための経験を積ませるためだったと言われています。また、7代執権・北条政村のときには14歳で執権を助ける仕事につきました。若い頃から日本のリーダーになるために勉強していたのです。
 そして、わずか18歳で8代執権になりました。

◆エピソード② 弓矢が得意だった
時宗は子どものころから弓矢が得意でした。
 笠懸(かさがけ)という馬を走らせながら30メートル離れた的を射る大会が行われたときのことです。14人の武士が出場していましたが、的が小さいものに変わるとみんなチャレンジしなくなってしまいました。これを見た北条時頼は自分の子どもである11歳の時宗を呼び出して、チャレンジさせました。
1回目は馬のスピードを出しすぎて矢を射る間がなく、失敗しました。父の時頼は「馬にかまうな!ただおのれの腕を信じろ!」と声をかけました。すると時宗は馬のスピードに気を取られることなく矢を放ったので見事に的を射抜きました。

◆エピソード③ 僧を先生として学んでいた
時宗は少年時代から建長寺の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)という僧を先生として学んでいました。その後、元寇が起こったころ、新しい先生を南宋から招きました。無学祖元(むがくそげん)という僧です。
無学祖元は自分の国・南宋が元によって滅ぼされるのを目の当たりにしていました。自分自身もあやうくモンゴル兵に斬られそうなりましたが「お前の刀で私の魂は切れはしない!」と言い放って兵士を退散させています。
この先生から時宗は「莫煩悩(ばくぼんのう)」という言葉をもらっています。これは「あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい」と言う意味です。

□エピソードを読んでみなさんはどんな感想を持ちましたか?


 簡単に児童に感想を聞いてみる。多かったのは14才で仕事に就いたこと、18才で日本のリーダーになったことについての驚きである。

<ワークシート 2・3ページ目>
◆文永の役を終えて報告書が届いた・・・それを読んだ時宗は?

以下の報告書は架空のもので先生が当時の鎌倉武士になったつもりで書いたものです。
日本軍に大打撃を与えた元軍はなぜか襲来した翌日には帰ってしまいました。さらに帰りの海で嵐にあって大きな損害が出たようです。
 時宗はひとまずは安心しました。しかし、再びの襲来にそなえて準備が必要です。
 今回の戦いについての報告書が提出されました。これを読んで次の対策をねる必要があります。

執権 北条時宗様

今回の戦いについて報告します。

(1)元軍と日本軍の構成を比べる
 敵はモンゴル兵・約2万人と高麗兵・約8千人で構成されていました。ちがう種族が一つの軍隊の中にいるわけです。船は約900隻で、日本にある船よりも大型です。上陸するときは沖で小型の船に乗り換えてやってきます。
わたしたち日本軍は九州に住む御家人で約1万人です。リーダーがはっきりしていなかったので、とりあえずこの日は少弐景資(しょうにかげすけ)さんがリーダーになりました。

(2)戦法のちがい
戦い方の作法があまりにもちがうので困りました。
私たちは一騎打ちですが、元軍は集団戦法です。こちらが正々堂々と名乗りを上げて一騎ずつ突っ込んでいくと、元軍の集団はサッと左右に開いて包み込み、大勢で囲んでやられてしまいます。私たちも個人個人ではがんばりましたが、この集団戦法に圧倒されました。なお、元軍は銅鑼(どら)や太鼓(たいこ)の合図で攻めたり、引いたりを兵士たちに伝えていました。

(3)武器のちがい
①てつはう
てつはうは丸い鉄製の入れ物に火薬をつめて飛ばします。すると、爆発して耳が聞こえなくなるほどの大きな音で爆発します。私たちも耳が聞こえなくなりますが、馬が驚いて暴走してしまうのです。銅鑼や太鼓の音でも馬が驚いています。
②弓
敵の弓は短い短弓(たんきゅう)です。これは私たちの使う弓とちがって、速く撃てるのでまるで雨が降ってくるようです。さらに矢には毒がぬられています。

(4)早く退却してしまった
こう言ってはなんですが景資さんのお父さん・少弐資能(すけよし)さんは、すぐにむかし中大兄皇子が作った水城(みずき)まで退却しました。ここなら敵を防げるからです。しかし、周辺の民は「武士のくせに臆病だ」と言って批判しています。また、大友頼泰(よりやす)さんの軍もすぐに退却してしまいました。

(5)元軍の進行経路
右の図を見るとわかりますが、 元軍は上陸しやすい今津・百道原(ももちはら)・息ノ浜などに攻め込んできています。


文永の役戦況図

(6)わたしたちの戦いぶり
たしかに全体としては戦いに敗れたと言うしかないでしょう。
 しかし、少弐景資さんは元の副元帥に矢を命中させ重傷を負わせました。また、菊池さんや竹崎さんもがんばりました。一騎で突っ込んでいくのはあまりいい方法ではありませんでしたが、あれを見てわたしたち日本軍の武士たちの勇気には驚いていました。
 敵はわれわれの意外な強さに驚いて、立て直しの必要を感じ、自分の国へ戻ろうと考えたようです。帰るときに海で嵐にみまわれたのです。

 以上、報告します。

◆これを読んだ時宗は「再び元が攻めてくる前にこれを防ぐ体制を作らなければ」と思ったにちがいありません。
元軍を撃退するためにはさまざまな準備・作戦が必要です。時宗になったつもりであなたの考えを書いてみましょう。
 後でみんなで話し合ってみましょう。


 時宗になった子どもたちは報告書を資料にしていろいろな観点から次の策を考えた。
 以下、代表的な意見を見てみる。

<準備すべきこと>
◇設備について
*高さ2メートル以上で船が入ってこれないように壁を作る。
*砂浜に落とし穴を仕掛ける。
*相手の船が入りこんできやすいところに堤防を作る。
*水城のような設備を港に合わせて作る。
◇馬について
*馬は音に驚いてしまうので、どらや太鼓の音を聞かせて慣れさせる。
*馬の耳を守るために耳を塞ぎ、ジェスチャーで合図する。
*馬を使うのをやめる。
◇人について
*もっとたくさんの兵士を集める。
◇神や仏への祈りについて
*嵐が来るように願う。

<考えるべき作戦>
◇リーダーについて
*リーダーをはっきりさせてリーダーの合図で防いだり攻めたりする。
*日本も個人ではなく集団で戦う。
◇武器について
*日本も短弓で戦う。
◇船について
*火を放ち船を沈める。
*日本も船を増やして船で戦う。
◇戦法について
*上陸しやすい場所の守りを固める。
*上陸する場所で待ちかまえて乗り換えようとする所で戦う。
*谷までおびき寄せ上から弓矢で攻撃する。

 児童の意見は当時の時代状況を踏まえたリアルのものであり、歴史的事実と重なるものが多い。
 「みんなの意見はすばらしいです。当時の時宗が採用したと思われるものもたくさんあります。では、実際はどうだったのか見てみましょう」

<ワークシート 4ページ目>
◆時宗はどんな準備をしたか?
①石でできた高さ2メートルの防御用のかべ(防塁・ぼうるい)を作った。
②こちらから船で高麗へ攻め込む異国征伐を計画した(しかし中止された)。
③リーダーが必要なので九州方面の守護を新しく北条氏の武士を中心に交替した。
④情報が京都や鎌倉に速く伝わるように関所を停止した。

◆弘安の役はどうなったか?

弘安の役戦況図

予想通り元軍は7年後に再びやってきました。なんと今度は14万人(前回の4倍)の大軍が東路軍と江南軍の二手に分かれて日本に向かってきました。
夜中に九州に到着した元の東路軍は砂浜に作った防塁に驚き、海の沖合にとどまって攻めてきません。日本軍は小舟で元軍の船に夜襲をしかけました。不意をついて敵の船に乗り込み、斬り回ってから火をつけるのです。元軍は夜襲に手こずり、守りを固められた正面からの上陸をあきらめ、防塁のない志賀島へ上陸しました。これに気づいた日本軍は通り道になる海の中道で元軍を必死でくいとめ、元軍を突破させませんでした。
こうして一進一退をくり返すうちに、なかなか突破できない元軍の船の中で病気がはやり始めました。暑い夏、せまい船内、飲み水・野菜の不足などで病気が広がり3000人以上が倒れたのです。
 こうして元軍はついに上陸をあきらめて志賀島から去っていきました。一度、後退して遅れている江南軍と合流しようと考えたのです。しかし、合流した元軍を大型の台風が襲い、元軍は壊滅しました。


 子どもたちは自分の意見が歴史的事実として確認される「ほんとなんだ」と感動の声を漏らしていた。
 なお、以下の画像も弘安の役の説明の中で画像として見せた。
 ①防塁
  正面から見たもの、後ろから見たもの(後ろからは登りやすくなっている)、上から見たもの(子どもたちは意外に長いことに驚いていた)、とうじの蒙古襲来絵詞の中に描かれたものなど4枚。

防塁(前)
防塁(後)
防塁(上)
蒙古襲来絵詞・防塁

②小舟での襲撃
 鎌倉武士たちが元軍の船に小舟で襲撃しているもの。

蒙古襲来絵詞・小舟

 最後に子どもたちの感想文を紹介する。

*私たちの考えが本当に使われていたことに驚いた。元軍が壊滅してよかったと思った。日本は台風が来るように祈るところが仏教と関係あるのだろうか?

*1回目は元軍に大きなダメージを与えられたけど、2回目で元軍の攻撃を防いだ日本軍や北条時宗は頭がすごくよかったと思う。

*1回目の失敗をもとにして2回目に勝ったので「失敗は成功のもと」ということわざ通りだなと思いました。時宗やこの時代の武士たちはとても学ぶ力があると思いました。

*やはり予想していたのと同じだったので防塁を作っておいてよかったと思います。友だちの意見の中でリーダーをはっきりさせるというのがよかったと思います。本当に弘安の役をやっているような気がして楽しかったです。

*北条時宗が関所を停止したことに驚きました。また7年後に備えて防塁を作ったり、リーダーをはっきりさせるなんてすごい!台風も日本の味方ですね。日本最強!

*意外と時宗も運がいいと思いました。2回も元の船を嵐で沈めるなんて、卑弥呼様と同じ能力かなぁと思いました。

*北条時宗になった考えたとき、友だちの考えがたくさん出て、こんな考え方もあるんだなぁと思いました。日本は敵の戦略に気づいて海の中道で必死になって戦って敵をくい止めたのもすごいなぁと思いました。

 感想文を見るとどれも時宗や当時の鎌倉武士への共感が見られる。
 なぜか?
 子どもたちは時宗という当時のリーダーの視点で元寇を見ている。それはこの元寇を我がこととして受けとめたと言うことである。 傍観者的に歴史を見ているのではない。日本人として元寇を見ているのである。それが感想文に現れている。
 

2015.07.18(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

北条時宗(2)

 第1時の学習は「元寇」についてのアウトラインを知り、調べることが目的である。

(1)鎌倉幕府の変化を知る
 前時までを振り返り、以下のような説明をする。
 ①「鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなって、頼家・実朝と3代続いたところで源氏は滅亡した。そして、その後は北条氏が「執権」  という地位について鎌倉幕府のリーダーとなりました」
 ②「今日からはその第8代執権の北条時宗の勉強をします」
 ③時宗の肖像画を黒板に掲示する。
  「時宗が執権の時に大きな出来事が起きました。外国が日本を侵略してきたのです」
 ④「元寇(蒙古襲来)」と板書する。

(2)元寇ついて調べて、発表する
 蒙古襲来絵詞の最もよく知られた場面(元軍のてつはうに驚く馬に乗っている竹崎季長のシーン)を掲示する。

蒙古襲来絵詞・竹崎季長

 「この絵を見て気づいたことをノートに書きましょう」
 その後、気づいたことを互いに発表し合う。
 「では、教科書・資料集などを使って元寇についてもっと調べてみましょう。わかったことはノートに箇条書きで書き出しましょう」
 これも発表させる。
 これらの学習で元寇についての基礎情報が得られる。 

(3)先生のお話を付け加える
 以下のことを付け加える。
 ①最大版図はユーラシア全体に及んだモンゴル帝国の巨大さ。日本の近くでは高麗、南宋も支配された。

 モンゴル帝国図

②後の世に恐ろしいものという意味で「ムクリ・コクリ」という言葉が残された。

(4)教科書穴埋めプリントをする

2015.07.18(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

北条時宗(1)

 元寇はわが国が歴史上最初に受けた外国からの「侵略」である。
 これに異論のある人はないだろう。もし当時の鎌倉武士が元軍を撃退できなければ今頃日本は元の属国になっていた可能性もある。
 つまり、元寇はわが国最初の「国防」事案である。
 かつて、中大兄皇子が白村江の戦後に大宰府に水城を造り、首都を近江へ移転したのも「国防」ではあるが、直接日本の国土へ侵入してきたことを考えれば元寇の方がはるかに重大と言える。
 しかし、これまでの元寇の実践では元軍の敗因を台風という自然災害によるものであることを強調したり、元軍の人種構成の複雑さや準備期間の短さなどに着目させて元軍側の内部崩壊に求めることが多かったように感じている。また、恩賞に不満を持った竹崎季長による鎌倉幕府への談判をメインに扱うという展開もよくある。
 これらが間違っているわけではないが、ここには自国の「国防」という観点がない。直接的な侵入を受けたときに、私たちの先祖は手をこまねいてなすがままになったわけではないし、無能だったわけではない。では、どうしたのか。子どもたちに自分で自分の国を守った先人の業績を体験してもらう必要があるだろう。
 この実践では元寇が2回あったことに着目させる。
 1回目の文永の役はこれといった準備もなく迎え撃つことになった。ゆえにいくつもの日本軍側の弱点があらわになった。2回目の弘安の役は7年後である。当時のリーダーがこの7年間を無駄に過ごしたとは思えない。北条時宗は、当然1回目の戦闘を反省して準備したはずである。ここをシミュレーションさせたい。
 元軍との戦闘を詳細に辿ると日本軍の勝利は決して偶然や元軍側の原因によるものだけではない。鎌倉武士はいくつもの準備を重ね、地の利を生かした作戦面でも負けてはいない。しかも、命をかけて戦っている。むろん、暴風雨や相手側の事情も勝利に大いに関係してはいるが、それを割り引いても私たちの先祖である鎌倉武士の奮闘は称賛されるべきものである。
 700年前に祖国を守った名もない武士たちへのレクイエムとして授業を行いたい。

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