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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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原爆

 戦争の学習の最終回は広島・長崎への原爆投下を扱う。
 史上唯一の被爆国・国民として原爆の学習を避けることはできない。しかし、これまでの原爆学習の多くは、原爆の恐ろしさを伝えるという点のみが強調されてきたように感じている。
 この授業ではメインの学習として「原爆正当化の論理を読んでどう思うか?」という課題を与える。感情のみならず論理で広島・長崎への原爆投下を考える力を付けさせたい。

『今日は戦争の学習の最終回としてこれについて勉強します』
 次の画像を見せる。

原子雲

子どもたちはすぐに原爆とわかる。続けて以下の画像を見せる。

投下前
投下後

広島市が原爆投下後に壊滅したことが一瞬にして理解できる。

原爆ドーム

<ワークシート・第1ページ>
★下の4枚の写真はアメリカ軍が投下した原子爆弾による被害の写真です。被害のようすで気づいたことを書きだしましょう。


焼野原
破壊されたビル
曲がった建物
バルブの影

 子どもたちは最初の3枚については「壊れている」「がれきの山」「焼野原」「建物が何もない」「建物が曲がっている」などの言葉を使って原爆被害についての気づきを発表する。だが、最後の1枚についてはどこに被害があるのかよくわからない。バルブのようなものが写っているので水道・ガスなどのライフラインが止まったのではないかと予想する子もいるが・・・。
 そこで次のように聞いてみる。
『真ん中にバルブがあるね。その右隣にも同じような形が写っているでしょ。これなんだかわかりますか?』
「???」
「影かな」
『そうです。じつはこのバルブの影は原爆から出た強い光と熱線で壁に焼き付いてしまったんです』
 子どもたちは意外なことに驚く。これだけで原爆の尋常ではない威力に恐ろしさを感じることができる。

<ワークシート・第2ページ>
★8月6日・広島 
 1945(昭和20)年8月6日、広島の朝は快晴で、気温はぐんぐん上昇しました。いつもと変わらぬ朝の午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂したのです。
 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が放射されるとともに、空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが作用して大きな被害をもたらしました。原爆による被害の特質は、大量破壊・大量殺りくが無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

①熱線による被害
 爆発と同時に放出された熱線は地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達しました(鉄の溶ける温度は1536度です)。強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。

②高熱火災による被害
放射された高温の熱線により市内中心部の家が自然発火し、一日中、燃え続けました。半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼失し、すべてのものが異常な高熱火災により溶けて、まるで溶岩のようにあたりを埋め尽くしました。建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人も数知れません。

③爆風による被害
 爆発の瞬間、強烈な爆風が吹き抜けました。爆風により木造家屋はほとんどが倒壊し、人々は吹き飛ばされ、即死した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。

④放射能による被害
 原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では発生しない大量の放射線が放出され、それによって人体に深刻な障害が及ぼされたことです。放射線は、人体の奥深くまで入り込み、細胞を壊し、血液を変化させ、骨髄などの血を作る機能を破壊し、内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。
さらに原爆は、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に広島に入った人たちの中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡する人もいました。
 被爆直後から症状を急性障害といい、吐き気や食欲不振、下痢、頭痛、脱毛、倦怠感、吐血、皮膚の出血斑点、発熱、口内炎、白血球・赤血球の減少などのさまざまな症状を示し、多くの人が死亡していきました。
 しかし、放射線の影響はこれで終わるものではありませんでした。
 原子爆弾による放射線は、長期にわたってさまざまな障害を引き起こし、被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。1年後には、火傷が治ったあとが盛り上がる、いわゆるケロイド症状が現れました。さらに5、6年が経過したころから白血病患者が増加し、10年後にはガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めました。
 放射線が年月を経て引き起こす影響については、未だ十分に解明されておらず、調査や研究が現在も続けられています。

★8月9日・長崎
広島の投下から3日後、今度は長崎に原爆が投下されました。このときのことを『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』には次のように書かれています。
『原子爆弾が炸裂にするとまず強烈な一大閃光が走りました。それは強烈な「マグネシウム」を焚いたのと同じような感じで、あたり一面が白茶けてぼんやりかんすんでしまいました。。そして爆発の中心部ではそれと同時に、多少の距離のあるところではそれよりも後に、猛烈な音とともに強烈な爆風と熱気とが襲ってきたのです』


<ワークシート・第3ページ>
★原爆は「正当化」していいのだろうか?
               ~現代に生きる日本人として考えよう

一瞬で大量破壊・大量殺戮を可能にする原子爆弾はたいへん恐ろしい兵器であることは、今では世界中の人々が知っています。
 しかし、中にはアメリカによる日本への原子爆弾の使用を「正当化」する考え方もなくなったわけではありません。

ここで、アメリカの日本への原子爆弾使用を「正当化」する意見を読んでみましょう。そして、現代に生きる日本人としてみなさんはこの意見をどう考えるか?自分の意見を書いてみましょう。

□「正当化」の理由① 日本がアメリカの真珠湾を先に攻撃したからだ
日本はアメリカ軍の基地があるハワイの真珠湾を先制攻撃してきた。これはだまし討ちだ。だから、その罰を日本人が受けるのは当たり前だ。日本の奇襲攻撃で始まった戦争を一日でも早く終わらせるためには原爆は必要だったのだ。

□「正当化」の理由② 100万人のアメリカ軍兵士を助けるためだ
アメリカは日本本土への上陸作戦を考えていたが、もし上陸して地上での戦いが始まれば、硫黄島のような長期戦に持ち込まれて100万人のアメリカ軍兵士の命が失われただろう。それを避けるためには原爆を使うことが必要だったのだ。

◆あなたの考えを書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちからは以下のような意見が出された。
「アメリカの言うこともわからなくはないけれど、無理矢理作ったみたい。100万人のアメリカ軍兵士が死ぬのと同じ価値がある日本の民間人は殺していいと言うのか?と言いたくなる。すごく不条理だ。それに日本が奇襲攻撃したのは軍の基地で民間人に対してはやっていない」
「アメリカ軍の兵士もたくさん亡くなっているけど、日本軍の兵士もたくさん亡くなっているんだから、これは理由にならない」
「原爆は使用する必要ななかったと思う。多くの人の命を奪うし、生き残った人もつらい思いをする。一日でも早く戦争を終わらせるという考えはいいが、1回でたくさんの人の命をうばってしまう原爆は使用しなくてもいいはずだ」
「兵士を守るために民間人を殺すのはダメだと思う」
「どんな理由があってもこんなむごくひどいやり方はいけないと思う」
「①については日本が真珠湾の先制攻撃したときは軍艦などに攻撃していて戦争の法律に合っていたから日本人がその罰を受ける必要なはい。②についてはアメリカ軍兵士を助ける理由で何も悪くない一般人に原爆を落とすのはいけないと思う」
「兵隊たちが戦うだけでなく、一般住民にも大きな被害をもたらしているので、戦争のルールに当てはまっていません。100万人のアメリカ軍兵士を助けるためと言っていますが、日本軍兵士を助けるためと言って原爆を落としても許されることではないはずです」

<ワークシート・第4ページ>
★「原爆は使用するべきではなかった」
①国際法違反・非人道的だ
 日本政府は広島・長崎に原爆が投下された直後の8月10日にスイス政府を通じてアメリカ政府に抗議文を発表しています。

アメリカ政府は、世界大戦が始まってから繰り返し「毒ガスなどの非人道的な兵器の使用は国際法違反だ」と言っていました。また「相手国がこれを使わない限り、アメリカは使わない」という声明を出していたはずです。しかし、アメリカが今回使用した爆弾は、使用禁止になっている毒ガスなどとは比べものにならなほど、無差別かつ残虐なのものです。アメリカは国際法や人道的な考えを無視して、すでに日本の広い範囲を無差別爆撃しています。この爆撃で兵士ではない老人・幼児・女性までも殺傷し、工場でもない神社・お寺・学校・病院・一般の民家などを倒壊・焼失させています。しかも、これまでの兵器とは比較にならないほど無差別かつ残虐なこの原子爆弾を使用するのは人類全体・文化全体に対する新たな罪悪です。
②軍事基地とふつうの町はちがう
 日米関係の研究者である日高義樹さんは次のような考えを発表しています。
 
 真珠湾攻撃は軍事基地に限定された攻撃だった。当時、太平洋の最前線だった真珠湾基地はもしかしたら起こるかもしれない戦闘に備えているべきところだ。しかし、広島や長崎は戦闘地域とはまるちがう無防備な一般市民が住んでいるところである。この2つを同じものとして考えることなどできるわけがない。

③原爆を使わなくても戦争は終わっていた
 エドワード・テラー博士は原爆を開発した一人ですが、日本への原爆投下には反対していました。

いまにも倒れそうな敵(日本)を葬るのに、ものすごい兵器を使う必要はないと思った。日本に原爆を使う必要はまったくなかった。
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2016.01.17(Sun) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

硫黄島の戦い

 今回の授業は「硫黄島の戦い」というタイトルだが、栗林忠道中将の人物学習でもある。
 前回説明したように「千人針」「東京大空襲」とこの「硫黄島の戦い」は3つでワンセットである。つまり、銃後と戦場の思いはつながっている。そして空襲で苦しむ国民を助けるために栗林中将と日本軍は命を賭けて戦うのである。この姿にリスペクトさせるのが本当の歴史教育だろう。

『前回までは戦時下の国民生活を学習してきました。つまり、戦争中の国内のようすを勉強しましたね。今回は戦場で兵隊さんがどんな戦いをしていたのか?を学習しましょう』

 ここで一枚の画像を見せる。

硫黄島全景

『これは硫黄島と言う小さな島です。しかし、ここが日本軍とアメリカ軍の戦場となりました』

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は硫黄島です。この小さな島が戦場になりました。この島が日本にとってもアメリカにとっても重要な場所だったからです。なぜ重要な場所だったのでしょう?もう一枚の写真と地図をもとにあなたの予想を書いてみてください。


硫黄島地図

整備中のB29

「島が平らだから戦闘機などが着陸しやすいから」
「硫黄島で資源が取れたのかもしれない」
「この島を取れるかどうかで戦争の勝敗がはっきりするから」
「ここが日本とアメリカの境?」
「ここを取られると日本はアメリカから攻められやすくなる」
「地図を見ると日本に近いので攻められやすくなる」
「写真はB29だと思う。だから、アメリカは硫黄島を基地にすると日本を攻撃するときに燃料とかが少なくてすむのではないか?」

<ワークシート・第2ページ>
★硫黄島が戦場になった理由
 アメリカ側から見ると硫黄島は日本本土を攻撃するためになくてはならない重要な島なのです。なぜなら、
①B29の基地であるサイパン・テニアン・グアムと日本本土を結ぶ線のちょうど  中間にある。
②硫黄島の日本軍基地から飛び立つ戦闘機によりサイパン基地は攻撃を受けかなり損 害があった。
③これを避けるために回り道をして燃料を余分に使い、しかも爆弾の量を減らさなけ ればならなかった。
④本土爆撃を硫黄島の日本軍にキャッチされ、警報を出されてしまう。
⑤戦闘機の護衛をつけるための基地にしたい(サイパンでは遠すぎる)。
⑥日本軍にやられたときに不時着できる場所が欲しい。
 日本から見れば、硫黄島は小さいけれど日本本土を守るための重要な島だということになります。この硫黄島をアメリカ軍に取られれば日本本土はさらに空襲の恐怖にさらされることになってしまいます。大勢の日本人が空襲で死ぬことになるでしょう。 なんとしてもここを守り抜いて本土にいる家族・友人・恋人を空襲から守らなければなりません。

★硫黄島を守る栗林忠道中将
 この硫黄島の日本軍守備隊のリーダーになったのが栗林忠道中将です。栗林中将とはどんな人だったのでしょうか? 

栗林中将

①部下である兵士を大事にした
 栗林中将は硫黄島に来ると部下と同じ食事をしました。リーダーであっても普通の兵士と同じ食事をして部下の栄養状態に気を配っていたのです。1日にアルミのコップ一杯の水で洗面・手洗いするのも兵士と同じでした。また、たまに新鮮な野菜や水が届けられると部下を呼んで分け合ったといいます。部下と苦労をともにする人だったのです。  

②命をそまつにすることを嫌い最後まで戦おうとした
 当時の日本軍は敗色が濃厚になると「いさぎよく死のう」と考えて刀を抜いて敵に向かって突撃することが多かったのですが、栗林中将はこれを許しませんでした。日頃から「最後の一人になっても相手を悩ませろ」と兵士に言って聞かせていました。                           
③アメリカに留学したことがある
 栗林中将はアメリカに約2年間、軍事研究のために留学したことがあります。ですから、アメリカの事情にもとてもくわしくなっていました。車を買ってドライブをしたり、アメリカ人の友だちもたくさんいました。                                           
④家族思いのお父さんだった
栗林中将は、このアメリカ留学中にまだ字が読めない自分の子どもにたくさんの絵手紙を出しています。また、硫黄島からも空襲にさらされている東京の家族宛になんと41通も手紙を出しています。どの手紙も奥さんや子どもの健康を心配するなど、家族思いであることがわかる内容のものばかりです。



<ワークシート・第3ページ>
★なぜモグラ作戦で戦ったのか?-栗林中将になって考えてみよう                                   
 栗林中将は、この硫黄島を守るためにモグラ作戦をとることにしました。
 島中に地下トンネルを掘り、洞窟や山を結び地下に要塞を作ったのです。そして、アメリカ軍をあえて上陸させてしまい、島全体をつないだ地下トンネルから、できるだけ敵に発見されないように攻撃します。見つかったらすぐに地下トンネルで移動して相手の目をくらますのです。やられた場合は後方に下がり立て直します。
 こうした地下要塞を使ってできるだけ長くアメリカ軍を硫黄島に釘付けにし、長期戦に持ち込む作戦をとりました。
 なぜ、栗林中将はこのようなモグラ作戦で戦うことを選んだのでしょう?栗林中将になって考えてみましょう。    

<硫黄島の特徴>
 硫黄島は東京から1250㎞離れた火山島です。
 その名の通り硫黄ガスが吹き出し、地熱のため地中は高温で40~60度もあります。地形は、高さ169mの摺鉢山があるだけで、全体は平坦になっています。この島を守る兵士にとって何よりも困るのは水がないことです。島には池も川もありません。井戸を掘っても硫黄分多く塩辛い水しか出てきません。そこで、飲料水は雨水にたよるしかありませんが、雨はめったに降りません。

<硫黄島守備隊の日本軍と硫黄島攻撃のアメリカ軍の戦力比較>
            兵力       大砲(陸)    艦砲(海)     航空力(空)
日本軍     2万1152名    23門        なし       75機
アメリカ軍   6万1000名    168門     14250トン   4000機以上


◇あなたの考えを書きましょう。あとでみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちから以下のような意見が出された。
「地上に出たら力の強いアメリカ軍にあっという間にやられてしまう。だから、わざと相手を島に上陸させて、相手が休んでいるときに攻撃しようとした」
「地熱で暑いので体力を温存しようとした。上から爆撃されてもめったにやられることはない」
「栗林中将は命を粗末にしないから長くそしてあまり見つからないように行動して、戦おうとした」
「アメリカ軍は日本軍がいないと思っていて準備していないのでそこを攻撃できる」
「釘付けにすることが大事で、家族への空襲をやめさせたいという気持ちが大きい」
「人数が少ない日本にとっては、モグラ作戦をとればそれが不利ではなくなる」
「この力の差では正面から戦っても絶対に勝てない。地中は探索されにくい」
「少しずつ自分たちの縄張りでじりじりと攻めていける」
「戦力比較を見てのとおり、正面からぶつかればすぐにこてんぱんにやられてしまうので、隠れながら裏を突くしかばかった」

<ワークシート・第4ページ>
★激闘の末、全滅した硫黄島の日本守備隊

 この栗林中将の作戦によって「こんな小さな島は5日で占領できる」と考えていたアメリカ軍のもくろみはもろくも崩れ、なんと36日間も戦闘は続きました。最後は硫黄島の日本軍は全滅してしまいましたが、死傷者の数は負けた日本軍よりも勝ったアメリカ軍の方が多くなってしまったほどなのです。

硫黄島での戦いのようすを写真で見てみましょう。


 最後まで戦い抜いた栗林中将はこの戦闘で死ぬ間際に短歌を作っています。
┌──────────────────────────────────────┐
│  国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき │
└──────────────────────────────────────┘
     *「果たし得で」・・・やるべきことができなかった
      「矢弾尽き果て」・・・武器もなくなってしまった
      「散る」・・・負ける、死ぬ

 この短歌の最後にある「悲しき」には栗林中将のどんな気持ちがこめられているのでしょうか?
 栗林中将は日本のためにあえて長く苦しい戦いを選びました。そもそも、これだけの物量差があるアメリカ軍に勝とうというのはあまりのも難しいことなのです。だからこそ、少しでも生き延びてアメリカ軍を硫黄島に釘付けにして日本本土を守ろうとしたのです。
 栗林中将は国を守るという自分の務めを果たせなかったと言っています。「悲しき」というのはその無念の意味かもしれません。また、多くの部下を亡くしたり、大切な家族にももう会えないという気持ちもそこに込められているかもしれません。
 しかし、この戦いは日本にとって無駄ではありませんでした。この戦いでアメリカ軍は「日本軍は強い。これ以上戦いたくない。なんとかこの戦争を早く終わらせたい」と思わせた、と言われています。


 最後に子どもたちの感想を紹介する。
*日本はもともと小さいですから、アメリカに勝つのは難しいのに日本本土を最後まで守ろうとした栗林中将はカッコイイですね。日本軍は強いと思わせたのはよかったです。
*栗林中将は、日本のために尽くせなかったと言っていますが、ぼくは日本のために十分に尽くしてくれたと思います。本当は5日間の戦争を36日間に伸ばすのはすごいことです。
*現実の戦争では負けてしまったが、日本軍の志と精神が戦争に勝っていたのかな?と思う。
*信じられないような作戦で36日間も相手に戦闘を続けさせたのはすごいことだと思いました。栗林さんの作戦とメンタルに感動しました。
*栗林さんは頭を使って日本を守った。たぶん、日本人は栗林さんのおかげで勇気をもらったと思う。
*戦力比較ではアメリカが圧倒的に強いのに、ここまで追いつめた日本軍はすごいと思いました。栗林中将は日本本土を守ろうと頑張ってくれてありがたく思った。
*日本は強いとアメリカに思わせたことがとてもうれしかった。アメリカは他の国ともつながっていて、その中でも強いアメリカ軍に日本は強いと思わせたことで少しでも他の国の攻撃を防げると思った。
*栗林中将は仲間想いだし、国をとても大切にして、最後まであきらめなかった。だから、アメリカ軍にやられてしまうのは短歌にあるようにとてもくやしかったと思う。

2016.01.13(Wed) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

東京大空襲

 前回の「千人針」に続き、戦時下の国民生活の第2時という扱いとなる。
 じつは「千人針」→「東京大空襲」→次回の「硫黄島の戦い」は3時間でワンセットになる。「千人針」は銃後の国民から戦場の兵隊さんへの思い、「硫黄島の戦い」は戦場の兵隊さんから銃後の国民への思いを学習する。そのキーとなるのが今回の「東京大空襲」の学習である。

<ワークシート・第1ページ>
★下の絵は1945年3月の東京大空襲のようすを描いたものです。気づいた ことを箇条書きで書き出してみましょう。


東京大空襲の絵左

児童からは以下のような気付きが出された。
「勢いよく炎が上がって家が燃えている」
「上から何かが落ちてきている」
「みんな防災頭巾のようなものをかぶって逃げている」
「布団をかぶっている人もいる」
「奥にライトの光が見える」
「何かが地面に刺さって爆発している」
「炎の中に逃げ遅れた人がいる」

なお、次ページの資料で焼夷弾については詳しく説明する。
すると炎がなぜ上がっているのか、火から髪の毛を守る行為などの意味がわかる。

<ワークシート・第2・3ページ>
①B29と焼夷弾(しょういだん)
東京を空襲したのはアメリカのB29(ボーイング29型)大型爆撃機です。このときにB29が落としたのはふつうの爆弾ではありません。焼夷弾とよばれるものです。


B29

焼夷弾

 なぜアメリカ軍は焼夷弾を使ったのでしょうか?アメリカはアリゾナの砂漠に一軒の木造住宅を作り、ある実験をしていました。その実験の連続写真を見てみましょう。

0分
10分
15分
20分


②東京大空襲を生きのびた人たちの証言
「あ、落ちてくる!」                            
 私の一歩前にいた男は、顔をのけぞらしてさけんだ。ごしっ!と耳の破れたような音。地底にひきこまれそうな爆音。あわてて閉じたまぶたの裏に、金色の閃光がはしる。焼夷弾は、落ちてくる-とさけんだ男ののど首に、火をふいてつきささった。その横を走ってきた女の左肩をかすって、電柱にささりこみ、あっというまに、あたり一面を地獄絵図変えてしまった。

 B29が、ガソリンをまきちらしたのは、その後です。爆音が耳をかすめて、頭に、ほおに、さあーッとつめたいものがふれる。はっと気がついてみると、水です。それもへんににおう、とろとろした水、液体です。はじめ雨かと思いましたけど、そのにおいで、すぐガソリンとわかりました。ああ、これで私ら焼き殺されるんだ。死ぬのかな、って思いました。けど、そのとたん、畜生、死んでなるもんかと思い、必死で起き上がろうとしたんですけど、ダメなんです。私の上は、死体だらけ。その死体がつみかさなって、みんなまっくろこげの棒みたいになっているんです。

髪の毛に火のついた人たちが大声でわめき、苦しみながら、のたうちまわる。背中の子どもが、そのとき、ギャーッと、異様な声をあげましてね、あわてて、子どもをおろして胸に抱くと、口の中が真っ赤。いえ、血じゃないの。泣いている口の中に、火の粉が入っているんですよ。火の粉が、のどをふさいでカーッと燃えているんです。私はあわてて、それを指でえぐり出しましてね、子どもを下にうつぶせになって、上にねんねこをかぶりましたが、ねんねこにもすぐ火がついてしまいました。私のまつげは、とっくに溶けてし

③東京大空襲の被害
 日本の首都・東京は、1944年11月24日に初めて空襲されました。その後、1945年8月15日まで110回を越える空襲を受けています。
 アメリカの空襲の最初の目的は製鉄工場や飛行機工場などの軍需工場でした。しかし、最初の22回の空襲であまり効果がないと考えたアメリカは空襲の目的を一般の民間人をもねらう無差別爆撃へと変更したのです。
 1945年3月10日の東京大空襲では、午前0時すぎから2時間半にわたって計334機のB29から1600トンの焼夷弾を投下されました。26万8千戸の家が焼かれ、10万人が焼死、40万人が負傷、被災した人は100万人を越えました。(空襲後の写真を見てみましょう)

被害1
被害2
被害3
被害4


★①~③の3つの資料を読んで、東京大空襲のどこに大きな問題点があると思いますか?あなたの考えを書いて下さい。


児童からは以下のような意見が出された。
「日本は弱いのに民間人とかをねらったから、それが僕の中ではすごく悲しくて切なかった」
「アメリカの空襲が無差別爆撃に変更したのが、問題だと思います。そのせいで小さな赤ちゃんまで被害を受けているからです」
「爆弾は爆発すれば終わりだけど、焼夷弾はいろいろなものに飛び移り、町全体を焼き尽くして、人を最後の最後まで苦しめた」
「B29がガソリンをまき散らしたところ。焼夷弾だけでももう十分被害を受けているのに、さらにガソリンをまき散らすというところがひどい」
「木造だからすぐ燃える、というのが問題点だと思います。もともと木造の家は日本の文化ですからしょうがないのに、そこをねらってくるのはひどいです。それにガソリンをまいて焼死させる発想がむごすぎる」

 ここで戦時国際法の話をした。
 子供たちは戦争にルールがあることを意外に思っている。これは大事な知識だ。この国際法の中には空襲の項目もあり、民間施設を狙うことは法律違反だということが書かれていることを教えた。

<ワークシート・第4ページ>
★横浜もねらわれた空襲
この東京大空襲の後も、空襲は続きました。
3月10日 東京(被災者100万人)
13日 大阪(被災者 50万人)
17日 神戸(被災者 24万人)
19日 名古屋(被災者 15万人)
4月13日 東京
15日 東京・川崎
6月~8月 全国55の地方都市

 わたしたちが住む横浜も、1942年4月18日に初めて空襲を受けました。1945年に入ってから、空襲回数は30回を越えました。
 とくに1945年5月29日の大規模な空襲で、横浜市内は壊滅的な被害を受けました。この横浜大空襲では、B29は517機、戦闘機は100機が飛来し、焼夷弾による約1時間の爆撃と機銃掃射で死者は1万人、被災者は32万人にのぼりました。
 現・京急黄金町駅周辺一帯では、電車から退避中の利用客も住民とともに被害にあい、大勢の人びとが焼夷弾による火災により逃げおくれて焼死しました。空襲警報とともに駅構内に逃げ込んだものと思われ、焼夷弾による火に包囲され、火あぶりとなってしまったのです。
 死体は黄金町駅の道路両側に並べられ、引取者を待っていましたが、初夏に近い五月末のことで、強い日ざしによって死体から油と血が流れだし臭気も出てきたため、やむなく死体は埋葬されました。
また、6月10日の空襲では湘南富岡駅(現・京急富岡駅)に到着した電車が爆撃から逃れるためにトンネル内に待避したところ、トンネルの前後に爆撃を受け、80人が犠牲になっています。


被害5
伊勢佐木町周辺

被害6
空襲上空から見た横浜市 

2016.01.13(Wed) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

千人針

 戦争の「原因」の学習を終えて、ここからは戦争そのものについての学習に入る。
 最初に取り上げるのは「戦時下の国民生活」である。
 ここの学習のポイントは二つあると考えている。
 
 ①第1次世界大戦以降、どの国も「総力戦」になった
 ②つまり、日本の国民は戦地の兵士と一体になって戦った
 
 この授業では①と②を実感させるために「千人針」を中心教材にして教える。

 ワークシートを配布したら<戦時下の国民生活>と板書する。

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は戦争中の国内の生活のようすです。気づいたことを書きだしてみましょう。


勤労動員

学童疎開
千人針を縫う

 児童からは以下のような点が出される。
「女の人が戦闘機を作っている」
「整備しているんじゃないかな」
「ゼロ戦だと思う」
「ランドセルやリュックを背負っているので、登校中だと思う」
「学童専用車と書いてあるので子ども用の電車」
「どこから安全なところへいくのだと思う」
「女の人が何か買ってる?」
「配給で配られているのでは?」

『では、2ページ目を見てみましょう』
 2ページを読むことで勤労動員と学童疎開の画像は意味がわかる。残る1枚は「千人針」のお話と関連することを告げてから読む。

<ワークシート第2ページ>
★戦時下の国民生活

この時代になると、どの国も戦争は軍隊だけで戦うものではなくなっていました。「総力戦」とよばれ、国民の生活や教育、文化などすべてをかけておこなわれるようになっていました。
戦争によってものが不足し、政府は消費節約や貯蓄増強を呼びかました。

戦局が悪化すると、労働力が不足したため多くの生徒や学生が勤労動員されました。また、金属の不足のためにお寺の鐘や銅像のようなものも戦争のために供出されました。

サイパン島がアメリカ軍の手に落ちると、ここを基地にして日本本土に大型爆撃機による空襲が始まりました。このために子どもたちは危険を避けるために親元をはなれて地方に疎開しました。これを学童疎開と言います。

★千人針

 千人針は、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作るもので、お守りのようなものです。これは「武運長久」と言って兵隊さんの戦場での幸運を祈って作られました。
 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつぬって、結び目をつくってもらいます。特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ました。これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかって、兵隊さんが生きて帰ってくるのを祈るものです。
 できあがった千人針を、兵隊さんは銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりして、大切に身に付け続けていました。


千人針1

千人針を見る


<ワークシート・第3ページ>
★千人針を作った当時の人の気持ちを考えてみよう

戦争中の国民生活は苦しいものだったに違いありません。とくに戦争も末期になると自分たちが生きていくだけで精いっぱいの状態だったことが想像できます。
 しかし、そんな中でも、当時の女の人たちは戦地で戦う兵隊さんのために千人針を作りました。いろいろ種類の千人針を見て、当時の人たちのどんな気持ちが込められているか考えてみましょう。



千人針2


千人針3


千人針4


千人針5

児童からは以下のような予想が出された。
*Aについて
「虎は千里を・・・の言い伝えがあるので、それを絵の形にして生きて帰ってほしいと思った」
「虎は強い動物だから戦闘に勝てるように、虎のように強くなって欲しいと考えた」

*Bについて
「五円玉を付けているから、これからも御縁が続きますように、帰ってきて欲しいと言う気持ち」
「振り子のように右いってもまた左に戻れるから、それで国に戻ってこれるようにと考えた」
「お金を付けてお守りの力をプラスした」

*Cについて
「頭を守るために帽子の形にした」
「袋状になっていて家族の写真などを入れていたのではないか」
「生きていくためのお弁当を包むものにした」

*Dについて
「子供用の服の形にして家族のことを思い出してもらった」
「防弾チョッキみたいなものでこれを着て銃弾よけにした」

 Aについては虎の言い伝え,Cについては帽子型にしたこと、Dはチョッキにしたことが正解であることを伝え、どれも無事に帰ってきて欲しいと言う気持ちが込められていることを話す。
 ただし、Bについては正解を保留して次ページを読む。

<ワークシート・第4ページ>
★千人針に込められた思い

◇ある兵隊さんのお話・その1
千人針の形は腹巻、チョッキ、帽子等いろいろです。とにかく千人の女が一針ずつ縫いつづる、その真心が天に通じて神や仏のお守りが得られると信じられていました。
私の母も二人の息子を戦地に送ったため、千人針を作ってくれたものですが、当時の私の村は家も少なくて千人の女性の手はなかなか得られず、そのために母は松江市に野菜などを売りに出かけるときには必ず千人針を持っていって、その売り先の家の人たちにお願いしてせっせと作ってくれたことを覚えています。

◇ある兵隊さんのお話・その2
昭和14年1月10日に歩兵36連隊に入隊して、中国に上陸したのち昭和17年に帰国するまで、千人針の帽子とチョッキは肌につけ続けました。戦いで退却するときに、川を渡るとき恐怖を感じましたが、その恐怖を救ったのがこの千人針でした。

◇ある女の人の話
チョッキにも腹巻にもみんなしました。それにちょうど心臓のあたりに五銭銅貨を、死線を超えるということで、十銭は苦戦を越えてといわれて付けたのです。主人は、どうも南方へ行くらしいよ、と言うもので、私はもう夢中でたくさんのポケットをつくりました。ミシンでザァーッと縫って、千人針ができたあとで、またポケットをあちこちに付けました。


 Bについてはこの文章だけではわかりにくいので板書しながら説明を加えた。

 死線→四銭→4線  五銭→5銭  4より1つぶん多くなる=越えている→死線を越える
 苦戦→九銭→9銭  十銭→10銭 9より1つぶん多くなる=越えている→苦戦を越える

 児童の感想を紹介する。
*自分が生きていくのも大変だった時代に女性が千人針を一生懸命作ったのは、絶対に帰ってきて欲しいという強い願いを兵隊さんに伝たかったのだと思う。兵隊さんもお守りとして家族といっしょにいるような心強いものだったんだと思います。
*女の人は、兵隊さんが生きて帰ってくることを誰よりも祈っていたと思った。
*千人針にはいろいろな気持ちや願いが込められていて感動した。これほど、願いや気持ちが込められていたのなら兵隊さんも安心できていたと思う。
*戦争中でも千人針を作って兵隊さんにもたせるということはその兵隊さんたちを大切にしているのだと思う。
*瀬人針は人の命を守るために作られたのであり、とてもいいと思う。ただ、作るのではなくもらった人の気持ちや早く帰ってきてという意味が込められていてすごくいいと思う。漢字にも意味があり、これならずっと頑張っていられる。
*人々の願いはすごいものでした。他にもいろいろな工夫がされていると思います。人々の思いは苦しい生活よりも強いです。
*今の日本にはない優しさがあると思った。当時の日本人は戦争に行く人全員を待っていたんだということが伝わってきた。

2016.01.09(Sat) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

日米開戦

 今回が「戦争の原因」を探る授業の3回目・最終回となる。
 いつものように「日本の宿命」と「課題」を掲示しておく。前回と前々回の「戦争の原因」の2つのキーワードである「満州国」と「日中戦争」の2つを確認する。これによって日本とアメリカ・イギリスは対立するようになった、というポイントである。

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は昭和初期の東京・銀座と大阪・阪急デパート前の写真です。
 私たちが今の世の中で目にする風景と同じところを見つけてみましょう。


昭和初期の銀座
昭和初期の大阪

 児童からは以下のようなものが出される。
「電線がある」
「同じだけど電信柱がある」
「車が走っている」
「バスがある」
「大きなビルが建っている」
「工事現場がある」
「クレーン車みたいなものがある」
 おおよそ電気関係、乗り物関係、建設関係が出てくる。
 そこで、次のように簡単に尋ねる。
『車を作るにはどんな原料が必要ですか?』
「鉄」「タイヤはゴムでできている」
『では、車を動かすにはどんなエネルギーが必要ですか?』
「ガソリン」「石油」
 同じように『電気を作るにはどんなエネルギーが必要ですか?』『建築現場を見てください。ビルの骨組みは何でできていますか?』等を聞く。
 ここで鉄・ゴム、そして何よりも石油が重要なものであることがわかる(この実践の導入は東京の佐藤民男氏の追試である)。

<ワークシート・第2ページ>
★昭和初期にも必要だった石油エネルギー
現代の私たちの生活にとって石油はなくてはならないエネルギーです。
自動車や船を走らせ、飛行機を飛ばし、火力発電によって電気を作り、工場の機械を動かしているのは石油です。石油がなくなれば交通も産業も家庭生活もストップしてしまいます。この状況は100年前の昭和初期もまったく同じでした。
 さて、現代の日本は、石油の80%以上をサウジアラビア・アラブ首長国連邦・カタールなどの中東の国から輸入しています。しかし、昭和初期にはまだ中東で石油は発見されていませんでしたので、その80%をアメリカから輸入していました。

★ブロック経済に苦しめられる日本
 1930年ごろから世界は自分の国の産業を守るために高い関税をかけて他国の商品を閉め出す「ブロック経済」を取るようになっていました。これは原料となる資源が自分の国の中で取れて、国の中で売れる国はいいのですが、資源のない日本にとっては貿易で外国に商品が売れなくなるのでたいへん苦しいものでした。日本はたった1年間で貿易量が半分近くに減ってしまったと言われています。

★日本への経済圧迫
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1939年│7月│*アメリカは日本との通商航海条約をやめることを通告 │
├─────┼──┼─────────────────────────────┤
│ 1940年│5月│*イギリスは日本向けゴムの輸出を全面禁止 │
│ │6月│*アメリカはインドシナ半島産ゴムを大量に注文して日本のゴ │
│ │  │ ムの注文を妨害 │
│ │  │*オランダはインドネシア産の石油を日本に売ることを断って │
│ │ │ きた │
│ │ │*アメリカは日本へのくず鉄(鉄の原料)と石油の輸出を制限 │
│ │7月│*アメリカは飛行機用ガソリンの日本方面の輸出を禁止 │
│ │  │*アメリカはくず鉄の日本への輸出を全面禁止 │
│ │9月│*アメリカは鉄鉱石・鉄鋼・銅・スズ・ニッケルなどの日本へ │
│ │ │ の輸出を禁止 │
│ │12月│*イギリスはタイ産の米を大量に注文して日本の米の注文を妨 │
│ │ │ 害 │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年│7月│◇日本はインドシナ半島の南で取れる石油をフランスから買う │
│ │ │ 約束をした。そこで、他の国がこれを妨害しないように軍隊 │
│ │ │ を派遣した(南部仏印進駐)。 │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年│7月│*南部仏印進駐に反対するアメリカはアメリカ国内にある日本 │
│ │ │ の資産を凍結した(アメリカにある日本の政府や会社のお金 │
│ │ │ を使うことを禁止すること。いろいろな国との仕事や貿易な │
│ │ │ どができなくなります) │
│ │ │*同時にイギリス・オランダも資産を凍結した(アメリカ・イ │
│ │ │ ギリス・オランダは東南アジアには自分たちの植民地がある │
│ │ │ ので、日本の軍隊がここへ出てくると自分たちの植民地が危 │
│ │ │ なくなる・・・と考えた) │
│ │ │*アメリカは日本への石油輸出を全面禁止した │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘


<ワークシート・第3ページ>
★当時の総理大臣になって考えてみよう

アメリカ・イギリス・オランダの資産凍結により、日本は世界のほとんどの国と貿易ができなくなってしまいました。残っているのは満州・中国・インドシナ半島のフランス植民地・タイだけです。
石油のたくわえは1~2年ぐらいしかもちません。当時の日本の人口は約7000万人ですが、もしこのままの状態が続けば日本人の1000万人が仕事を失います。失業者の家族をふくめれば日本人の約半分が生きていくことができなくなってしまうのです。また、石油がなければ戦車や軍艦、戦闘機も動かなくなって軍隊は使えなくなります。こんな時に外国に攻め込まれたら・・・。
ここまで、日本はアメリカとくりかえし話し合いを続けてきましたが、状況を変えることはできませんでした。

当時の政府の中には次の3つの考え方がありました。あなたが当時の総理大臣ならどの意見に賛成しますか?

◇第1案:アメリカとの話し合いを続ける
とにかく話し合いを続けるべきだ。もし、話し合いが決裂してもアメリカ・イギリスとの戦争は絶対に避けなければならない。日本の国力を考えると戦争をして勝てる相手ではない。とにかく日本の国力が落ちても、戦争をするよりはましだ。くやしいがいまの状態をただひたすらがまんしよう。国民の中にも死者が出るかもしれないが耐えてもらうように頼むしかない。

◇第2案:すぐにアメリカと戦争する準備をする
話し合いを続けてもアメリカが自分の考えを変える保障はない。そんなことをしているうちに石油はなくなってしまう。こんなときにソ連が満州に攻め込んできたら戦うことはできない。そして、アメリカも万が一に備えて戦争の準備を進めている。時間がたてばたつほど日本はどんどん不利になり危険が増えていく。今、決断すれば強いアメリカに勝てるかもしれない。このまま死を待つのはごめんだ。

◇第3案:話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備をする
 戦争をすぐに決めた方が勝てる可能性があることは認めるが、まだ望みを捨てずに話し合いを続けるべきだ。たしかに少々の不便はあるが話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備も並行して進めることにしよう。もしかしたら、日本が戦争の準備をしていることを知ったらアメリカも話し合いでの意見が変わってくるかもしれない。ただし、期限を決めてその時点で話し合いが決裂したら戦争を覚悟するしかない。

◆一つ選んであなたの考えを書きましょう。後で話し合ってみましょう。


 児童の意見分布を見てみよう。矢印の前が討論前、後が討論後の数である。

1組・・・第1案 1人→0人   第2案 4人→6人   第3案 21人→19人
2組・・・第1案 5人→4人   第2案 2人→2人   第3案 22人→23人

<第1案に賛成>
「死者が出てしまうのもいやだけど、すぐに戦争をしても勝ち目はない。戦争の準備をしているのをアメリカが知ったら逆に攻め込まれてしまうかもしれない」  
「アメリカ・イギリスは強いから、やっても勝てないと思うし、勝っても日露戦争の時のように日本の限界が来てしまう。資源がない日本は話し合いを続けるしかない」

<第2案に賛成>
「時が経つに連れて石油はどんどんなくなり、日本も弱くなっていざ戦争ろいうときに勢力が弱くて負けてしまうかもしれないから、まだ石油があるうちに戦っておいた方がよい。話し合いをしている間にたくさんの人が死ぬのはいやだから」
「話し合いを続けていてその間に日本人が苦しむと内乱などが起こるかもしれない。石油がある1~2年の間で戦争をして、それ以上続いたら負けを認める。それしか方法はない。もし、アメリカを倒したら他の国も認めてくれるかもしれない」

<第3案に賛成>
「第1案と第2案は危険すぎる。第2案ではアメリカには勝てないので、準備中のそのちょっとの油断をつかれて植民地にされてしまう。第1案は無理矢理話し合いを続けていると、そのうちに犠牲者が増えてしまう。準備さえしておけば倒せる可能性も広がる」
「もしかしたら、話し合いが成功するかもしれないのに、今石油を使えば国民はもっと苦しくなってしまう。1案はやられっぱなしなので悔しい」
「東郷平八郎じゃないんだからアメリカが戦争してくるか、貿易してくれるか、そんなのわかるわけがないんだから、話し合いを続けながら万が一に備えて戦争の準備をするしかない」
「1案で死者を出してしまったら、話し合いに失敗して戦争になったときと同じになる。2案だと無闇に突っ込んでいってしまったらあかえって多くの死者を出してしまい、大戦争になる可能性がある。望みを捨てない3案がいい」
「すぐにあきらめるのではなく、まずはもう一度話し合ってみる。しかし、話し合いがうまくいかず、もしかしたら攻撃をしてくるかもしれない。そのときのために戦争の準備をしておく。両立させておけば、とりあえず間違いはない。安心できる」

<ワークシート・第4ページ>
★アメリカとの戦争を決めた日本

政府は会議でこれからの方針を第3案に決めました。
この苦しい状況をなんとかするためにアメリカとくりかえし話し合いを行いました。しかし、残念ながら進展はありませんでした。
1941年11月、アメリカは「ハルノート」という次のような提案を日本につきつけました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①日本は中国とインドシナから軍隊と警察を引き上げるべし。 │
│ ②日本は中国のいくつかある政府のうちアメリカが支援している政府のみ認めよ。 │
└──────────────────────────────────────┘
日本がこの2つを認めれば石油の輸出を再開するというのです。しかし、この2つを認めると言うことは次のことを意味します。
┌──────────────────────────────────────┐
│ *日本は中国にある権利と満州の権利をすべて捨てなければならない。 │
│ *これからは石油を売ってほしければアメリカの言うとおりしなければならない。 │
└──────────────────────────────────────┘
これは、ようやく世界の大国と肩を並べられるようになった日本に対して「すべてを捨てて日本列島に引っ込み、70年前の明治維新のころの日本に戻れ」と言っているのと同じです。独立国・日本として、これまで先輩たちが苦労して築き上げてきたものをすべてあきらめることなどとてもできません。
 中国と満州にいる日本人の生活はどうなるのでしょう? 
 しかも、本当に欲しい分だけアメリカは石油を売ってくれるのでしょか?
 この提案を承認したら、苦しんでいる国民をさらに苦しませることになってしまいます。
 「ハルノート」を読んだ当時の東郷外務大臣は「目の前が真っ暗になるほど失望した。長年の日本の苦労や犠牲をすべて無視して、東アジアの大国になった日本に対して持っているものをすべて捨てろ、と言うのだ。これは日本に自殺しろと言っているのと同じだ」と言っています。
日本政府はこの提案を「最後通告」と受け止め、アメリカとの戦争を覚悟するしかありませんでした。


 児童の感想を見てみる。
*自分で総理大臣の立場になってみたら、かなりのプレッシャーを感じた。このことを決めるのはとてもよく考えなければならないと思った。
*今日の学習で、日本は他の国から貿易できないようにされて、これ以上発展するな、と言われているように感じました。はじめは日本が進歩したから戦争をしたのかと思ったけど、日本は仕方なく戦争になったんだなと思いました。
*アメリカはひどすぎると思います。戦争を覚悟するのも無理はないと思います。アメリカなどの大国と戦争すれば負けるのは目に見えているのに・・・。どちらを選んでも日本が負けるなんて不公平すぎます。最低!
*第3案に意見を決めて苦しい状況を進展させようとしたときに、アメリカから日本にとって厳しい通告をされて戦争になってしまったのは、当時の日本にとってしかたがないことなのかなと思いました。石油1~2年分で戦争ができるのか、心配になりました。
*アメリカはいつもずるい!ずるすぎますよ。自分たちが強いからって何を考えているんでしょうか!負ける日本!がんばれ日本!です。いつか日本がアメリカと全く同じに肩を並べられるようになることを願っています。
*日本はアメリカと戦争をするしかなくなったけど、日本はアメリカの考えにはまってしまってついに戦争をするしかなくなってしまった。
*アメリカは、今と違ってけっこう意地悪ですね。それでも、昔から積み重ねてきた日本の苦労をけっして無駄にしないぞ!という日本の意思がすごいと思いました。
*日本だけなぜこんないじめを受けるのでしょうか?大国と肩を並べるということはたいへんなことでもあるんですね。
*アメリカとイギリスはとてもひどいと思いました。(いじめ!)せっかく、今の日本を築き上げてきたのに、それが、すべて水の泡になるのは最悪だと思いました。それほど、世界は厳しいんだなとわかりました。
*アメリカのルーズベルトさんも、アメリカの人たちも「武士道」を読んで「日本はすごい」とか言っていたくせに、日本に対してこの態度はなんだ!ペリーの時代から日本と仲良くしていたくせに!浮気か!たるんどる!
*負けてしまうのはわかっていたけれど、戦争になって仕方がないと思う。もし、アメリカの言うことを聞いていたら日本はアメリカの植民地になり、もっとたいへんなことが起こったに違いないと思います。
*日本はこのときになんでこんないじめられてたんだろう?でも、ここまで日本はがんばってきてくれたから本当に感謝しなければいけない。日本って今でもギリギリの国?
*今日の学習では、日本の苦しみと覚悟を知ることができて、とてもうれしいのと悲しいのが混ざってあまりよくわからなかったです。でも、今日の学習は将来絶対に役立つと思います。

2015.12.20(Sun) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |