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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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杉田玄白

 『今日から江戸時代の新しい文化について学習していきます』
 こう切り出した後に杉田玄白の肖像画を見せる。子どもたちはよく知っていてすぐに「杉田玄白だ」と反応する。

杉田玄白


<ワークシート・1ページ目>
★下の2つの人体解剖図を比べて、気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。

 Aは中国漢方医学書の図、Bはオランダ医学書の図である。

中国の医学書
オランダの医学書
 

子どもからは以下のような気づきが出される。 
「Bの方がリアルで現代の図に近い気がする」
「Bの方が本物を見て描いた感じ。Aは想像で描いてる感じ」
「でも,Aの方が詳しいように感じる」
「Aは説明のようなものが漢字?で書かれている」
「Bは外国人みたい」
 意見が出尽くしたら説明をくわえる。
『みなさんの予想通り、Aは中国の医学書の図で、Bはオランダ、つまり西洋の医学書の図です』

<ワークシート・2ページ目>
★オランダの医学書を翻訳しよう!~『解体新書』の完成

◆杉田玄白は、小浜藩(いまの福井県)の医者の家に生まれました。玄白もお父さんの跡をついで江戸で医者をしていました。 
 ある日のこと、玄白のもとへ同じ医者仲間の中川淳庵が一冊の本を持ってきました。
 それはオランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』でした。 
 ページをめくるたびに玄白の目はこの本にくぎ付けになりました。オランダ語はまるで読めなかったのですが、そこに描かれている人体解剖図があまりにも精密なことに驚いたのです。
「この本の図はこれまで信じていた中国の漢方医学の図とかなり違っている。どちらが正しいのだろう?医者として人間の体の中をこの目で見て確かめてみたい」 
 じつはもう一人の医者仲間である前野良沢も同じ本を手に入れて同じことを考えていました。

ターヘル・アナトミア

 
◆玄白たちは偶然にも「骨ヶ原」(いまの東京都荒川区南千住小塚原)で死体の腑分け(ふわけ・解剖すること)を見るチャンスを得ることができました。
「それが肺で・・・これが心臓か・・・」
「中国の漢方の図はまちがいが多いが、オランダの図はじつに正確だ」
 玄白は、実際の人体内部と本にある図を比較してオランダの医学書の正確さに再び驚き「ぜひとも『ターヘル・アナトミア』を日本語に訳したい。そして日本の医学のために役立てたい」と思いました。
 同じ意見の3人は、さっそく翌日から翻訳を開始し、その後、数人の仲間が加わることになりました。
 じつは、玄白も他の数人もほとんどオランダ語を読めません。オランダ語の知識のある良沢も、翻訳を行うには不十分な語学力しかありません。辞書もないし、オランダ語の通訳は長崎にいるのでなかなか質問することもできません。このような難しい状況の中で翻訳作業は始まりました。

腑分け


◆ある日、「鼻」の説明のところに「フルヘッヘンド」というオランダ語が書かれていましたが、意味がわりません。ヒントはないか、とさがしてみると別の本に「木の枝を切った切口はしばらくするとフルヘッヘンドする」「庭のそうじをするとごみや土が集まってフルヘッヘンドする」と書かれていました。
「これはどういう意味だろう?」
 みんなで頭を寄せ合って考えていると、玄白が叫びました。
「わかった!枝の切口はしばらくすると高く盛り上がる、ごみや土も集まればそこが高くなる。だから、フルヘッヘンドは『うず高く』だ。鼻も顔の中で高くなっている」
ひとつの言葉でこれだけ時間がかかるのですから、1日かかっても1行も訳せないこともありました。

◆こうして苦労に苦労を重ねながらようやく翻訳が終わったのは1年半後でした。
この日本語訳は『解体新書』という書名で出版されました。

巻1 総論、形態・名称、からだの要素、   骨格・関節総論及び各論
巻2 頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌
巻3 胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、   門脈、腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、   膵臓
巻4 脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、
   生殖器、妊娠、筋肉
別巻 図版集
 

解体新書表紙
解体新書1
解体新書2
解体新書3


<ワークシート・3ページ目>
★杉田玄白になって考えよう!

このようにオランダ語で書かれた書物などを通して西洋の学問を研究することを蘭学(らんがく)と言います。
 さて、翻訳も終わり、いよいよ出版です。
 しかし、前野良沢は「この本の作者のところには自分の名前は入れないでほしい」と申し出ました。良沢は「まだまだこの本の翻訳は不十分で正確とは言えない」と考えていたのです。
しかし、玄白は「不十分なところはあるが、病に苦しむ人とそれを助けようとしている医者のところへいっこくも早く届けたい」と考えていました。
 玄白は「いちばん苦労をかけた良沢の名前ははずせない」と考えて説得しましたが、良沢は首をたてにふりません。そこで、残念ではありますが作者のところには良沢の名前を書かないことにしました。

ところで、この作者名のところを見て下さい。4人の名前の上に「日本」と書かれています。ふつうは日本で出版される本にわざわざ「日本」と入れることはありません。

解体新書・日本

 
 玄白はどのような理由で仲間である4人の名前の上に「日本」と自分の国の名前を入れたのでしょうか?
杉田玄白になってその理由を考えてみて下さい。


 意見を書かせた後に、話し合いをする。
 子どもからは以下のような意見が出された。
 「外国の人たちにも読んでもらい、日本の医学者はすごいんだぞということを知ってほしかった」
 「日本人が書いたと外国、とくに中国に知らせるため。中国の解剖図は間違っていると教える」
 「輸出するときに日本人が書いて、日本で出版していると伝えるため。日本の存在をもっと知らせたかった」
 「未来の日本人にもわかるようにしたかった」
 「ここに書いてある4人以外の日本人の協力があったからこそ翻訳できたから」
 「前野良沢の名前の代わりに日本と入れた。そうすれば、杉田玄白たち以外にも翻訳に協力した日本人がいることを伝えることが出来る」
 「日本と入れなければ中国やオランダの真似をしたと言われるかもしれないので、日本と書いて日本人が作ったという証明にする」
 「日本で作られたということを歴史に残したいし、違う国の人が見たら日本はこんなにすごいんだぞと思ってもらえると考えた」
 「日本も医学に力を入れている、というのを他の人に伝えたい。たくさんの人に解体新書を広めたい。漢字で書かれていれば中国にもわかるから、中国にも広めて、日本もすごいぞ!と思わせる」
 「日本と入れることで日本の信用を深めてもらうため。今まで中国のものを使っていたので、日本のものが正確ということを伝えて使ってもらうため」
 「中国の漢方医学の本は間違っている部分が多いので、中国の人にも正しい医学を知ってもらいたいと思った」

<ワークシート・4ページ目>
★『解体新書』を広めたい!

玄白は、次のように考えていたのではないかと言う人がいます。
「漢方の医学を信じている多くの中国人はまだ人体内部の本当の姿を理解していない。わたしたち日本人が翻訳したこの本を中国へ送って教えてあげたい。これまで日本は中国の漢方から多くのことを学んだが、これからは日本が医学について中国の人に教える時代が来たのだ」
4人の名前の上にある「日本」という言葉を見ると、真の医学を自分たちの国から広めたい!という玄白たちの気持ちが伝わってきます。

玄白はこの『解体新書』を確実に広めるために『解体約図』という予告パンフレットを作っています。これは3枚の図を重ねて光に通すと骨・神経・内臓が重なって人体図になるという工夫されたものでした。

解体約図1
解体約図2


 『解体新書』の出版によって日本の医学は大きく発展しました。また、当時の日本は鎖国をしていましたが、これによって日本人の中に「西洋から学ぶことは大事なことだ」と考える姿勢が生まれたと言えるでしょう。なお、この翻訳のときに玄白たちが作った「神経」「軟骨」「動脈」などの語は、現在も使われています。


授業後の感想文をいくつか紹介したい。

*杉田玄白たちが人体に関係する言葉を作ったことに驚きました。また、それが今でも使われていることにも驚き、興味がわきました。1年半もかけて1冊の本を作ったところに玄白たちの努力が伝わってきます。

*今日の勉強で昔の人の優しさや頭の良さがわかりました。中国に恩返しするという気持ちに感動しました。杉田玄白はとても友達思いな人だとわかったので楽しくなりました。

*予告パンフレットの話を聞いて、すごいと思いました。他の人があまりやらないことをする発想のある玄白はすごいです。もしこの人体解剖図の本を出版していなかったら、今の図はどうなっていたのだろうと気になりました。
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2015.09.21(Mon) | 江戸 | cm(11) |

杉田玄白・伊能忠敬・本居宣長

杉田玄白・伊能忠敬・本居宣長

 小学校の学習指導要領では、江戸期の学習として新しい学問の勃興を取り上げるよう指示している。

 江戸幕府の始まり,大名行列,鎖国,歌舞伎(かぶき)や浮世絵,国学や蘭学(らんがく)について調べ,身分制度が確立し武士による政治が安定したことや町人の文化が栄え新しい学問が起こったことが分かること。
             (平成15年 小学校学習指導要領社会 内容(1)オ)

 教科書では、杉田玄白・伊能忠敬・本居宣長の3人を取り上げているのだが、じつはこの3人にはそれぞれに共通点がある。それを「新しい学問」の学習内容の主たるテーマとして実践したい。

  まず、杉田玄白と本居宣長の共通点である。この2人の共通点は、中国文化を越えようとしたことにある。
ご存じのように玄白はオランダの医学書に描かれた人体解剖図を見て衝撃を受ける。解剖図の精密さに驚いたこともあるが、それまで見ていた中国漢方の図との違いにショックを受けたのである。その後、腑分けに参加し、日本語への翻訳を決意したのはご承知の通りである。玄白ら行動には中国医学からの脱却が意図されている、と見て取ることができる。
また、宣長は古代日本人の心情を明らかにするためには儒教などによって日本人の中に入りこんだ「漢意(からごころ)」を取り去ることが必要だ、とくりかえし述べている。ここにも中国思想からの脱却が明確に示されている。

  もう一つの共通点は杉田玄白と伊能忠敬にある。この2人の共通点は蘭学、つまり西洋の学問から積極的に学ぼうとする姿勢を日本人の中に作ったことである。玄白は医学、忠敬は天文学と測量技術において西洋の学問・技術を積極的に取り入れている。
 「よいものはよい」と受け入れる土壌は聖徳太子以来の日本人の特性だが、外来の思想や技術を自家薬籠中のものとして自分たちの能力を高めようとする江戸期の人びとの姿勢を学ぶことが以後の幕末から明治維新の学習の土台になるだろう。

  杉田玄白の学習では『解体新書』にある著者名の上に「日本」と入れた意味を追体験させる。伊能忠敬では、オランダ人の「ほんとうに日本人の手で作ったのか?」という「上から目線」の質問にどう答えるか?という架空の設定を体験させる。また、本居宣長では『玉勝間』で宣長自身が具体例として上げているエピソードの答えにチャレンジすることで「漢意(からごころ)」と「大和心」について考えさせる。

2015.09.21(Mon) | 江戸 | cm(0) |

徳川家康(2)

家康

 今日の授業は、徳川家康についての学習することを告げて、肖像画を見せる。
 その後、以下のような話をする。
 ①秀吉が死去した後に「関ヶ原の合戦」というこの後の天下を決める大きないくさが起こった。
 ②全国の大名たちは東軍と西軍の2つに分かれた。東軍のリーダーは家康。西軍のリーダーは秀吉の家来の石田三成だった。
 ここで関ヶ原の戦いの布陣図を見せる。

関ヶ原

 『どちらが有利だと思いますか?』
 子どもたちの反応を見てから、結果を話す。
 ③この戦いは家康側の西軍が勝ちました。これで家康は天下を自分のものにしたと言ってよいでしょう。そして、江戸幕府を開いたのです。
 
 ここでワークシートを配布する。

<ワークシート1ページ目>
★徳川家康が開いた江戸幕府は260年間も続きました。
 この260年間に15人が将軍になっています。この将軍の一覧表を見て気づいたことを書き出してみましょう。

│     名前 │   将軍の期間 │   出身 │ お墓がある所 │
│ ①徳川家康(いえやす) │  2年2か月 │    徳川氏 │  日光東照宮 │
│ ②徳川秀忠(ひでただ) │  18年3か月 │    徳川氏 │    増上寺 │
│ ③徳川家光(いえみつ) │  27年9か月 │  徳川将軍家 │    輪王寺 │
│ ④徳川家綱(いえつな) │  28年9か月 │  徳川将軍家 │    寛永寺 │
│ ⑤徳川綱吉(つなよし) │  28年5か月 │  館林徳川家 │    寛永寺 │
│ ⑥徳川家宣(いえのぶ) │  3年5か月 │  甲府徳川家 │    増上寺 │
│ ⑦徳川家継(いえつぐ) │  3年1か月 │  徳川将軍家 │    増上寺 │
│ ⑧徳川吉宗(よしむね) │ 29年 1か月 │  紀州徳川家 │    寛永寺 │
│ ⑨徳川家重(いえしげ) │  14年6か月 │  紀州徳川家 │    増上寺 │
│ ⑩徳川家治(いえはる) │  26年4か月 │  徳川将軍家 │    寛永寺 │
│ ⑪徳川家斉(いえなり) │  50年 │  一橋徳川家 │    寛永寺 │
│ ⑫徳川家慶(いえよし) │  16年2か月 │  徳川将軍家 │    増上寺 │
│ ⑬徳川家定(いえさだ) │  4年8か月 │  徳川将軍家 │    寛永寺 │
│ ⑭徳川家茂(いえもち) │  7年9か月 │  紀州徳川家 │    増上寺 │
│ ⑮徳川慶喜(よしのぶ) │  1年 │  一橋徳川家 │   谷中霊園 │

 子どもたちからは「全部徳川だ」「出身にいろいろな徳川家がある」「いちばん長い人は50年」「お墓はほとんどが寛永寺か増上寺」などの気づきが出される。
 当たり前のことだが将軍になれたのは徳川家のみであることは重要である。また、いろいろな徳川家を作って徳川の「血」が絶えないようにしたこと、家康のお墓のみが「神社」にあり神様になっていることを解説する。
 
 ここで一つ質問する。
 『それにしても神様にまでなっている初代の家康の将軍の期間がたった2年間しかないのは、短すぎませんか?』
 反応を見て
 『では、その謎を解いてみましょう』

<ワークシート・2ページ目>
★家康が取り組んだことは何だろう?

 家康は自分が征夷大将軍になって江戸幕府を開くと、すぐに息子の秀忠に将軍の位をゆずってしまいました。すぐにゆずることで「江戸幕府の将軍は徳川氏の人間しかなれないんだぞ」と他の大名たちに宣伝したのです。
では、このころの年表を見てみましょう。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 1600年  関ヶ原の戦いで徳川氏にはむかう大名がほとんどいなくなる │
│ 1603年  征夷大将軍になり、江戸幕府を開く │
│ 1604年 朱印船貿易をはじめる │
│ 1605年  秀忠に将軍をゆずる │
│ 1606年  江戸城が完成する │
│ 1609年 オランダ・スペインに貿易の許可を出す │
│ 1611年  ポルトガルに貿易の許可を出す │
│ 1614年 大阪冬の陣で豊臣氏を攻撃する │
│ 1615年  大阪夏の陣で豊臣氏をほろぼす 「武家諸法度」というきまりを作る│
│ 1616年  家康が亡くなる │
└──────────────────────────────────────┘

★3種類の大名の配置を見てみよう!

①親藩大名・・・徳川家の親戚の大名。
 この中でもとくに尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は御三家と呼ばれ、もし将軍にあとつぎが生まれなかった場合は御三家の中から次の将軍を選んだ。

②譜代大名・・・関ヶ原の戦いよりも前から徳川家につかえていた大名。
 昔からの家来なので幕府の中でも大事な役につけ、重要な領地を与えた。

③外様大名・・・関ヶ原の戦いのあとに徳川家につかえ始めた大名。
 譜代に比べて信頼がないので、幕府内では大事な役にはつけない。領地も都から遠い場所を与えた。


 息子の秀忠にさっそく将軍職を譲ることで徳川家の地位を安泰にしたことに気づかせる。
 ここで秀忠と家光の肖像画を見せる。

秀忠
家光

 また、家康は西洋の国々と積極的に貿易したがったこと、豊臣氏を徹底的に滅ぼしたことを年表で確認する。どちらもこの後の学習に関わる重要事項である。
 さらに、この学習のメインである「家康になってみる」に関係する大名配置図をしっかり観察させる。
 以下の2点は子どもから出てくるだろう。
 *外様大名は江戸から離れている。
 *親藩や譜代は江戸の近くにあるものが多い。
  その他、こんなところにも気づかせる。
 *外様と江戸の間にときどき親藩や譜代がはめ込まれている。
 これらのことから、幕府に刃向かう恐れのある外様大名を江戸から遠い場所に配置し、幕府の味方となる親藩・譜代を江戸を守るように配置したことがわかる。

大名配置図


<ワークシート・3ページ目>
★徳川家康になって大名の処分を決定しよう
家康はこれからの幕府を安定させるために「武家諸法度」という大名や武士に対するきまりを作りました。

 ①学問や武術に励みなさい。 
 ②遊んでばかりいてはいけない。
 ③きまりに違反した者を、自分の領土に隠してはいけない。
 ④城を修理するときは必ず幕府に許可を得ること。新しく城を作るのは禁止する。
 ⑤となりの国であやしい動きがあったらすぐに報告しなさい。
 ⑥幕府の許可がなければ結婚してはいけない。 
 ⑦倹約を心がけなさい。
 ⑧大名には、能力のある者を選んでその地位につけなさい。

 さて、「武家諸法度」の④についてさっそく困った問題が起こりました。城の修理についてのルールを破った大名がいたのです。徳川家康になって大名の処分を下してください。
なお、二人とも事前に許可を取らないで自分の城を修理しています。

*外様大名さんの言い分
「徳川氏に刃向かうつもりなのか?と疑っているのですね。わたしは、いまは家康様の家来になっているので徳川氏に刃向かおうなんて考えたこともありません。それに城の修理と言っても雨漏りするので少し屋根を直しただけです」

*譜代大名さんの言い分
「城の修理については家来に任せていたのでうっかり届けるのを忘れてしまいました。確かに今度の修理は城を大きくするための大規模な工事ですが、わたしたちは徳川氏の昔からの家来ですから刃向かうわけがありません」


◇あなたが家康ならどうしますか?
A:外様大名も譜代大名も処分する
B:外様大名は処分するが譜代大名は処分しない
C:譜代大名は処分するが外様大名は処分しない


 2つのクラスで実践したが、ほぼ同じ傾向が出た。
 約30名のクラスで意見の人数分布を取ると、Aが15~17人、Bは10人前後、Cが4~5人である。
 Aで多い意見は「これはルールなんだから外様と譜代で処分がちがったら怒るに決まっている」というものである。ある子は「譜代だってあやしい。戦国時代の明智光秀の例があるじゃないか」と言っていた。
 Bは「外様は警戒しなければいけないから」というものである。
 Cは「外様かとか譜代とはではなくてルール違反の中身の深刻さで決めるべきだ」というものだった。

<ワークシート・4ページ目>
★戦国の世の中を完全に終わらせた徳川家康

 家康は、徳川家にさからう大名や幕府に対して危険であると考えた大名は「おとりつぶし」としました。これには外様大名だけでなく譜代大名や親藩大名も同じです。

 家康が作った江戸幕府によって戦国時代は完全に終わりました。
 江戸幕府は京都、大坂、堺など重要な場所は幕府が直接治める「天領」とし、幕府を守る旗本の領地を含めて約700万石を独占しました。これは日本全体の3分の1に当たります。
 さらには佐渡金山など重要な鉱山も幕府のものとして圧倒的な力を持ち、全国の大名、お寺や神社、天皇や朝廷まで「法度」を作って支配しました。

 その後、大名に対しては「参勤交代」などで常にお金を使わせて幕府に反抗する力をたくわえられないようにしました。また、小さな問題でもゆるさずに大名を処分しました。

 このように、厳しいルールができたからこそ、戦国時代を完全に終わらせて、250年以上に及ぶ世界でもめずらしい平和な長期安定政権となったのです。

    

2015.09.21(Mon) | 江戸 | cm(0) |

徳川家康(1)

徳川家康

 江戸時代の1時間目は、もちろん徳川家康を取り上げる。
 すでに徳川家康は、織田信長・豊臣秀吉の2人と並んで「戦国時代」の中に位置づけて1時間だけ学習済みである。
「戦国時代」では、3人の武将に各2時間を当てた。それぞれ、第1時はその武将の人生における典型的な合戦を教材として気質、リーダー性について学び、第2時では「政治家」としての業績を追体験するという構成である。
 信長は、第1時は桶狭間の戦い、第2時は安土の町づくり
秀吉は、第1時は高松城水攻め、第2時は刀狩
となっている。
  家康の第1時は三方原の戦いを取り上げた。続く家康の第2時は「江戸時代」の学習のスタートに位置づける。

  家康は江戸幕府の創始者である。しかも約260年にも及ぶ安定的な政権を維持するシステムを整えた。
山本七平氏は、家康のことを「政略家にして政策家」と評し、ガエターノ・モスカという政治学者の分析を引用してこう説明している。
  政略家とは「あらゆる権謀術策を弄して権力獲得に至る最短の道を知っている」者であり、政策家とは「人民の潜在的な願望を知り、最も少ない犠牲と苦痛でその願望を実現しうる手段を立案できる」者である。ふつうはこの2つを持ち合わせている政治家はいないのだが「この基準で見ていくと家康は、政策能力も政略能力ももつ珍しい政治家であったと言える」(山本七平『徳川家康』プレジデント社 1992年 p146)
  さらに次のように言う。
「家康は、足利末期から織豊時代にかけて、天下の人びとが潜在的に何を望んでいるかをよく知り、そんな政策の上で実現する手段も知っていた。それを一言で言えば、「戦国はもうたくさんだ、平和な法治的体制のもとで、自分たちの生存の権利を保障してほしい」ということ、一言でいえば「安堵」を望んでいたのである。(中略)そして、家康が実現したものは、簡単に言えば全日本人が、そのままの状態で安堵する体制であり、あらゆる意味の恣意的な私的権力の行使の禁止および制限であり、その基準を法治に置いた」(同 p147)

  徳川家康の追体験はこの<法治よる政治>体験としたい。教材は全国の大名・武士を統治するための「武家諸法度」である。家康は、まだまだ戦国のにおいの残る江戸時代初期に、どのような方針で大名たちに臨んだのか。子どもたちには、それを体験することで260年という長期政権を可能にしたものが何だったのか?を実感してほしい。

2015.09.21(Mon) | 江戸 | cm(0) |