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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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北条時宗(3)

 第2時は「元寇」という問題に北条時宗になって考えてもらう学習である。
  
 「今日は北条時宗になって考えてもらいます。そのときのテーマはこれです」
 黒板に<国防>と書いたカードを貼る。
 「じつは元軍は2回攻め込んできています。1回目と2回目の間は7年間です。すでに前回の勉強で調べましたが、1回目の戦い は苦戦でした。2回目はこれを反省して迎え撃つ必要があります」
 <1回目→反省・2回目>と板書する。
 「そこで今回の学習のめあてはこうなります」
 めあてを掲示する。
 <時宗はどんな作戦や準備が必要だと考えたのだろうか>
 
<ワークシート 1ページ目> 
□この授業ではみなさんに北条時宗になって考えてもらいます。
 そこで、3つのエピソードを読んで北条時宗がどんな人だったのか考えてみましょう。

◆エピソード① 18歳で執権になった
 時宗は10歳のときに小侍所という所で幕府の仕事を手伝うようになりました。
 この時宗の小侍所入りは、将来の執権になるための経験を積ませるためだったと言われています。また、7代執権・北条政村のときには14歳で執権を助ける仕事につきました。若い頃から日本のリーダーになるために勉強していたのです。
 そして、わずか18歳で8代執権になりました。

◆エピソード② 弓矢が得意だった
時宗は子どものころから弓矢が得意でした。
 笠懸(かさがけ)という馬を走らせながら30メートル離れた的を射る大会が行われたときのことです。14人の武士が出場していましたが、的が小さいものに変わるとみんなチャレンジしなくなってしまいました。これを見た北条時頼は自分の子どもである11歳の時宗を呼び出して、チャレンジさせました。
1回目は馬のスピードを出しすぎて矢を射る間がなく、失敗しました。父の時頼は「馬にかまうな!ただおのれの腕を信じろ!」と声をかけました。すると時宗は馬のスピードに気を取られることなく矢を放ったので見事に的を射抜きました。

◆エピソード③ 僧を先生として学んでいた
時宗は少年時代から建長寺の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)という僧を先生として学んでいました。その後、元寇が起こったころ、新しい先生を南宋から招きました。無学祖元(むがくそげん)という僧です。
無学祖元は自分の国・南宋が元によって滅ぼされるのを目の当たりにしていました。自分自身もあやうくモンゴル兵に斬られそうなりましたが「お前の刀で私の魂は切れはしない!」と言い放って兵士を退散させています。
この先生から時宗は「莫煩悩(ばくぼんのう)」という言葉をもらっています。これは「あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい」と言う意味です。

□エピソードを読んでみなさんはどんな感想を持ちましたか?


 簡単に児童に感想を聞いてみる。多かったのは14才で仕事に就いたこと、18才で日本のリーダーになったことについての驚きである。

<ワークシート 2・3ページ目>
◆文永の役を終えて報告書が届いた・・・それを読んだ時宗は?

以下の報告書は架空のもので先生が当時の鎌倉武士になったつもりで書いたものです。
日本軍に大打撃を与えた元軍はなぜか襲来した翌日には帰ってしまいました。さらに帰りの海で嵐にあって大きな損害が出たようです。
 時宗はひとまずは安心しました。しかし、再びの襲来にそなえて準備が必要です。
 今回の戦いについての報告書が提出されました。これを読んで次の対策をねる必要があります。

執権 北条時宗様

今回の戦いについて報告します。

(1)元軍と日本軍の構成を比べる
 敵はモンゴル兵・約2万人と高麗兵・約8千人で構成されていました。ちがう種族が一つの軍隊の中にいるわけです。船は約900隻で、日本にある船よりも大型です。上陸するときは沖で小型の船に乗り換えてやってきます。
わたしたち日本軍は九州に住む御家人で約1万人です。リーダーがはっきりしていなかったので、とりあえずこの日は少弐景資(しょうにかげすけ)さんがリーダーになりました。

(2)戦法のちがい
戦い方の作法があまりにもちがうので困りました。
私たちは一騎打ちですが、元軍は集団戦法です。こちらが正々堂々と名乗りを上げて一騎ずつ突っ込んでいくと、元軍の集団はサッと左右に開いて包み込み、大勢で囲んでやられてしまいます。私たちも個人個人ではがんばりましたが、この集団戦法に圧倒されました。なお、元軍は銅鑼(どら)や太鼓(たいこ)の合図で攻めたり、引いたりを兵士たちに伝えていました。

(3)武器のちがい
①てつはう
てつはうは丸い鉄製の入れ物に火薬をつめて飛ばします。すると、爆発して耳が聞こえなくなるほどの大きな音で爆発します。私たちも耳が聞こえなくなりますが、馬が驚いて暴走してしまうのです。銅鑼や太鼓の音でも馬が驚いています。
②弓
敵の弓は短い短弓(たんきゅう)です。これは私たちの使う弓とちがって、速く撃てるのでまるで雨が降ってくるようです。さらに矢には毒がぬられています。

(4)早く退却してしまった
こう言ってはなんですが景資さんのお父さん・少弐資能(すけよし)さんは、すぐにむかし中大兄皇子が作った水城(みずき)まで退却しました。ここなら敵を防げるからです。しかし、周辺の民は「武士のくせに臆病だ」と言って批判しています。また、大友頼泰(よりやす)さんの軍もすぐに退却してしまいました。

(5)元軍の進行経路
右の図を見るとわかりますが、 元軍は上陸しやすい今津・百道原(ももちはら)・息ノ浜などに攻め込んできています。


文永の役戦況図

(6)わたしたちの戦いぶり
たしかに全体としては戦いに敗れたと言うしかないでしょう。
 しかし、少弐景資さんは元の副元帥に矢を命中させ重傷を負わせました。また、菊池さんや竹崎さんもがんばりました。一騎で突っ込んでいくのはあまりいい方法ではありませんでしたが、あれを見てわたしたち日本軍の武士たちの勇気には驚いていました。
 敵はわれわれの意外な強さに驚いて、立て直しの必要を感じ、自分の国へ戻ろうと考えたようです。帰るときに海で嵐にみまわれたのです。

 以上、報告します。

◆これを読んだ時宗は「再び元が攻めてくる前にこれを防ぐ体制を作らなければ」と思ったにちがいありません。
元軍を撃退するためにはさまざまな準備・作戦が必要です。時宗になったつもりであなたの考えを書いてみましょう。
 後でみんなで話し合ってみましょう。


 時宗になった子どもたちは報告書を資料にしていろいろな観点から次の策を考えた。
 以下、代表的な意見を見てみる。

<準備すべきこと>
◇設備について
*高さ2メートル以上で船が入ってこれないように壁を作る。
*砂浜に落とし穴を仕掛ける。
*相手の船が入りこんできやすいところに堤防を作る。
*水城のような設備を港に合わせて作る。
◇馬について
*馬は音に驚いてしまうので、どらや太鼓の音を聞かせて慣れさせる。
*馬の耳を守るために耳を塞ぎ、ジェスチャーで合図する。
*馬を使うのをやめる。
◇人について
*もっとたくさんの兵士を集める。
◇神や仏への祈りについて
*嵐が来るように願う。

<考えるべき作戦>
◇リーダーについて
*リーダーをはっきりさせてリーダーの合図で防いだり攻めたりする。
*日本も個人ではなく集団で戦う。
◇武器について
*日本も短弓で戦う。
◇船について
*火を放ち船を沈める。
*日本も船を増やして船で戦う。
◇戦法について
*上陸しやすい場所の守りを固める。
*上陸する場所で待ちかまえて乗り換えようとする所で戦う。
*谷までおびき寄せ上から弓矢で攻撃する。

 児童の意見は当時の時代状況を踏まえたリアルのものであり、歴史的事実と重なるものが多い。
 「みんなの意見はすばらしいです。当時の時宗が採用したと思われるものもたくさんあります。では、実際はどうだったのか見てみましょう」

<ワークシート 4ページ目>
◆時宗はどんな準備をしたか?
①石でできた高さ2メートルの防御用のかべ(防塁・ぼうるい)を作った。
②こちらから船で高麗へ攻め込む異国征伐を計画した(しかし中止された)。
③リーダーが必要なので九州方面の守護を新しく北条氏の武士を中心に交替した。
④情報が京都や鎌倉に速く伝わるように関所を停止した。

◆弘安の役はどうなったか?

弘安の役戦況図

予想通り元軍は7年後に再びやってきました。なんと今度は14万人(前回の4倍)の大軍が東路軍と江南軍の二手に分かれて日本に向かってきました。
夜中に九州に到着した元の東路軍は砂浜に作った防塁に驚き、海の沖合にとどまって攻めてきません。日本軍は小舟で元軍の船に夜襲をしかけました。不意をついて敵の船に乗り込み、斬り回ってから火をつけるのです。元軍は夜襲に手こずり、守りを固められた正面からの上陸をあきらめ、防塁のない志賀島へ上陸しました。これに気づいた日本軍は通り道になる海の中道で元軍を必死でくいとめ、元軍を突破させませんでした。
こうして一進一退をくり返すうちに、なかなか突破できない元軍の船の中で病気がはやり始めました。暑い夏、せまい船内、飲み水・野菜の不足などで病気が広がり3000人以上が倒れたのです。
 こうして元軍はついに上陸をあきらめて志賀島から去っていきました。一度、後退して遅れている江南軍と合流しようと考えたのです。しかし、合流した元軍を大型の台風が襲い、元軍は壊滅しました。


 子どもたちは自分の意見が歴史的事実として確認される「ほんとなんだ」と感動の声を漏らしていた。
 なお、以下の画像も弘安の役の説明の中で画像として見せた。
 ①防塁
  正面から見たもの、後ろから見たもの(後ろからは登りやすくなっている)、上から見たもの(子どもたちは意外に長いことに驚いていた)、とうじの蒙古襲来絵詞の中に描かれたものなど4枚。

防塁(前)
防塁(後)
防塁(上)
蒙古襲来絵詞・防塁

②小舟での襲撃
 鎌倉武士たちが元軍の船に小舟で襲撃しているもの。

蒙古襲来絵詞・小舟

 最後に子どもたちの感想文を紹介する。

*私たちの考えが本当に使われていたことに驚いた。元軍が壊滅してよかったと思った。日本は台風が来るように祈るところが仏教と関係あるのだろうか?

*1回目は元軍に大きなダメージを与えられたけど、2回目で元軍の攻撃を防いだ日本軍や北条時宗は頭がすごくよかったと思う。

*1回目の失敗をもとにして2回目に勝ったので「失敗は成功のもと」ということわざ通りだなと思いました。時宗やこの時代の武士たちはとても学ぶ力があると思いました。

*やはり予想していたのと同じだったので防塁を作っておいてよかったと思います。友だちの意見の中でリーダーをはっきりさせるというのがよかったと思います。本当に弘安の役をやっているような気がして楽しかったです。

*北条時宗が関所を停止したことに驚きました。また7年後に備えて防塁を作ったり、リーダーをはっきりさせるなんてすごい!台風も日本の味方ですね。日本最強!

*意外と時宗も運がいいと思いました。2回も元の船を嵐で沈めるなんて、卑弥呼様と同じ能力かなぁと思いました。

*北条時宗になった考えたとき、友だちの考えがたくさん出て、こんな考え方もあるんだなぁと思いました。日本は敵の戦略に気づいて海の中道で必死になって戦って敵をくい止めたのもすごいなぁと思いました。

 感想文を見るとどれも時宗や当時の鎌倉武士への共感が見られる。
 なぜか?
 子どもたちは時宗という当時のリーダーの視点で元寇を見ている。それはこの元寇を我がこととして受けとめたと言うことである。 傍観者的に歴史を見ているのではない。日本人として元寇を見ているのである。それが感想文に現れている。
 
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2015.07.18(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

北条時宗(2)

 第1時の学習は「元寇」についてのアウトラインを知り、調べることが目的である。

(1)鎌倉幕府の変化を知る
 前時までを振り返り、以下のような説明をする。
 ①「鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなって、頼家・実朝と3代続いたところで源氏は滅亡した。そして、その後は北条氏が「執権」  という地位について鎌倉幕府のリーダーとなりました」
 ②「今日からはその第8代執権の北条時宗の勉強をします」
 ③時宗の肖像画を黒板に掲示する。
  「時宗が執権の時に大きな出来事が起きました。外国が日本を侵略してきたのです」
 ④「元寇(蒙古襲来)」と板書する。

(2)元寇ついて調べて、発表する
 蒙古襲来絵詞の最もよく知られた場面(元軍のてつはうに驚く馬に乗っている竹崎季長のシーン)を掲示する。

蒙古襲来絵詞・竹崎季長

 「この絵を見て気づいたことをノートに書きましょう」
 その後、気づいたことを互いに発表し合う。
 「では、教科書・資料集などを使って元寇についてもっと調べてみましょう。わかったことはノートに箇条書きで書き出しましょう」
 これも発表させる。
 これらの学習で元寇についての基礎情報が得られる。 

(3)先生のお話を付け加える
 以下のことを付け加える。
 ①最大版図はユーラシア全体に及んだモンゴル帝国の巨大さ。日本の近くでは高麗、南宋も支配された。

 モンゴル帝国図

②後の世に恐ろしいものという意味で「ムクリ・コクリ」という言葉が残された。

(4)教科書穴埋めプリントをする

2015.07.18(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

北条時宗(1)

 元寇はわが国が歴史上最初に受けた外国からの「侵略」である。
 これに異論のある人はないだろう。もし当時の鎌倉武士が元軍を撃退できなければ今頃日本は元の属国になっていた可能性もある。
 つまり、元寇はわが国最初の「国防」事案である。
 かつて、中大兄皇子が白村江の戦後に大宰府に水城を造り、首都を近江へ移転したのも「国防」ではあるが、直接日本の国土へ侵入してきたことを考えれば元寇の方がはるかに重大と言える。
 しかし、これまでの元寇の実践では元軍の敗因を台風という自然災害によるものであることを強調したり、元軍の人種構成の複雑さや準備期間の短さなどに着目させて元軍側の内部崩壊に求めることが多かったように感じている。また、恩賞に不満を持った竹崎季長による鎌倉幕府への談判をメインに扱うという展開もよくある。
 これらが間違っているわけではないが、ここには自国の「国防」という観点がない。直接的な侵入を受けたときに、私たちの先祖は手をこまねいてなすがままになったわけではないし、無能だったわけではない。では、どうしたのか。子どもたちに自分で自分の国を守った先人の業績を体験してもらう必要があるだろう。
 この実践では元寇が2回あったことに着目させる。
 1回目の文永の役はこれといった準備もなく迎え撃つことになった。ゆえにいくつもの日本軍側の弱点があらわになった。2回目の弘安の役は7年後である。当時のリーダーがこの7年間を無駄に過ごしたとは思えない。北条時宗は、当然1回目の戦闘を反省して準備したはずである。ここをシミュレーションさせたい。
 元軍との戦闘を詳細に辿ると日本軍の勝利は決して偶然や元軍側の原因によるものだけではない。鎌倉武士はいくつもの準備を重ね、地の利を生かした作戦面でも負けてはいない。しかも、命をかけて戦っている。むろん、暴風雨や相手側の事情も勝利に大いに関係してはいるが、それを割り引いても私たちの先祖である鎌倉武士の奮闘は称賛されるべきものである。
 700年前に祖国を守った名もない武士たちへのレクイエムとして授業を行いたい。

2015.07.18(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

源頼朝(3)

 第2時である。
 まずは下の画像を大型TVの画面にに映す。

洞窟の頼朝

 児童が興味を示したところでいつものように4ページ立てのワークシートを配布する。

<ワークシート1ページ目>
◆上の絵を見て気づいたことを箇条書きで書き出しましょう。あとでみんなで話し合いましょう。なお、真ん中の立派なかぶとをかぶっているのが源頼朝です。

 
 児童は画像を見ながらワークのノート欄に箇条書きで書き込み、発表する。なお、画像は前田青邨画「洞窟の頼朝」である。
 主に以下のようなものが発表された。

*みんな鎧を付けている
*家来に囲まれている
*刀を持っている
*坐って何か話し合っている
*暗いので夜?
*一人だけ頼朝に礼?をしている
*一人を除いて全員視線が同じで右方向

 発表が終わったらこの絵は頼朝が石橋山の戦いでさんざんに敗れて逃げまどい、洞窟に隠れているところであることを話す。
 また、意見の中に出てくる「家来」に関する意見を取りあげ、頼朝に味方する関東地方の武士がたくさんいたことを話す。なお、このときに画像を切り替えて関東武士団地図を映す。地図上の武士団の名前を一つ一つ追っていくだけで頼朝の家臣の多さを実感できる。

関東武士団地図

 ここで今日のメインの課題を告げる。
「今日の授業ではみなさんにズバリ源頼朝になって考えてもらいます」

<ワークシート2・3ページ目>
◆頼朝の「決断」を体験しよう!
 今回はみなさんにズバリ!源頼朝その人になってもらいます。そこで、頼朝の誕生と少年時代、そして平氏打倒までの物語を読んでみましょう。

その1:頼朝が生まれた
頼朝のお父さんは源義朝(みなもとのよしとも)という強い力をもった源氏のリーダーです。お母さんは熱田神宮という大きな神社の娘として育った人でした。お母さんはたいへん家柄の高い人でしたから、頼朝は京都の貴族といっしょに将来の源氏のリーダーとして大切に育てられました。

その2:少年時代の苦労
その頼朝が13歳のときに平治の乱といういくさが起こりました。頼朝も参加したこのいくさでお父さんの義朝はライバルの平氏のリーダー平清盛に敗れ、一族をすべて殺されてしまいました。頼朝だけは運よく命を助けられましたが、都から遠い伊豆(いまの静岡県)へ流されてしまいました。それからなんと20年間もさびしいところで平氏の家来に監視されながらの生活が続きました。

その3:文覚上人の説得
20歳をすぎた頃、もとは武士でいまは僧となっている文覚上人が頼朝のもとをたずねてきました。文覚上人はお父さんの髑髏(しゃれこうべ)を見せながら、平氏が都で横暴なふるまいをしていることを伝え、源氏のリーダーとして平氏を打倒するべきだと話したと言われています。

その4:石橋山での敗戦
その頃、天皇の親戚である以仁王が「平氏打倒のために立ち上がれ」という秘密の命令を出しました。この命令はひそかに頼朝のもとにも届けられ、ついに平氏打倒のために立ち上がりました。頼朝は、北条(ほうじょう)氏・土肥(どい)氏・佐々木(ささき)氏などわずか30人の味方とともに伊豆に住む平氏の家来のやしきを襲撃して討ち取りました。さらに300人ほどにふえた仲間とともに石橋山の戦いで3000人の平氏軍と戦いました。しかし、この戦いではさんざんにやられてしまい、わずかな家来と山の中へげこみました。そして山の中で数日間逃げまどったのち真鶴岬から船で安房(いまの千葉県)へ脱出しました。

その5:仲間がふえる
 安房へ上陸すると、もともと味方をしていた三浦氏に加え、ここに勢力を持つ上総(かずさ)氏と千葉(ちば)氏が仲間に加わりました。さらに武蔵(いまの東京)に入ると葛西(かさい)氏・足立(あだち)氏、そして一度は敵対した畠山(はたけやま)氏、河越(かわごえ)氏、江戸(えど)氏らも仲間になりました。東国に住む武士たちは自分の土地にやってきた平氏やその家来と敵対していたので源氏のリーダーである頼朝の味方になれば平氏たちを追い出すことができると思ったのです。こうして30人から始まった頼朝軍はいつの間にか3万~5万人になっていました。そして、頼朝は仲間といっしょに鎌倉に入り、ここを本拠地としました。

その6:富士川の戦い
 ついに平氏の大軍が駿河(いまの静岡県)までやってきました。頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を出発し、富士川で平氏軍と向き合いました。
 ところが、水鳥の飛び立つ音を頼朝軍の大軍とかんちがいした平氏軍は逃げだし、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得ました。
 

 2~3人に簡単に感想を聞いて、次へ進む。

◆さて、この戦いで勝利を収めた頼朝は今後について3人の御家人と話し合いをしまし た。
 あなたが頼朝ならA・B・Cのどの御家人の意見を採用しますか?
 一つ選んでその理由を書いて下さい。後でみんなで話し合ってみましょう。

┌──────────────────────────────────────┐
│ 御家人A:このまま西国へ進撃し、いっきょに平氏を滅亡させましょう。 │
│  そして京の都に入り、われわれの強さを天皇に見せるのです。スタート │
│ は、京の都を本拠地にして天皇のもとで政治をすれば、武士の力+天皇の │
│ 力で最大の力を発揮できます。政治が安定したら鎌倉に戻ればいいではあ │
│ りませんか。 │
└──────────────────────────────────────┘
┌──────────────────────────────────────┐
│ 御家人B:いや進撃すべきではありません。東国にもどるべきです。 │
│  まだ東国にはわれわれの敵となる武士団がいくつもあります。このまま │
│ 進撃したら背後を突かれて鎌倉もやられてしまいます。東国をしっかり固 │
│ めて鎌倉を政治の本拠地にしましょう。いつまでも天皇の力に頼っていて │
│ はいけません。これからは武士の力だけで新しい時代を作るべきです。 │
└──────────────────────────────────────┘
┌──────────────────────────────────────┐
│ 御家人C:わたしも進撃には反対です。理由はBさんと同じです。 │
│  しかし、武士の力だけで日本を治めることができるのでしょうか。これ │
│ まで500年間も日本を治めてきた天皇の力も必要です。ただし、ここま │
│ で成長した武士の力が天皇の力に飲み込まれてはいけません。天皇からは │
│ なれたところで政治をするべきです。天皇の力と武士の力をそれぞれ最大 │
│ 限に生かすために鎌倉を政治の本拠地にしましょう。 │
└──────────────────────────────────────┘

わたしは御家人(    )に賛成です。
理由は・・・


 児童からは以下のような意見が出された。また、 二クラスで授業を行ったが、討論前の人数分布はほぼ同じ傾向を示した。

 1組・・・ A3人 B6人 C20人
 2組・・・ A3人 B4人 C21人

両クラスともCが圧倒的となった。ここまでの学習で仁徳天皇の「善政」と聖武天皇の「国難」を乗り越える学習をしてきていることが大きいと思われる。天皇のリーダーシップとそれを慕う民の姿が強く印象付いているのだろう。
以下、それぞれの代表的な意見を見てみたい。

<Aに賛成>
*このまま勢いに乗って、平氏を滅亡させてしまおう。背後から来る敵はみんなで手分けして倒せばいい。それに天皇に認めてもらえれば、これからのことが有利になる。とにかく勇気がないと前へ進むことはできない。敗れるのを恐れてはいけない。

*敵となる武士団が東国にいくつも残っていると言っているが、西国へ進撃し平氏を滅亡させればその武士団も自然に味方になるかもしれない。

<Bに賛成>
*天皇に頼りすぎると天皇の思い通りの国づくりになってしまう。

*天皇の力ではなく自分たちの力で政治をして民を幸せにしたい。本拠地・鎌倉の周りが味方の方が安心できる。いろいろなことを新しくしたい。

<Cに賛成>
*武士の力だけで日本を治めることができても、いつかは戦いが起こるから、天皇の力を借りていっしょに国を作ればいい。

*進撃したら東国にいる敵の武士団にやられてしまうし、自分たちだけの力だったら反発する武士が出てきて、やられてしまうから。でも、天皇の力に飲み込まれてしまうかもしれないから天皇から離れた方がいい。

*進撃しても鎌倉をやられては意味がない。東国を固めてからでも遅くはない。それに天皇がいないと国がばらばらになったりするかもしれない。

*進撃はもう少し落ち着いてからすればいい。天皇は500年間も日本を治めてきたプロなので、天皇のことも考えながら平氏のようなことにならないようにおごらない政治を作り上げていきたいです。

*進撃したら後ろからやられるからしないほうがいい。そして、天皇の力も借りないと武士だけの政治は絶対にム~リ~。武士だけの政治をしたら、また戦いが起こるかもしれないから。

*Bさんの言うことも正しいですが、やっぱり天皇の力も借りて勝利の可能性を上げた方がいいと思う。

 A派は今の勢いを生かせ、という意見だ。
B派は武士の武士による武士のための政権の思いを述べているものが多い。
 C派の内容を分析すると理由は以下の2つになる。
①武士だけの政権は不安定である。また戦いが勃発する。
②これまでの天皇の政治実績を尊重して生かすべきだ。
C派の児童は、堺屋太一氏が指摘する頼朝の「権威と権力の二重構造」というアイデアを<天皇の力>と<武士の力>という言葉で説明しようとしている、と言えるだろう。
 
 3つの意見で話し合いをさせた後に次のページのお話を読む。

<ワークシート4ページ目>
◆その後の頼朝
じつは富士川の戦いで勝利した後、頼朝は西国への進撃を命じました。いまの勢いのまま京の都まで進もうと考えたのです。
しかし、このときに家来である上総広常(かずさひろつね)・千葉常胤(ちばつねたね)・三浦義澄(みうらよしずみ)などの東国の武士たちは反対しました。
頼朝の仲間になろうとしない常陸(いまの茨城)の佐竹氏や奥州(いまの東北地方)の藤原氏がいるからです。こうした武士たちが背後から頼朝たちをねらっていたのです。
 家来の意見を取り入れた頼朝は、鎌倉にとどまって東国をまとめあげて安定させることにしました。ただ、頼朝は天皇の力が必要なこともわかっていましたので、武士の力に天皇の力をプラスするために京の都に使いを送りました。
 このとき天皇は頼朝の実力を認めて、東国全体の政治を進める権利を与え、後には全国に守護と地頭をおき、政治を進める権利も与えました。
その後、天皇は頼朝に高い位を与えようとしましたが、頼朝は位をすべてことわって京の都に住むことはありませんでした。ただし、「東国の悪者を成敗する」という意味の「征夷大将軍」の位だけ受けることにしました。
 頼朝はこれが<天皇の力と武士の力>を生かすもっともよい方法だと考えたのです。


 最後に感想を書かせた。主なものを紹介する。

*頼朝が生まれたときから、富士川の戦いまで年表があって分かりやすかった。自分が頼朝だったらどうするか考えたりしたので、決断するとき頼朝がどんな気持ちだったか少し分かった気がした。

*武士たちは頭も使わなきゃいけないんだなと思いました。力が強いだけじゃダメなんだと思いました。

*頼朝はいろいろなことを考えて作戦を立てていたことがわかりました。こういう武士のリーダーは天皇のこと、仲間のこと、自分のことすべてを考えて決断したということもわかりました。また、その後のこともよく考え、最もよい方法を選ぶという判断力がすごいと思いました。

子どもたちは頼朝の決断の追体験することで「武士の棟梁」の決断に共感している。新しい政権を打ち立てるときの「悩み」を感じ取ってくれるのが今回の学習のねらいである。
しかし、この授業の課題は以下の感想に表れている。

*一度、自分で決断したことを家来の意見により違う決断を下したということで頼朝が家来を信用していることがわかりました。「天皇の力+武士の力」って最強。でも、征夷大将軍になって政治をしたんですよね。天皇の政治はどうなったんですか?

*でも、あのまんま進撃していたら、やられていたかもしれないから頼朝とその武士の決断は合っていたのだと思います。でも、なぜ、すべての称号をもらわなかったのか頼朝の考えがよく分からない部分もありました。

武士政権における天皇という「権威」と幕府という「権力」の棲み分けをうまく説明できていなかった。小学生にわかりやすく理解させる方法が課題である。

2015.07.12(Sun) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

源頼朝(2)

 第1時である。
 
(1)武士の館を調べる
 教科書にも資料集にも必ず当時の「武士の館」の想像図が載っている。
 これを観察させ、発表させる。
『武士の館の絵を見て気づいたことをノートに箇条書きで書き出してみましょう』
 子どもたちがまず気づくのは、武士が訓練してる様子である。さらに馬を飼っている小屋や牧、館のまわりにある掘や高い壁、物見櫓、周囲は田んぼであることにも気づく。
 ここでは以下のことを確認する。
*武士=農民であること。訓練もしているが農作業もしている。
*自分たちの土地は自分たちで自衛していること。
*貴族に頼まれて貴族の土地のボディガードもしていること。

(2)源平合戦の話を聞く
 まず以下の3つを説明する。
*こうした武士たちのうち、とくに強いグループが2つあった。源氏と平氏である。この2つはライバルだったが、平治の乱といういくさで平氏が勝ち、日本のリーダーになった。
*敗れた源氏のリーダーは殺されてしまった。しかし、その子どもの源頼朝だけは命は助けられて伊豆に流された。
*しかし、威張り始めた平氏に対して不満が高まり、生き残った源氏が立ち上がり源氏と平氏の戦いが始まった。
 その後は、赤羽末吉/絵・今西祐行/文『源平絵巻物語』(偕成社 10巻シリーズ)の中の絵をTV画面で見せながら源平の戦いを語って聞かせた。
 内容は、義経の一ノ谷の戦いでの「ひよどり越え」、義仲の倶利伽羅峠の戦い、屋島の戦いでの那須与一、壇ノ浦での海戦での「義経八艘飛び」などのエピソード及び平氏滅亡の話である。
 こうした「お話」を子どもはとても喜ぶ。

2015.07.12(Sun) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

源頼朝(1)


 歴史上における源頼朝の業績とは何だろうか。
 この問いに作家の堺屋太一氏が簡潔に答えている。
「源頼朝の最大の業績は、はじめて幕府を開いて武家政権の基礎を確立したことだが、それに当たって、実に巧妙な方策を発明した。つまり、古く奈良時代から存続していた律令制を温存しつつ武家政治を全国に展開するという「権力の二重構造」を敢えて創り出したのである。」(堺屋太一『日本を創った12人 前篇』PHP新書 p74)
 一般にはそれまでの貴族による政治が打破されて新しい武士による政治が始まった、と理解されている。それはそれで間違いとは言えないだろう。
 だが、よく考えてみれば頼朝は天皇から受けた「征夷大将軍」という役職はあくまで東国の軍事を司るものでしかない(ちなみに西国は鎮西大将軍)。天皇は依然として京都にいて頼朝に地位や役職を与えているのである。
 一番偉いのは結局はどっちなのか?
 堺屋氏はこれを「頼朝はそれまでの歴史に前例がなく、今日の感覚から見ても収まりの悪い、「けったいな政権」を創ったのだ。そこにこそこの男の恐るべき独創性がひそんでいる」(p75)と言っている。
 頼朝は天皇の力抜きでは政権を維持することはできないことがわかっていた。しかし、ここまでパワーを付けた東国武士の力も生かさなければ新しい時代は作れない。授業ではこの頼朝の迷いと決断を小学生にも追体験させたいのである。
 しかし、これをそのまま小学生に与えても何やら難しい話が頭の中を素通りするだけだろう。この「思想」を具体的に体現した具体例が必要だ。
 そこで選んだのは富士川の戦いの勝利後に進撃を命じた頼朝に対して東国の有力武士たちが「諫言」したエピソードである。
「富士河の陣から平家勢が敗走したとき、頼朝はその追撃を命じたが、武将等の反対によって進軍は中止されたという。理由は常陸の佐竹氏をはじめ、周囲に敵対勢力がまだまだ多いということにあった。
 先ず東夷の平らぐるの後、関西に至るべし
と軍議は決したという。この京攻めの可否をめぐる記事は、多くの論者の注目を集めている。頼朝勢力が坂東地方を固有の基盤とする政権に成長してゆく、その出発点がここにある、とみなされるからである」(河内祥輔『頼朝がひらいた中世 鎌倉幕府はこうして誕生した』ちくま学芸文庫 p72)
 このエピソードを対立点を明確にした問題設定に改作してシミュレーションできるようにする。こうすることでクラス全員が「頼朝になってみる」ことができる。歴史的な決定を追体験できると考えた。 

2015.07.05(Sun) | 平安・鎌倉 | cm(0) |