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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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坂本龍馬

 幕末人物学習の3人目は坂本龍馬である。
 ふところに手を入れて斜め前方を見つめる有名な写真を提示する。

<ワークシート・第1ページ>
★坂本龍馬の写真を見て気づいたことを箇条書きで書き出してみよう。


坂本龍馬肖像

 子どもの気づきを見てみよう。
「何かを見つめているみたい」
「目を細めていて、まぶしい?」
「台によっかかっている」
「髪の毛がもじゃもじゃで丁髷がない?」
「刀を差しているけど短いので脇差?」
「険しい顔をしている」
「靴を履いている?」
「服の中に手を入れている」

 以上のような意見が出てきた。これらに教師の知っているエピソードを付け加える。
*昔の写真は写すのに時間がかかるので、台に寄りかかってる。
*龍馬は近眼だったので、目を細めているらしい。
*龍馬はブーツを履いていた。
*龍馬はくせ毛だった。丁髷が結いにくい。
*檜垣源之介との龍馬の持ち物エピソード・・・小刀→ピストル→法律の本(万国公法)
*なお、ピストルは高杉晋作に清国に行ったときのお土産としてもらったらしい。

『では、龍馬はどんなことをした人なのか?調べてみよう』

<ワークシート・第2、3ページ>
★海援隊を作った坂本龍馬

①少年時代は泣き虫だった
龍馬は土佐藩(いまの高知県)の身分の低い武士の家に生まれました。龍馬のお父さんは才谷屋というお店を経営するお金持ちの商人でしたが、武士の資格を得ていたのです。子ども時代の龍馬は人前に出るのが苦手な性格で泣き虫だったと言われています。しかし、剣術に打ち込むようになると自分に自身が持てるようになりました。18才のときにはさらに剣術の腕をみがくために江戸で修行することになり、江戸の道場で北辰一刀流を学びました。この江戸修行中に黒船が来航したのです。

②勝海舟の弟子
若いころの龍馬は「剣の腕さえあえば西洋人などたいしたことはない」と考えていたようです。ある日「開国して西洋から学ぶべきだ」と考えている勝海舟に興味を持ち、訪ねました。龍馬はアメリカに行った経験のある勝の話を聞けば聞くほど自分の考えがいかに小さいものだったか気づかされました。感動した龍馬は「新しい日本を自分の手で作りたい」と勝海舟の弟子になりました。

③海援隊を作った
勝海舟の影響を受けた龍馬は、海に囲まれた日本が西洋に立ち向かうためには海を移動しながら戦える海軍が必要だと考えました。そこで、神戸にできた海軍操練所で航海術を学んだのです。その後、海と船に関する知識と技術を利用して亀山社中を作りました。亀山社中は貿易などで資金を作り、必要があれば戦いに参加する会社+軍隊のようなグループです。この亀山社中がのちに海援隊となりました。

④船中八策
龍馬は新しい日本の姿を八ヶ条にまとめています。これは船の中で作られたので「船中八策」と呼ばれています。ここには、天皇中心にすること・憲法と国会を作ること・条約を整えて外国と対等につきあうこと・日本が不利にならないように外国とお金の交換をすること・強い海軍を持つこと、などが書かれています。

 
ここで龍馬に「なってみる」学習に入る。

★あなたが龍馬なら、どう説得しますか?~龍馬になって考えよう!

 龍馬は、日本の将来のためには幕府を倒し、新しい政府を作るしかないと考えていました。それを実行するためには、強大な幕府に対抗できる力が必要です。
 それを可能にするには長州藩と薩摩藩の二つが一つになって対抗するしかありません。しかし、どちらも「自分からは協力しようなんて言えない」と言うのです。どうしてなのでしょう。二つの藩の人たちの意見を聞いてみましょう。

<長州藩(ちょうしゅうはん)さん>
 とにかく西洋の侵略をはねのけて日本の独立を守らなければいけない。西洋人に侮られてはいけないんだ。だから、われわれ長州藩は「馬関戦争」では勇気を出して単独でイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国と戦ったのさ。たしかに、こてんぱんにやられて、今の力では西洋にかなわないことがわかった。西洋から学んで強くなる必要があることに気づいたよ。そこは、薩摩藩と同じ考えだ。
 でも、薩摩とは協力したくないね。あいつらは幕府と相談して、われわれを裏切った。「禁門の変」のときは京都で薩摩藩に俺たちの仲間がたくさん殺されているんだ。
 それに今は幕府ににらまれているから自由に貿易もできない。船や鉄砲を買いたいのに長州の名前では買えないんだ。
 俺たちが日本を天皇中心の国にしたいと思っているのは知っているだろ。それなのに幕府の計略で天皇にも誤解され、悪者扱いされている。正直に言うといま苦しいよ。

<薩摩藩(さつまはん)さん>
私たちも「薩英戦争」のときに単独でイギリスと戦い、こてんぱんにやられた。これからは西洋という敵から学んで強くなって西洋の侵略から日本の独立を守るしかない。そこは長州藩と考えていることは同じだね。
 でも、長州藩は深く考えずにすぐに行動しようとして周りの仲間に迷惑をかけていると思う。「禁門の変」のときはとても仲間としていっしょにはやっていけないと思ったから、幕府側の味方になったのさ。俺たちの仲間だって長州藩に殺されたやつはいるんだよ。
私たちの藩は今とてもうまくいっている。幕府を助けてやったから、幕府に対して強く意見も言えるし、天皇の信頼も得ている。
貿易も好調だ。蒸気船を9隻も買いそろえてあちこちと商売をしている。外国とも取引しているから最新式の鉄砲だってかんたんに買うことができるよ。


◇あなたが龍馬なら長州藩と薩摩藩のどちらから「協力しよう」と言わせますか? また、どんな言葉で2つの藩を説得しますか?


 『では、最初に長州藩・薩摩藩のどちらから「協力しよう」と言わせた方がうまくいくと思うか決めて下さい』
 1分ほど時間を与えて立場を決める。
 
 以下のような人数分布となった。

*A:長州藩から言わせる・・・1組  9人  2組  6人
*B:薩摩藩から言わせる・・・1組 16人  2組 22人

 理由を聞いてみた。
*A
「薩摩藩の方がうまくいっているので、長州から言った方が受け止めてくれやすい」
「薩摩は1回裏切っているので、自分からは言いにくいのではないかと思う」
*B
「薩摩藩は貿易などがうまくいっているので、鉄砲などを売ってあげるから・・・など仲良くすればいいことがあるよと言える」
「薩摩は天皇の信頼があるから言いやすい。長州も天皇に認めてもらいたいはずだから」

『長州藩代表は桂小五郎。薩摩藩代表は西郷隆盛です。ようやく2人は顔を合わせることができた、としましょう。しかし、まだ自分からは言い出せないようです。その真ん中に龍馬がいます。さて、どんなセリフで2人を説得したでしょうか?考えてみましょう』

 数分後、話し合いをする。
「2つの藩が協力すれば長州は武器や船が買えるようになるし、薩摩藩は味方が増えて幕府を倒せる・・・とどちらも得することがある」
「日本はいま独立しなかればいけない。2つの藩とも同じ意見だ。日本ことを考えているならぜひとも虚力すべきだ」
「西洋から学んで日本の独立を守ろうという共通点はあるのだから、その考えを中心にして協力して仲間直りして幕府を倒し、新しい政府を作るべき」
「長州・薩摩とも単独で幕府に戦いを仕掛けたら、きっと以前のイギリスなど西洋との戦争と同じになってしまう。手を組んで新しい政府を作り、西洋に負けない国づくりをしていくべき」
「いまは日本が危ないんだ。日本がつぶれたらどちらの藩もつぶれてしまう。協力して日本を強くすべきだ」
「みんなで力を合わせなければ西洋には勝てない」
「自分たちの違う部分、共通していない部分ばかり強く感じてしまっている。逆に共通している部分、同じ考えを生かせばいい。長州も薩摩も日本の独立を守りたいのだから、それは協力すればかなう。協力して日本をこの手で作り、夢をかなえよう」
「同じ考えだし、同じ日本人なんだし、幕府を倒せばどちらももっと強くなれる。そうすれば西洋と同じになれる。日本ことをもっと考えてほしい」
「幕府を倒して、この日本を変えるぜよ!」
「西洋人たちに対抗するには日本という国で立ち向かうのが一番いい。それに幕府を倒せば、幕府の持っているものがすべて手に入って力にすることができる」

<ワークシート・第4ページ>
★薩長同盟を成功させた龍馬の活躍

1866年に薩摩と長州は「薩長同盟」を結びました。
 これによって幕府と対等に戦う力が生まれ、倒幕が可能になったと言っても言い過ぎではありません。
しかし、この同盟を結ぶ話し合いはそう簡単には進みませんでした。薩摩藩も長州藩もそれまでのいきさつからなかなか自分から同盟を結ぼうと言い出せなかったのです。
 しかし、憎しみを乗り越えて、大きな目的のために協力しなければ歴史はかえられないのです。
長州の桂小五郎の回想によれば、龍馬は次のように話したと言われています。

「自分が長州と薩摩のためにがんばってきたのは、薩摩のためでもないし長州のためでもない。日本のことを思うからだ。日本の将来を考えると夜も眠れない。せっかく薩摩と長州の両方のリーダーが顔を合わせているのに何も決められないというのは理解できない。わだかまりを捨てて日本の将来のために深く話し合ってほしい」

龍馬は苦しい立場にある長州の気持ちを考えて「薩摩の方から話を切り出してほしい」と西郷隆盛に頼んだようです。
薩長同盟の第6条にはこう書かれています。
「開国以来、危険が増している日本を建て直し、西洋の力に対抗して日本の独立を守るために薩摩藩も長州藩も力を合わせて全力でがんばろう」

1867年11月15日。龍馬は京都の近江屋というところに泊まっていました。そこへ、数人の武士が突然現れて二階にいた龍馬に突然襲いかかりました。いきなり斬りつけられた龍馬は刀のさやで防ぐのが精一杯で、高杉晋作にもらっていたピストルを使うひまもなく殺されてしまいました。33才という短い生涯でした。犯人がだれでどんな目的で龍馬をねらったのかは、現在も謎のままです。


 最後に子どもたちの感想文をいくつか紹介する。
*龍馬は2つの藩を説得したすごい人物なんですね。本当に勇気がなければできないと思うので、龍馬の堂々としたところに感心しました。
*日本のために坂本龍馬は努力したことがわかった。殺されてしまったけれど、薩長同盟を結ばせたことで、当時の日本の未来を変えたはずだと思います。きっと長州藩も薩摩藩も倒幕を実現しようと考えただろうな、と強く思います。
*またもや33才で殺されてしまいましたね。龍馬は説得力があって話が上手だったと思います。後は西郷さんと桂さんにまかせるだけですね。
*坂本龍馬が日本を大切にしていたことがわかってよかった。今日も龍馬になってみようで色々考えられて楽しかったです。
*薩長同盟によって幕府がだんだん崩れていくのがわかりました。
*坂本龍馬がいなければ、薩長同盟がなくて、幕府は永遠に続き、西洋人にかなうことができないまま、不平等条約が改正できなかったり、日本が真っ二つに分かれたままだったから、すごいことだと思った。
*龍馬の勇気ある行動!剣術を磨きついに北辰一刀流を身につけたというこの努力!そして何よりも龍馬のセリフ!もう龍馬にしびれます。
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2015.10.31(Sat) | 幕末 | cm(0) |

高杉晋作

  幕末の学習の第4時である。
 『では、幕末の人物学習の2回目です』  
  人物学習は吉田松陰に続いて、2人目となる。
  なお、毎回「前時は誰の学習をしたか」「その人物はどこの藩出身か」「その藩は今の何県か」を子どもに確認する。
  また、吉田松陰から勝海舟までの4人の学習は共通の課題を児童に提示している。

 <幕末の武士は、日本のために、どのような行動を取ったか調べよう>

  というものである。これも毎回、黒板に掲示して確認する。

<ワークシート・第1ページ>
 ★この2枚の写真はどちらも高杉晋作です。気づいたことはありますか。
 
 高杉晋作肖像①

高杉晋作肖像②

子どもの気づきは以下のようなものである。
「剣道の格好をしている」
「丁髷がある写真とない写真の両方がある」
「刀を差しているので武士だろう」
「服に家紋が付いている」
「まじめそうな感じ」

『高杉晋作は吉田松陰の弟子です。どんな人なのか調べてみましょう』

<ワークシート・第2ページ>
★魔王と呼ばれた高杉晋作

①将来を期待されていた
晋作の生まれた長州藩の高杉家は、戦国時代のむかしから殿様の毛利家に仕えている由緒正しい家柄で、高杉家だけではなく殿様からも将来を期待されていました。
 7歳ごろから藩校の明倫館で学び、12歳ごろからは兵術や弓・槍・剣道に熱中しました。

②負けず嫌いだった
明倫館で学んでいた晋作はこれだけではあきたらず、19才で吉田松陰の「松下村塾」に入門しました。そこには一つ年下の久坂玄瑞がいました。玄瑞は松陰先生も絶賛する秀才です。負けず嫌いの晋作は猛勉強を始め、他の生徒も一目置く存在となりました。
 その後も玄瑞と晋作の二人はよきライバルとして松陰先生を支えていきました。

③幕府との戦いで活躍
 1866年、晋作の長州藩と幕府の間で戦争が始まりました。日本の中で「尊皇攘夷」のリーダーシップを取っていた長州藩が幕府打倒の旗印をかかげたからです。これを「長州戦争」と言います。晋作も船を指揮して幕府軍を打ち破りました。
幕府軍は数ではまさっていましたが、意見が一つにまとまっていませんでした。また、戦国時代からあまり変わらない旧式の装備でした。これに対して長州軍は武士だけでなく民までもが一つにまとまり、西洋から最新式の鉄砲や船を購入していました。

④魔王
 長州藩は自分たちの藩たった一つで無謀にもイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国連合艦隊と戦争をしたことがあります。結果は完敗です。
 晋作は、このときの戦争後の話し合いの代表に選ばれました。長州藩は負けた側ではありましたが、晋作は臆することなく相手側と対等に議論しました。このときの晋作のことを相手側の外国人通訳は「まるで魔王のようだった」と記録に残しています。

⑤結核で亡くなる
長州戦争の終わりごろから晋作は体調がすぐれませんでした。肺結核にかかっていたのです。肺結核は当時は不治の病でした。無理な行動をくり返したため、急激に悪化したのです。
晋作は29才という若さで惜しまれながら亡くなりました。


 ここで感想を聞くと④の馬関戦争のことが話題となる。
 西洋が圧倒的に強い、という情報をここまで与えてきているので長州というたった一藩で四カ国連合艦隊と戦争をしたことに驚いていた。

<ワークシート・第3ページ>
★高杉晋作の日記を読んで考えてみよう

1862年4月。
 晋作は千歳丸という船で清国の上海へ4ヶ月におよぶ海外視察へ出かけました。もちろん、海外へ行くのは初めてのことです。晋作はこのときのことを日記に書きとめ『遊清五録』という本に残しています。
この日記の中から4つのエピソードを読んでみましょう(なお、小学生にもわかりやすくするために言葉や文章を変えたり、付けたしたりしています)。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 高杉晋作は、下の4つのエピソードの中でどれにいちばんショックを受けたと思 │
│いますか? 一つ選んで理由を書いて下さい。また、ショックを受けた晋作はこれ │
│からの日本はどうするべきだと考えたでしょうか? │
└──────────────────────────────────────┘
①5月6日
 ようやく上海に到着。ここは清(中国)でいちばん大きな港のはずなのだが、泊まっているのはヨーロッパの商船や軍艦ばかりである。船の帆柱がすごい数なのでまるで森のように見える。陸にはこれもヨーロッパの商館の白い壁がえんえんと続いていてまるでお城のようだ。

上海の港


②5月13日
 イギリス領事館から少し離れたところにガーデンブリッジという橋がある。この橋は今から7年前に一度こわれたらしい。ところが清国人には橋を直す力がなかったので、イギリス人がこの橋を作り直した。そこで清国人はこの橋を通行するたびにイギリス人にお金を支払わなければならないという。

③5月21日
清国人はことごとく西洋人にこきつかわれている。イギリス人やフランス人が町の中を歩けば、清国人はみんなはじによって道をゆずりビクビクしている。ここは清国の町のはずなのにイギリスやフランスの町のようだ。

④6月17日
午後、イギリス人が守っている砲台を見学し、イギリス製の最新式のアームストロング砲を見た。現在、わが国が使っている大砲はほとんどが筒先から玉薬を入れるが、この大砲は手元から玉薬を入れる。だからとても便利だ。図に書き残しておこう。

 
子どもたちの主な意見を見てみよう。
 なお、人数分布は以下のようになった。

①・・・1組 0人  2組 0人
②・・・1組 4人  2組 4人
③・・・1組15人  2組20人
④・・・1組 4人  2組 6人

*②派
「これからの日本は、何か壊れたらすぐに直し、外国人に頼りすぎない方がいい。外国人を自由にしたら清のように通るたびにお金を取られるかもしれない」
「清国人が橋を直せなくて、それをイギリス人が直したのは親切かもしれないと思う。でも、お金を取ることはない。日本は何かを直したらお金を取るケチくさいことはしない国造りをしよう」
「もともとは清の橋なのに、イギリスが直しただけで清の民からお金を取るか?普通に対等に過ごせばいいのに。日本は、こんなことがないようにしたい。全員対等に暮らせる国づくりがしたい」
「清国人が直す力がないということで、イギリスに頼み、作ってもらったとはいえ、通行する人がお金を支払わなければいけないというのはあまりに卑怯だ。日本はこういうことが起きないように自分たちの力を付けなければいけない」
*③派
「この頃の日本人は植民地にされたくないと思っている時だったから、植民地にされたらこんなひどいことになるんだって思い知らされている感があってショックで、日本は弱くても堂々と強そうにするべきだと考えたと思う」
「清国人がことごとく西洋人にこきつかわれているところがショックを受けたと思う。もしも、これが日本人だったら耐えられないし、自分の存在を見失う」
「清の人たちはもう、自分たちの居場所がなくなってしまっている。自分の国なのに普通の生活ができない。これからの日本は西洋に負けたとしてもちゃんと自分たちの意見を言うべきだ」
「清国人が簡単にやられてイギリスやフランスの国のようになっているから、これからの日本は清国人と同盟を結んで、イギリス・フランスを倒す」
「日本が開国したらこうなるのではないか、と思った。③から④の日にちが空いているのでショックすぎて他のことを書けなかったのではないか」
「ここは清の国なのにまるでイギリスやフランスの国みたいになったらとてもいやだと思う。これからの日本は外国人に恐れずに立ち向かっていくことが大切だと思う」
「清の土地は清国人のもののはずなのに、西洋の人たちが清を西洋の一部分と勝手に決めつけて住んでいる。これから日本は、聖徳太子と同じように西洋の国とも対等につきあうべきだと思います」
「西洋の植民地になるのはこわい。まるで自分たちの国が他の人々の国のようだ。日本はどうやってでも植民地になるのを防がなければ!日本は日本としてこのまま行きたい。何か方法や対策を練らなければ。独立する!」
*④派
「今の日本は、筒先から入れるから時間がかかるのに、イギリスのは手元から入るから負けるのは当たり前だと思う。これからは日本もイギリスから最新式の大砲を買って、研究を重ねるべきだ」
「日本の大砲とは比べものにならないから、戦争を仕掛けても絶対に負けてしまう。これからの日本は、もっと兵術を改良すべきだ!これでは戦争を仕掛けられたら植民地だ」

 晋作は「これが一番ショックだ」とは書き残していない。
 ここでは自分が晋作だったらという観点で幅広く意見を出してもらう。しかし、どの項目を選んでも子どもたちの意見には「植民地化への恐怖」が述べられている。考えられる対策も具体性のあるものではないが「侮られてはいけない」「軍備の充実」の2点が提案されている。

<ワークシート・第4ページ>
★上海から帰った高杉晋作はどうしたか?

 上海から帰った晋作は次のように言っています。
「清国の上海の状況を調べたり、北京の情報を聞くと、わが国・日本も植民地化されないような策をすぐにでも打たなければ清国と同じようになってしまうだろう」
晋作が言う「策」とはどんなものでしょうか?
┌──────────────────────────────────────┐
│   日本人が独立の心をもち、西洋に負けない軍備を充実させること │
└──────────────────────────────────────┘
 晋作は帰国すると独断でオランダから蒸気船を購入する契約を結びました。また、今回の航海でイギリス人から実地に学んで航海術を身につけ、くわしい日誌をつけています。そして、軍艦や大砲を国内で作ることができるように西洋の技術を学ぶ必要性を訴えました。
 さらに、晋作は奇兵隊(きへいたい)という新しい軍隊を作りました。武士の上下関係よりも、その人の持っている実力を重視し、武士でなくてもやる気のある者は農民でも入隊を許可したのです。 
 外国と戦うためには武士だけでは足りません。人口の90%をしめていた民の力も必要になっていたのです。奇兵隊には入隊希望者が次々と押しかけました。この後、長州藩では、遊撃隊・御楯隊・八幡隊・お相撲さんによる力士隊などさまざまな軍隊が400以上結成され、活躍しました。


 学習後の感想文を紹介する。
*晋作の奇兵隊から軍隊が結成されて活躍したと言うことは軍隊のもとは晋作なんですね。晋作の心構えも、軍隊の結成も、勇気がなければできなので晋作はすごい人だとわかりました。
*一番印象に残ったことは、晋作の日記です。西洋人の力が強くて、みんなが怖がっていたことが改めて伝わってきました。そして、「日本人が独立の心を持ち、西洋に負けない軍備を充実させること」・・・この言葉と奇兵隊を作るという考えがすごいと思いました。
*晋作はこんなにも策を練り、日本が植民地になることを誰よりも心配していたはずなのに29才という若さで死んでしまうなんて、どうして大きなことを成し遂げたり、有名になって活躍したりする人は若いうちに死んでしまうのだろう?と歴史の勉強をしていていつも思います。神さまぁ・・・」





2015.10.30(Fri) | 幕末 | cm(0) |

吉田松陰

  幕末の人物学習である。
  第1回目は、吉田松陰を取りあげる。幕末人物学習の共通課題は「幕末の武士たちは日本のためにどんな行動を取ったか調べよう」であるが、吉田松陰の授業では当時の武士たちの共通の行動指針となった<尊皇攘夷>の考え方を知ることが大きな目的になる。また、同時にその思想を支えていた「国家」意識の芽生えを感じ取らせることも重要な指導事項である。

  ワークシートを配布して氏名等を書かせた後、松陰の2枚の肖像画を見せる。

<ワークシート・1ページ目>
★どちらも吉田松陰の肖像画です。気づいたことを書き出しましょう。

吉田松陰肖像①

吉田松陰肖像②

 子どもたちは以下のような気づきが出された。
*本があること
*刀(脇差)があること
*丁髷を結っているので武士であること
 に気づく。その他に松陰の風貌について
*鼻が長い

『では、吉田松陰はどんな人だったのか調べてみましょう』 

<ワークシート・2ページ目>
★アメリカへ渡ろうとした吉田松陰

①11才で殿様に教える
 1830年8月、松陰は長州藩の武士の子として生まれ、幼いときから山鹿流兵学を学びました。なんと松陰は11才で長州藩の殿様にこの兵学の授業をしました。その授業があまりにもすばらしかったので大人たちを驚かせました。

②西洋の兵学を学ぶ
 しかしアヘン戦争で清がイギリスに大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋の兵学を学ぶために九州へ行ったり、江戸に出て勉強を続けました。

③アメリカへ密航をくわだてる
 1853年、ペリーが来航すると浦賀へかけつけて黒船を視察し、西洋文明のレベルの高さに驚き、西洋への留学を決意します。しかし、当時は鎖国の時代です。日本人が海外へ行くことできません。そんなことをすれば重い罪になります。
 翌年、再びやって来たペリーの黒船に乗り込むために、弟子の金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟で黒船にこぎ寄せました。幕府には秘密でアメリカに渡ろうと密航を計画したのです。しかし、ペリーに乗船を断られました。
 ペリーはこのときのことを日記にこう記しています。
『4月25日。午前2時。
 私たちの船に2人の男が近づいた。通訳を出してその男たちの要望を聞いたところ「アメリカへ連れって行ってほしい。世界を見て自分の考えを深めたいのだ」と言う。しかしそれは今の日本では犯罪になるので引き返してもらった。それにしても、知識を求めるためなら命もおしくないというこの2人は道徳的にも知的にも高い能力を持っている。このような若者たちがいるこの国の将来はたいへん有望だ』

④松下村塾
 この事件でとらえられた松陰は、長州へ帰され、野山獄という牢屋に入れられました。その後、許されて獄を出た松陰は松下村塾を開き、のちに日本を支える優秀な弟子たちを育てました。なお、松陰は一方的に自分が弟子に教えるだけではなく、弟子といっしょにに意見を出し合いました。「キミ」「ボク」という言葉も松陰が使い始めました。

松下村塾①

松下村塾②


⑤松陰の最期
 その後、松陰は再び幕府の考え方を批判しました。
 その結果、松陰は幕府に捕らえられ、江戸に送られて斬首刑となりました。30才でした。


 子どもたちは、幕府の手により30才で斬首されたことに大きな衝撃を受けていた。これはのちの意見形成に大きな影響を与えることになる。

<ワークシート・3ページ目>
★松下村塾の話し合いに参加してみよう

以下は先生の考えた架空の話し合いです。

 松下村塾では毎日のように松陰の弟子たちが「これからの日本はどうすればよいか?」について熱心に話し合っていました。
今日の話し合いは、松陰が次のように投げかけることで始まりました。

『アメリカ・イギリス・ロシア・・・どこの国も「国」としてひとつにまとまり、巨大な力をもってこの日本に迫っている。ボクが思うには、このままでは日本は西洋の植民地にされてしまう。ところが、わが国はいまだに「オレは長州藩だ」「私は薩摩藩だ」と自分の「藩」にこだわっている。とても「国」としてまとまっているとは言えない。キミたちはどうすればいいと思いますか?』

<弟子Aさん>
とにかく今はオールジャパンでこの危機を乗り越えなければなりません。それにはリーダーが必要です。いくら「だらしがない」と言ってもいまだに日本でいちばん大きな力を持っているのは幕府です。しっかりした考えを持った人が幕府にもいるはずだから、その人たちに働きかけて幕府を改革してリーダーを続けてもらいましょう。そして、いまのまま幕府のリードで開国を推進するのです。貿易でもうけたお金と「敵」である西洋から学んだ知識で西洋に負けない国づくりを進めるしかありません。

<弟子Bさん>
オールジャパンは私も賛成です。しかし、いまの幕府に改革などできるのでしょうか。それよりも天皇にリーダーになってもらいましょう。昔から日本は天皇を中心にまとまってきました。こんな危機だからこそ天皇中心の国づくりが必要です。この意見に賛成の武士たちが集まって幕府に代わる新しい政府を作るのです。そして、新政府がリードして開国を推進します。Aさんの言うとおり西洋に負けない国づくりを進めましょう。

<弟子Cさん>
 もちろん私もオールジャパンが必要だと思います。Bさんと同じくリーダーは天皇になってもらうことに賛成です。しかし、そうカンタンに開国を進めてよいのでしょうか?貿易を始めれば、あっという間に日本は西洋に飲み込まれてしまうでしょう。すでに物価が上がり、民は生活が苦しくなっています。生活が西洋化することで日本の伝統文化も消えてしまう可能性もあります。まだまだ西洋人を日本で自由に行動させるのは制限するべきです。あせってはいけません。


◆あなたはどの意見に賛成ですか? A・B・Cからひとつ選んでその理由を書いて下さい。


児童の意見分布を見てみよう。

A・・・1組 1人  2組 0人
B・・・1組 14人 2組13人
C・・・1組 11人 2組16人

主な意見を見てみよう。
*A派
「これまで頑張ってきた幕府を倒すのはよくない」

*B派
「昔から日本は天皇中心の国づくりをしたきたのだし、Cさんのような小攘夷をしていると国と国との争いが起きて、結局負けて植民地にされる。それなら、人が死なない開国の方がよい」
(なお、この児童は話し合いの中で「今のままでは幕府がリーダーの日本は弱いと思われているので、新しい政府を作ってイメージチェンジすれば西洋の国も味方が変わるのではないか」という意見を出していた)
「もう幕府はダメだと思います。だから、昔のように天皇中心でいきましょう。開国もした方がいいと思います。今は西洋人から色々と技術を教えてもらって、仲間になり、物価を下げられるようにすればいいと思います」
「どこの国でも強いリーダーが国をまとめています。もう、幕府の力は衰えているので、これからの重要な判断は天皇にまかせ、藩をなくせばさらに国はまとまります」
(この児童は話し合いの中で「藩を作ったのは幕府だから藩をなくして一つにまとめるためには幕府を倒す必要がある」と発言)
「幕府は鎖国をしていたので西洋とつきあうことには賛成はしないだろう。天皇なら昔の日本のやり方で西洋の国とつきあってもいいと許可すると思う。そこで天皇と手を組んで賛成する武士たちで倒幕して新しい国づくりをしたほうがよい」
「天皇中心の国づくりは本当に昔からやってきていることなので、天皇がリーダーになるべき。開国すれば、さらに西洋の国の知識が増えて、海外との親善も深まる」

*C派
「リーダーを天皇にするのはよい考えだと思う。でも、日本の文化がすべて西洋風になって消えてしまうのはよくない。キリスト教が入ってくれば、日本の神様がなくなってしまうかもしれない」
「幕府には改革はできない。開国を焦ると民が生活できなくなって、西洋につぶされてしまう。お金がどんどん外国に流れて日本が弱くなってしまう可能性もある」
「日本は昔から天皇中心だったので、天皇中心に賛成です。そして、焦らずにまずは日本をしっかりさせてから開国した方がいいと思います」
「いちばん数が多いのは民です。しかも、何年も続く伝統文化を絶やさないようにするのも今の人の使命です」
「日本なのに時の流れに流されて日本の文化をなくし、西洋の文化を広めるというのはおかしい。自分たちにしかない文化を高めて、日本は西洋に負けないぞ、ということをアピールしたほうがよい」
「藩ではなく国全体でまとまらなければいけない。昔からの日本の考え方ならまとまれる。だから大切。天皇中心でいいと思う。これからも日本らしく行くためには開国はまだ早いかなと思う。日本という国としてまとまるべきだ」

  佐幕派はたった1人となってしまった。前回から比べて大きな変化である。これは松陰を斬首刑にしたのが幕府であることが大きく影響していると思われる。
  話し合いが終わったら
『では、松陰の考え方を見てみましょう』
と言って4ページ目を読む。

<ワークシート・4ページ目>
★吉田松陰の考えた日本の未来

 では、松陰はどう考えたのでしょうか?
 松陰は長州藩の殿様に自分の意見を提出しました。その『将及私言』という本の中でこう書いています。
┌──────────────────────────────────────┐
│  最近、よくこんな意見を聞くことがあります。 │
│ 「もし、西洋が攻めてきたら、江戸は幕府の土地だから、幕府を守るやくめの旗本と│
│ 徳川家の親藩大名、昔から徳川に仕えている譜代大名が守ればいいだろう。 │
│ そして、私たち長州藩のようにその他の藩はそれぞれの自分の藩を守ればいいはずで、│
│ 江戸を守るために幕府に力を貸す必要はない」 │
│ これは本当に大事なことがわかっていないダメな意見です。 │
└──────────────────────────────────────┘
 西洋の国々は「国」というまとまりで大きな力をつけています。ところが、当時の日本人はいまだに「藩」という小さい単位でしか世界を見ていませんでした。日本という「国」の「日本人」として考え、行動し、まとまらなければ西洋の植民地にされてしまいます。

 そこで、松陰は日本人が一つにまとまるために次のように考えました。
①尊皇(そんのう)
 古来から日本は天皇を中心にまとまってきた。これが他の国にはないわが  国の特徴だ。だから、日本が他の国と対抗するためには天皇を中心にまと  まるべきだ。
②攘夷(じょうい)
 たしかに西洋の国々はすごいし、学ぶべきこともたくさんある。しかし決し てビクビクして侮られてはいけない。言うべきことははっきり言わなければ いけない。すべての国と対等につきあえるように堂々と行動しよう。

 こうした松陰の考え方を「尊皇攘夷」と言います。幕末の武士たちはみんなこの考え方で行動するようになっていきました。

2015.10.26(Mon) | 幕末 | cm(0) |

黒船がやって来た

 第2時である。
 ペリーの黒船来航を扱う。
「前回の学習でオランダ風説書がアメリカのペリーが来ることを予告していましたね。ついにやって来ました」
 
<ワークシート・1ページ目>
★ペリーの黒船来航
 1853年の6月。
 予告されたとおりアメリカの巨大な黒船4せきが江戸湾に近い浦賀にあらわれました。この絵を見て気づいたことを書き出してみましょう。


1853年

サスケハナ号


 画像右手の黒船について
「船から煙が出ている」
「国旗みたいなものがついている」
「外国の船の方が何倍も大きい」
「横に水車みたいなものが着いている」
 当時のエンジンは石炭を燃やして、そこから出る蒸気の力で動く蒸気船であることを教える。日本の小舟との大きさの比較は大事な気づきである。
 画像左手の海岸周辺について
「たくさんの人や舟がある」
「青いもので囲まれている」
「兵隊?らしき人がたくさん並んでいる」
「日本の小舟は34隻」
「日本側は厳重な警戒」
 船の大きさの違いも重要だが、幕府側は戦闘態勢にあったことをイメージしてほしい。決して友好ムードで黒船と対峙しているわけではない。
 次のワークシートの設問(1)で4隻はすべて「軍艦」であり「大砲」を摘んでいることに着目させる。商船ではないのだ。

<ワークシート・2、3ページ目>
(1)この4隻の黒船のデータを見てみましょう。

│   船名 │    種類 │  大砲 │  定員 │  積載トン │
│ 1. サスケハナ号 │ 側輪蒸気軍艦 │   9 │  300人 │  2450トン │
│ 2. ミシシッピー号│ 側輪蒸気軍艦 │  12 │  268人 │  1692トン │
│ 3. プリマス号 │   帆走軍艦 │  22 │  210人 │ 989トン │
│ 4. サラトガ号 │   帆走軍艦 │  22 │  210人 │ 882トン │

  ※この4隻の船に共通していることは何ですか?

(2)アメリカ大統領からの手紙を読んでみよう
 この時、ペリーは幕府へ大統領からの手紙を渡しました。
 そして「来年また来るのでその時に返事を下さい」と言って4日後に帰っていきました。その手紙を読んでみましょう。
┌──────────────────────────────────────┐
│  日本の皇帝へ │
│ │
│ ①アメリカの船が故障したり台風のために日本に避難が必要なときは乗組員の命 │
│  と財産を保護してほしい。 │
│ ②アメリカの船が燃料や水、食料が必要なときや修理しなければならないときは │
│  日本の港をいくつか利用できるように許可してほしい。また、日本の近くの無 │
│  人島を石炭の貯蔵所にしたい。 │
│ ③日本と貿易をしたいのでいくつかの港を利用できるように許可してほしい。 │
│ │
│   アメリカ大統領 フィルモアより │
└──────────────────────────────────────┘
※幕府がいちばん困ったのは①②③のうちどれでしょうか?

★日米和親条約
 翌年の1854年。今度は黒船12隻をひきつれて、ペリーが再び来航しました。
 このときに日本はアメリカと日米和親条約を結びました。この条約で下田と函館の2港を開くことになり、ついに鎖国は終わったのです。

1854年①
1854年②


★日米修好通商条約
4年後の1858年。アメリカ総領事のハリスと何度も話し合って日米修好通商条約を結びました。今度は横浜・神戸・長崎・新潟・函館の5港を開きました。
 この条約は以下の点で日本側に不利な不平等条約でした。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①日本は治外法権を認めた │
│ 日本で犯罪を犯した外国人を日本の法律で裁けないので、外国人に有利な判決 │
│ が下されてしまう。 │
│ ②日本には関税自主権がない │
│ 外国の安い製品に税金がかけられないので、日本の製品が売れなくなり、日本 │
│ 国内の産業がつぶれてしまう。 │
└──────────────────────────────────────┘
 日本は、これとほぼ同じ内容でオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結びました。巨大な軍事力を持つ西洋の国々が相手では不平等な条約を結ぶしかなかったのです。

★当時の武士たちはどう思っただろうか?
 この時代の武士はこんな考えを持っていました。

□すべての武士の共通点は「尊王攘夷」だった
*尊王(そんのう)・・・日本でいちばん偉いのは天皇である。
*攘夷(じょうい)・・・西洋人に侮られたくない。ぜったいに負けないぞ!

□意見がちがう武士たちの対立点は2つある
①開国して外国人とつきあうべき(開国)⇔ 西洋人は斬り殺してしまえ(小攘夷)
②リーダーは天皇とそれを助けるやる気のある藩だ(倒幕)⇔ 
                 リーダーは天皇とそれを助ける幕府だ(佐幕)

□(1)と(2)を考えると次の4つの意見に分かれます。
┌──────────────────────────────────────┐
│ A:幕府を守り、開国して西洋人とつき合おう │
│ B:幕府を倒し、開国して西洋人とつき合おう │
│ C:幕府を守り、西洋人を追い出そう │
│ D:幕府を倒し、西洋人を追い出そう │
└──────────────────────────────────────┘

 当時の武士になったつもりで、あなたの意見を書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 4つの選択肢の分布は以下のようになった。

 A・・・1組 9人 2組 7人
 B・・・1組11人 2組10人
 C・・・1組 6人 2組10人
 D・・・1組 1人 2組 1人

代表的な意見を紹介したい。
*A
「幕府は家康様が開いて続いてきたものだ。絶対に守り抜く。そして、西洋人ともつきあう。戦争して植民地になるぐらいなら、つきあって貿易して日本を発展させたい。もっともっと強くなってから追い出せばいい」
「参勤交代の制度もあって幕府を倒すことはできない。西洋人を追い出すと戦争になってしまう」
「西洋人を追い出そうとして戦いが起こったら勝てないし、幕府を倒そうとすると日本の中で戦争が起こってしまう」
「幕府を倒してしまったら日本を制御できないし、西洋人とつきあえば科学が発展すると思う」
*B
「幕府は200年間も鎖国を続けてきたから開国はすぐに認めないと思う。でも、このままだと西洋との差がどんどん広がってしまうから開国する気のない幕府を倒して、やる気のある藩と開国を進めたほうがいい」
「いまの幕府は力がないし、日米修好通商条約を勝手に結んじゃったから倒すべき。西洋人を追い出そうとしてもアメリカやイギリスの方が強いから攻撃されて日本が滅びてしまう」
「もう幕府は信用ならないから倒す。外国とつきあいながら少しずつ軍事力を付けていき不平等条約を改正する。戦争になったら外国からもらった新しい武器で戦う」
*C
「幕府がいなかったら日本はまとまらない。貿易したら外国の安い製品が入ってくるから日本の商売はつぶれてしまう」
「幕府はまだ大切だから守っておくべきだ。西洋人のいいなりになったら日本は商売がだめになる。だから西洋とは離れた方がいい。西洋には勝てないかもしれないが、このままだとだめだから追い出すべき」
「今まで江戸時代はうまくいっていた。苦しいと思った人は少ないと思う。もし、開国したら植民地になってしまうと思う」
*D
「幕府は日本に不平等な条約を結んだから倒す。こんな条約を結んだら外国人に好き勝手にやられてしまうから追い出さないと困る」

 開国派が多いのはわかるが、倒幕派と佐幕派を比べると佐幕派の方がやや多いのは興味深い結果である。これまでの江戸時代の学習により、パックスエドガワーナ(江戸時代の平和)は子どもたちの中に印象深く残っているようである。
 また、小攘夷派も意外にたくさんいる。やはり、不平等条約への怒りは子どもたちも当時の武士と同じようである。

<ワークシート・4ページ目>
★江戸時代の終わりごろの日本はどうなっていたのか?

 江戸時代の終わりごろを「幕末」と言います。では、「幕末」はどんな時代だったのでしょうか。

①日米修好通商条約を結ぶときに幕府は天皇の許可をもらおうとしました。しかし、天皇は西洋人が日本に住むことや港を開くことには反対していたので許可がもらえませんでした。このため、開国派よりも、幕府に反対する小攘夷派の意見が強くなっていきました。

②ところが、幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)は天皇の許可なしで条約を結びました。そして、これに反対する者を次々と逮捕したり、処刑しました。これを「安政の大獄」と言います。これで、今度は佐幕派の意見が強くなりました。

③しかし「安政の大獄」に怒った武士たちは、江戸城に入る途中の井伊直弼を桜田門の近くで襲撃して暗殺しました。これを「桜田門外の変」と言います。これによって再び幕府に反対する意見が盛り上がりました。

④そこで、幕府はまきかえしをはかるため「天皇と幕府が協力しましょう」という「公武合体」を進めました。天皇も賛成したので、またもや幕府は力を盛り返しました。
 
このようにめまぐるしく変化する中で、日本を大きく変える力になったのが「雄藩」と呼ばれる大きな藩です。とくに次の3つの藩は大きな役割を果たし「志士」と呼ばれて大活躍する武士がたくさん生まれました。
*薩摩藩(いまの鹿児島県)の西郷隆盛・大久保利通
*長州藩(いまの山口県)の吉田松陰・桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・伊藤博文*土佐藩(いまの高知県)の坂本龍馬
 などです。なお、幕府にも勝海舟というすぐれた人物がいました。この後はこうした人物を通して学習を進めましょう。

2015.10.24(Sat) | 幕末 | cm(0) |

幕末の重大情報

  幕末の学習へ入る。
  2つのことを確認する。
  『いまは何時代なのか?』 
  「江戸時代」とすぐに出る。そこで江戸時代も終わりごろの学習に入ることを伝え、「幕末」という言葉を教える。
  『これからの学習に関係する重要なことばをおさらいしましょう』と言って<鎖国>と板書する。
  意味を問う。
  大事なことは、貿易の制限をしていること、貿易はオランダと中国の2カ国であること、キリスト教が国内で広まることを恐れたための政策であることを確認する。
 
  ここまでの復習が終わったらワークシートを配布する。そして、以下の画像を提示する。
アヘン戦争図


<ワークシート・1ページ目>
★江戸幕府は、200年間も鎖国を続けていました。しかし、世界の情報がまったく入ってこなかったわけではありません。
江戸幕府は毎年、長崎のオランダ商館から「オランダ風説書」という世界の情報が書かれた資料を取り寄せて読んでいました。では、江戸時代終わりごろにその中に書かれていた2つの重大な情報について調べてみましょう。

★その情報に関係する次の絵を見て気づいたことを箇条書きで書きだしましょう。


子どもたちからは以下の気づきが出される。
「船が爆発している」
「船の破片が浮かんでいる」
「爆弾かな?」
「煙が上がっている」
「戦争かもしれない」
「日本の船ではない感じがする」
「右斜めに大きな船がある」
「ボートに乗っている人は避難?それとも喜んでいる?」

 こうした子どもの発言を拾って以下の情報を与える。
 これは日本ではない。中国(この時代は清)とイギリスの間の戦争でアヘン戦争という。
 この戦争はイギリスの圧勝に終わった。奥の大型船がイギリスで、手前の帆船が清の船である。イギリス軍艦からの砲撃で清の船が撃沈されている。

<ワークシート・2、3ページ目>
★オランダ風説書による重大情報その1ーアヘン戦争

 絵に描かれているのは1840年にイギリスと清(中国)の間に起こったアヘン戦争のようすです。
 18世紀(日本では江戸時代の中ごろ)になると、西洋(ヨーロッパ)の国々ではさまざまな機械が発明され、大きな工場で大量の製品を作るようになり、大型の蒸気船で世界中の国々に進出するようになったのです。これを「大航海時代」と言います。
 さて、このころイギリスでは紅茶を飲むことがブームとなっていました。そこで大量の茶葉が必要になり、植民地にしていたインドで麻薬であるアヘンを作らせ、それを茶の代金として清に売りつけました。
清は、麻薬であるアヘンの広まりをおさえるためにアヘンの輸入を禁止しましたが、これに怒ったイギリスは軍艦で清を攻撃しました。このアヘン戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、清は植民地と変わらない扱いを受けるようになってしまったのです。
日本よりも大きな国である清(中国)が西洋の国にかんたんに負けてしまったという情報は長崎のオランダ商館から届けられる「オランダ風説書」により日本にも伝えられ、大きなショックをあたえました。

アヘンを吸う清国人
インドのアヘン工場①
インドのアヘン工場②
ケシの美



◇植民地とは?
 上の例で言うと、インド人の土地にイギリス人が移り住み、イギリス政府の支配下になってしまうことです。
 16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降、西洋の国々はアジアやアフリカの国を次々と植民地にしました。
いくつか例をあげてみましょう。

マレーシア→ポルトガルの植民地
 フィリピン→スペインの植民地
 インド→イギリスの植民地
 ミャンマー→イギリスの植民地
 インドネシア→オランダの植民地
 ベトナム→フランスの植民地

アジアで西洋の植民地になっていない国は日本・清・タイの3つだけでした。
 しかし、アヘン戦争に負けた清も半植民地となり、残るのは日本とタイの2つだけとなってしまったのです。
 さて、江戸幕府は鎖国を続け、西洋の国々とはオランダとだけ長崎で貿易していました。ところが、オランダ以外の西洋の国の船もたびたび日本に近づいていたのです。

目撃された外国船


★オランダ風説書による重大情報その2ーアメリカから黒船が来る
それから約10年後。「オランダ風説書」が再び重大な情報を日本に届けました。

①アメリカは使節を派遣して日本と貿易したいと言っている。
②その使節は日本の将軍へ書いた大統領の手紙を持ってくる。
③日本の港を貿易のために2~3カ所開いてもらい、その港に蒸気船を動かすための 燃料となる石炭を貯え、アメリカと中国を結ぶ蒸気船航路にしたい考えである。
④使節のリーダーは最初はオーリックさんだったがペリーさんに交代した。
⑤日本に上陸するための軍隊と道具などを用意しているようだ。
⑥来年の春には到着する予定である(少し延びるかもしれない)。

当時の日本人になって考えてみましょう。今後のわが国・日本に起こるかもしれない<危機>とは何でしょうか?


子どもからは以下のような意見が出てきた。代表的なものを紹介する。

「鎖国を終わりにしてオランダ以外の国ともやりとりや貿易をしなければならないかもしれない。他の国とやりとりをすれば、日本も西洋の植民地になってしまうかもしれない」
「アヘン戦争の時のように日本がアメリカの植民地にされてしまう」
「清も半植民地になっている。清よりも小さな日本は貿易を断ったらアメリカに攻撃されそう」
「強い西洋(アメリカ)が軍隊を率いてやってくるのに鎖国を続けている幕府が拒否したら、来年の春には日本が攻撃されてしまうかもしれない。負けたら植民地になるのではないだろうか」

 子どもたちはアヘン戦争というショッキングな情報を得て、同じようなことがわが国にも起こるのではないか?と危惧している。
 ここで、
『では、当時のリーダーである幕府はどんな考えを持っていたのだろうか?』
 と投げかけて次を見てみる。

<ワークシート・4ページ目>
★この<危機>に対して幕府はどう考えていたのでしょうか?

<江戸幕府の考え>
①わが国は、江戸幕府を開いた家康様のころから外国とは通信も貿易もしてい ない。
②その後、通信する国(朝鮮・琉球)と貿易する国(オランダ・中国)を限定 した。
③以上のことは、わが国の昔から決まっているルールなので変えられないし、
 変える気もない。

当時の日本にはこの幕府の考えに異議をとなえ、反論する人たちが次々と出てきました。
 あなたなら幕府の考えにどう反論しますか?

◇あなたの幕府への反論を書いてみて下さい。


 子どもたちの幕府への反論を紹介する。
「江戸幕府の考えも確かに理解できます。ですが、私たちよりも大きい清が西洋に負けてしまったという事実があります。江戸幕府を大事にしたいなら、引き受けた方がいいと思いますよ。じゃなきゃあ、攻撃されてしまいます」
「もう200年も続いてきたのだし、鎖国を決めた本人もいない。だから、ルールを変えてもいい。もっと通信する国と貿易する国をふぉやしてもいいと思う。このままじゃ、日本も味方を作らなければ戦争に勝てやしない」
「いろんな国と貿易すれば新しい学問や道具、武器が入ってきて日本は強くなれる。他の西洋の国と同じような近代国家になれる」
「西洋の国々は強い武器を持っている国がたくさんあります。もし、鎖国を続ければ、西洋の国に日本は支配されてしまうでしょう。でも、アメリカと手を組んで仲良くすれば他の西洋の国とも仲良くできるはずです。清という大国を倒したイギリスなら日本が困ったときに助けてくれるでしょう」 

 ご覧のように、幕府への反論を書くという設定なので当然、子どもたちは開国派として意見を述べている。
 興味深いのは開国すべき理由である。
*強い相手に逆らって鎖国を押し通したら相手を怒らせることになる。
*開国して西洋と仲良くすることが日本にとって得策だ。
 この2点のどちらか、または両方に触れている子が多い。
 アヘン戦争の結果を見れば、これしか道はない、と考えるのは当然だ。 

 ここで幕末の第1時は終わり、第2時の開国へとつながる。

2015.10.24(Sat) | 幕末 | cm(0) |

本居宣長

 江戸時代の新しい学問の最終回は国学の本居宣長である。
 肖像画を見る。
本居宣長肖像画

ワークシートを配布してタイトルを書く。
 「国学と本居宣長」

<ワークシート・1ページ目>
★下の絵は有名な「出会い」を描いた絵です。気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。


 なお、真ん中に坐る男性が本居宣長であることと有名な出会いのシーンで「松阪の一夜」と呼ばれていることは教えておく。

松阪の一夜

 子どもからは次のような意見が出た。
*時代劇みたい。
*右の人が宣長に何かを言っている。先生みたい。右の人の方が偉い感じ。
*真剣な話みたい。悩み事相談所的?
*宣長は本を持っている。
*薄暗い。
*正座をしている。姿勢がいい。
*ふすま。たたみ。書院造の部屋。
*左の人はお付きの人?

<ワークシート・2ページ目>
★本居宣長と「松阪の一夜」」

◇国学とは?
 本居宣長は国学者として有名ですが、職業はお医者さんです。故郷の松阪(いまの三重県松阪市)で医者の仕事をしながら、国学を研究していました。
国学とは何でしょうか?
江戸時代は幕府の方針で儒教(古代中国の孔子の教え)が学問の中心でした。そんな中にあって「日本の独自の文化を見つめ直すことが重要だ」として国学が生まれました。
 宣長は国学が研究する分野を4つ分けています。
*神学・・・神社や神道など古くからある日本の信仰
*有職・・・古代からの法律や儀式のきまり
*記録・・・記録をもとにした日本の歴史
*歌学・・・古くからある歌や文章

◇松阪の一夜(まつざかのひとよ)
ある夏の日のことです。宣長はいつも訪れる本屋さんへ立ち寄ると、本屋の主人にこう言われました。
「本居さん、残念でしたね。あなたが尊敬している賀茂真淵先生がついさっきここに立ち寄ったのですよ」
「なんですって!真淵先生がなぜこの松阪に?」
「仕事があってこの近くを通り、一昨日は近くの宿に泊まったそうです。いまから後を追えば追いつけるかもしれません」
宣長は尊敬する真淵に会えるかもしれないとわかると大急ぎで後を追いましたが、残念ながら会うことはできませんでした。
ところが数日後「賀茂真淵先生はまだ帰らずに泊まっている」と親切な宿の人が知らせてくれたのです。
すでに日も暮れかかっていましたが、宣長は大急ぎで宿を訪ねました。こうして、宣長と真淵の二人はほの暗い行灯(あんどん)の光のもとで出会ったのです。
 宣長は尊敬する真淵の前でこれからの自分の研究について話しました。
「真淵先生。わたしはこれから古事記を研究する必要があると考えているのです」
 真淵はこう答えました。
「それはいいところに目をつけましたね。古事記を研究するためには日本の古代人の心を知る必要があります。そのためには古代の言葉を解明しなければなりません。まずは万葉集を研究しなさい。そうすれば古代の言葉がわかるようになります。学問で大事なのはまず低いところを固めておいてそれから高いところへ登ることですよ」
真淵の言葉に感動した宣長は真淵の弟子となり、手紙のやりとりを続けて自分の研究を深めていったのです。
 その後、宣長は『古事記』の研究を続け、30年以上かかって全44巻の『古事記伝』を完成させました。


 この話を読むことで画像で見た2人の関係や薄暗い行灯の火、宣長が本を持っている理由などがわかる。

古事記書き込み

 宣長が研究したことを「古事記」に書き込んだものを見せることで国学に打ち込む姿をイメージさせる。

<ワークシート・3ページ目>
★「漢意(からごころ)を洗い落とす」-本居宣長になって考えよう

宣長は『古事記』の研究を重んじました。なぜなら『古事記』は古代の言い伝えをそのまま伝えている書物だからです。

 そして、こうした日本に古くから伝わってきた書物を読むときには、中国から伝わった儒教の考え方-「漢意(からごころ)」を自分の中から洗い落とし、自分たちの心を古代日本人と同じ「大和心(やまとごころ)」にしなければ、その心はわからないと考えたのです。
 宣長によれば、漢意(からごころ)とは、「他人によく思われたい」と自分の本心を隠そうとする「飾り」のような心のことです。これに対して大和心(やまとごころ)とは、古代日本人がもっていたまっすぐで清らかな心のことです。
 
◇さて、では「漢意(からごころ)を洗い落とす」とはどんなことなのでしょう?
 あなたも本居宣長になって下の問題を考えてみて下さい。

 <漢意(からごころ)で考えると・・・>
  ある人のお父さんとお母さんが死んでしまった。
 この人はあまりの悲しみで食事もとらず、長い間思い悩んでいる。
 この人は親孝行である。

本居宣長は「これは親孝行ではない」と言っています。なぜ宣長は「親孝行ではない」と思うのでしょうか?あなたの考えを書いてみましょう。


 子どもたちの意見を見てみよう。
*お父さんとお母さんは自分が産んだ子どもに偉くて優しい人になってほしいと思っているのに、この人は食事も取らず、長い間思い悩んでお父さんとお母さんが望んでないことをしているから。
*お父さんとお母さんは死んでしまっても、お父さんとお母さんの代わりに元気に暮らす方が親孝行になるし、きっとそれを願っているあろうし、自分のためにも食事をとらないといけないから。
*もし、本当にお父さんとお母さんが好きならば、天の二人が安心できるように、二人の分までがんばるべきだと思います。惟、悲しんでいるだけでは何も変わらないので、今できることをするべきです。
*お父さん、お母さんが死んでしまって悲しみがあるのはわかるけど、それをやってもお父さんやお母さんには喜んでもらえないと思うから。その悲しみを乗り越えてお父さん、お母さんも分もがんばるという気持ちを持った方が喜んでくれると思う。

 本居宣長も上記のような子どもの考えと同じことを言っている。
 表現のレベルはさまざまだが、このタイプの回答が1組で26人中21人、2組では30人中24人だった。
 
<ワークシート・4ページ目>
★全国に広まった本居宣長の教え

「親孝行」の問題は、本居宣長が書いた『玉勝間(たまかつま)』という本の中に出てくるものです。
宣長は「漢意(からごころ)を洗い落とす」ことで「日本人がもともと持っている心をとりもどすべきだ」と考えていたのです。

宣長はたくさんの本を書いています。その本は広く読まれ、宣長の教えは全国に広まりました。お風呂屋さんで出会った女の人どうしが「いまどんな国学の本をよんでいるのか?」という会話をしていたらしい、という話も残っているほどです。国学は、町人などのふつうの民たちが学ぶ学問だったのです。

また、本居宣長のような国学者とよばれる人たちは自分の職業とは別に研究を続けてました。宣長は医者でした。元はとうふ屋さんの子どもだった人や本の版木を彫る版木師を職業にしている国学者もいました。
 
 こうして、江戸時代の終わりごろには国学の教えは日本全国に行きわたりました。宣長の弟子は500人、そして全国各地に約2000人の国学者がいたと言われています。

なお、ひらがなの五十音図で「お」はア行に、「を」はワ行に入っていますね。これを決めたのは宣長です。こんなところにも本居宣長の研究成果を見ることができます。


 授業後の感想文から
*もともと日本人が持っていたことを取り戻し、日本らしくしていくのが宣長の考えだったのですね。自分の心を飾るのではなく、まっすぐ清らかに表した方がいいと私も今回の学習をしてそう思いました。日本人は日本人らしく生きていて間違いはないんですね。
*いまの日本はこういう中国や外国にとらわれない人が作っていると思います。立ち止まって考えている本居宣長はすごいです。こんな人がいなかったら日本は外国に支配されていたかもしれないです。
*宣長の苦労はすごいと思う。大和の人の心がわかるなんて驚き。宣長がいなかったら今の日本とはちがったと思う。そんな大切な人だったと思う。

2015.10.03(Sat) | 江戸 | cm(0) |

伊能忠敬

 江戸時代の新しい学問の第2時は伊能忠敬を取りあげる。前回の杉田玄白とは「蘭学」つながりである。
 まずは伊能忠敬の肖像画を見る。

伊能忠敬肖像画

 次に以下の順番で画像を見せる。 
Ⅰ:現代の日本地図とその地図の作り方を見てみましょう。

現代日本地図
地図作製1
地図作製2
地図作製3
地図作製4
地図作製5

 飛行機による空撮、GPSを利用した地上での情報収集、特別な機械による作成、そしてパソコンによる編集などで正確な地図ができていることを強調する。画像は国土地理院のHPから取った。

Ⅱ:江戸時代はじめごろの日本地図を見てみましょう。
1630年日本地図

子どもからは「なんだかゆがんでるね」などの感想が聞かれる。


Ⅲ:江戸時代終わりごろの伊能忠敬が作った日本地図を見てみましょう。

伊能日本地図

「エッー!」「すごい」「いまと変わらないじゃん」などの驚きの声が上がる。


 以上の画像を見せた後にワークシートを配布する。

<ワークシート・1ページ目>
★下の絵は伊能忠敬をリーダーとする測量隊のようすです。気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。


伊能隊測量風景1


 子どもからは次のような気づきが出された。
*海沿いで測量している。
*ひものようなものを持っている人がいる。
*長いはたきのようなものをもっている。
*船で陸の輪郭をとっている?
*いろいろなものをしょっている。
*たくさんの人がいる。村人をスカウトした?
*左端に休んでいる人がいる。さぼっている?
*扇子を持っている人がいる。

測量の方法

 ここでは「ひも」らしきもので距離を測っていることに触れる。「長い棒」を立ててそこに「ひも」を張って距離を測り、角度も測っていたことを説明する。

<ワークシート・2ページ目>
★日本全国を歩いて地図を完成させた伊能忠敬

①伊能忠敬は、江戸の終わりごろにいまの千葉県に生まれ、49才になるまで一人で暦学(天体観測をしてカレンダーを作る学問)、いまで言う天文学を学びました。そして、50才になって天文学を本格的に勉強しようと考え、江戸へ出て19才も年下の高橋至時に弟子入りしました。
 
②忠敬は至時から最新の西洋の天文学を学びました。当時、それまで伝えられていた中国の天文学ではわからずに疑問に思っていたことが、西洋の天文学で解くことができたからです。忠敬は、精密な理論と計算方法を西洋の天文学から学んだと言っていいでしょう。

③忠敬は、どんなときも天体観測をわすれませんでした。午前中に出かければお昼の観測に間に合うか気になり、午後に出かければ夕方の観測が気になります。至時は、あまりにも熱心に研究する忠敬の姿を見て「推歩先生」と呼ぶようになったと言います。「推歩」とは星の動き測ることです。

④のちに、忠敬の作った地図が現代の地図とほとんど変わらないほど正確なのはなぜでしょうか? それはまちがいを減らすために太陽や星の天体観測をして確認したり、山を目印にした測量結果でも確認するなど、さまざまな方法でくりかえしチェックしたからだと言われています。当時は、地図を作ることと天体観測は深いかかわりがあったのです。

⑤測量は北海道の太平洋岸から始まりました。
 忠敬は「役に立つ正確な地図を作りたい」と考え、危険な海岸線も測量しました。そして、夜は天体観測を行って昼間に調べた測量結果と比較しながらまちがいを直しました。
第4次の測量が終わったところで、東日本の地図を作成して将軍に見せたところ、これを見た将軍・徳川家斉は、そのあまりの精密さに驚きました。そして忠敬に「九州、四国を含めた西日本の地図も作成せよ」と命令を出しました。

伊能隊測量風景2

「ひも」を使って測量したことはすでに説明したあるが、ここでは上の画像を見せてかなり危険な岩場を測ったり、海の中に入っての危ない測量もしていたことを強調した。

⑥測量は第10次まで続けられました。17年かかって全国の測量も終わり、日本全体の地図の作成が始まりました。しかし、完成前に忠敬は病気となり73歳でこの世を去ってしまいました。その後、弟子たちの力により3年後の1821年に日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成したのです。


 ここで伊能隊が使った道具及び完成した伊能図を見せる。なお、見せる伊能図はなるべく子どもたちに身近な地域(住んでいるところや宿泊学習に訪れた場所)を選んだ。

間縄
鉄鎖
量程車
道具1
道具2

 伊能隊の測量風景で見た「ひも」は当初は「間縄」であったが後にたるまない「鉄鎖」を使用するようになった。
 量程車は子どもたちは興味を示す。だが、平坦なところでしか使用できないので実際にはあまり使われなかった。
 方位や高度を測る道具も一つ一つ見せたい。「ゾンガラス」は今のサングラスのようなもので、太陽の観測に使われた。

関東地方
神奈川県
富士周辺


<ワークシート・3ページ目>
★伊能忠敬になって考えてみよう~忠敬はオランダ人にどう答えたか?

 以下のお話は先生が作った架空の話です。

 ある日、忠敬の作った地図を見てみたいというオランダ人が忠敬の家をたずねてきました(このオランダ人は日本語が話せるという設定にします)。
はるばる長崎からやってきたオランダ人を忠敬は歓迎しました。
「よくぞこの江戸まではるばるいらっしゃった。さぞやお疲れでしょう。さ、さ、ごゆるりとしてください」
「アリガトウゴザイマス。デモ、アマリ時間ガアリマセーン。幕府カラ江戸ニイテイイノハ3日間ダケトイワレテマス」
「そうでござったか。して、拙者にどのような用事でござろう?」
「アナタハ日本中ヲ歩イテ、日本地図ヲ作ツクッテイルソウデスネ。ソレヲ見セテクダサイ」
「うーん。なるほど。進んだ技術をもつ西洋人に見てもらえば何かの参考になるでしょう。よろしい!どうぞご覧になってください」
(注:実際には見せることはできません。勝手に外国人に見せると幕府に捕まって牢獄行です)
「フーム・・・スゴイ!驚クホド正確デース。シカシ・・・」
「どうされた?」
「コレハ本当ニアナタガ作ッタノデスカ?信ジラレナーイ!日本人ニコンナ正確ナ地図ヲ作ル技術ガアルトハ思エマセーン。ホントウハ西洋人ニ手伝ッテモラッタノデハナイデスカ?」

◇さて、忠敬はこのオランダ人の言葉を聞いてどう答えたと思いますか?
 あなたが伊能忠敬ならどう答えるでしょうか?忠敬のセリフを考えてみましょう。 注:ただ怒るだけではダメです。オランダ人を納得させてください。
 

 後の話し合いでは子どもたちからこんな意見が出てきた。
①西洋から学んだ技術がある
*私は西洋の天文学が好きで学んでいました。そのおかげで日本人がこの地図を作ることができたのです。西洋から学んだことを生かして、日本人が製作したのです。手伝ってもったわけではありません。
*昔はそうだったかもしれませんが、今はちがいます。日本人の技術は発達し、オランダに勝るような地図を作れるような日本になったんですよ。
*たしかに、西洋から学んだ天文学も使いましたが、これは私たち日本人で作り上げたものです。日本も確かな技術を持っています。この道具を見て下さい。これは私たちが開発したものです。「ホー、ナルホドデスネー。スゴイデース!」
*私は西洋人には手伝ってもらっていません。でも、西洋の天文学を学んで正確さを確かめました。

②その目で見てもらおう
*ならば、3日間でいいので、一緒にやりましょう。でも、海辺を歩き、角度も測るのでとてもたいへんです。では、道具を持ってきて下さい。日本の村人たちと力を合わせて作りますので、その人たちと。
*そうですか。ならば私たちの使った道具や測り方をお見せしてお話ししましょう。私たちは日本人だけで大きなことを為し遂げたかったのです。ですから、西洋人に力を借りたら意味がない。日本人も同じ人なのだから出来ないはずはない。

③鎖国下ですよ
*あなたは3日間しかいることはできない。日本地図を作る間、西洋人がずっと手伝うことは不可能だ。
*鎖国中でーす。

<ワークシート・4ページ目>
★その後の伊能図

 伊能忠敬の作った地図はその名前をとって<伊能図>と呼ばれています。
 
 忠敬が死んでから約30年後、アメリカからペリーが黒船で日本にやってきました。
 ペリーは幕府に鎖国をやめて開国をするように要求しましたが、じつはペリーの来航と前後して西洋の国々が次々と日本に開国を要求しにやって来ていたのです。

 イギリスもその中のひとつです。
 ある日、イギリスの測量船が日本沿岸の測量を始めました。その時に江戸幕府の役人が持っていた伊能図の一部をイギリス人船長に見せました。
 するとが船長は伊能図のあまりの正確さに驚き、
「これほど正確な地図があるなら、われわれが測量する必要はない。この地図の写しをもらえば十分だ」
 と測量を中止してしまいました。
 イギリスは伊能図をもとに自分たちの地図を完成させ、そこに「日本から見せてもらった地図をもとに作った」と注意書きをしました。
 
 この伊能図の存在を知った西洋人たちは
「日本は文明の遅れた国だと思っていたが、すごい技術を持っている。侮ってはいけない」と考えたと言われています。

 授業後の感想文から
*(ワークシート4ページ目の)最後のこれ、すごく気持ちいい。「日本は文明の遅れた国」というのを伊能忠敬は一発で「すごい技術を持っている。侮ってはいけない」に変えたからいい人だな、と思った。
*伊能図が現代の日本地図とそっくりで驚いた。伊能忠敬という名前は聞いたことがあったが、これほどすごい人だとは思わなかった。
*今日は伊能忠敬さんの日本地図がとても正確で今の日本地図とほぼ変わっていないというすごさを見ることが出来て楽しかったし、すごかったです。伊能忠敬、最高~!

2015.10.03(Sat) | 江戸 | cm(0) |