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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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日米開戦

 今回が「戦争の原因」を探る授業の3回目・最終回となる。
 いつものように「日本の宿命」と「課題」を掲示しておく。前回と前々回の「戦争の原因」の2つのキーワードである「満州国」と「日中戦争」の2つを確認する。これによって日本とアメリカ・イギリスは対立するようになった、というポイントである。

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は昭和初期の東京・銀座と大阪・阪急デパート前の写真です。
 私たちが今の世の中で目にする風景と同じところを見つけてみましょう。


昭和初期の銀座
昭和初期の大阪

 児童からは以下のようなものが出される。
「電線がある」
「同じだけど電信柱がある」
「車が走っている」
「バスがある」
「大きなビルが建っている」
「工事現場がある」
「クレーン車みたいなものがある」
 おおよそ電気関係、乗り物関係、建設関係が出てくる。
 そこで、次のように簡単に尋ねる。
『車を作るにはどんな原料が必要ですか?』
「鉄」「タイヤはゴムでできている」
『では、車を動かすにはどんなエネルギーが必要ですか?』
「ガソリン」「石油」
 同じように『電気を作るにはどんなエネルギーが必要ですか?』『建築現場を見てください。ビルの骨組みは何でできていますか?』等を聞く。
 ここで鉄・ゴム、そして何よりも石油が重要なものであることがわかる(この実践の導入は東京の佐藤民男氏の追試である)。

<ワークシート・第2ページ>
★昭和初期にも必要だった石油エネルギー
現代の私たちの生活にとって石油はなくてはならないエネルギーです。
自動車や船を走らせ、飛行機を飛ばし、火力発電によって電気を作り、工場の機械を動かしているのは石油です。石油がなくなれば交通も産業も家庭生活もストップしてしまいます。この状況は100年前の昭和初期もまったく同じでした。
 さて、現代の日本は、石油の80%以上をサウジアラビア・アラブ首長国連邦・カタールなどの中東の国から輸入しています。しかし、昭和初期にはまだ中東で石油は発見されていませんでしたので、その80%をアメリカから輸入していました。

★ブロック経済に苦しめられる日本
 1930年ごろから世界は自分の国の産業を守るために高い関税をかけて他国の商品を閉め出す「ブロック経済」を取るようになっていました。これは原料となる資源が自分の国の中で取れて、国の中で売れる国はいいのですが、資源のない日本にとっては貿易で外国に商品が売れなくなるのでたいへん苦しいものでした。日本はたった1年間で貿易量が半分近くに減ってしまったと言われています。

★日本への経済圧迫
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1939年│7月│*アメリカは日本との通商航海条約をやめることを通告 │
├─────┼──┼─────────────────────────────┤
│ 1940年│5月│*イギリスは日本向けゴムの輸出を全面禁止 │
│ │6月│*アメリカはインドシナ半島産ゴムを大量に注文して日本のゴ │
│ │  │ ムの注文を妨害 │
│ │  │*オランダはインドネシア産の石油を日本に売ることを断って │
│ │ │ きた │
│ │ │*アメリカは日本へのくず鉄(鉄の原料)と石油の輸出を制限 │
│ │7月│*アメリカは飛行機用ガソリンの日本方面の輸出を禁止 │
│ │  │*アメリカはくず鉄の日本への輸出を全面禁止 │
│ │9月│*アメリカは鉄鉱石・鉄鋼・銅・スズ・ニッケルなどの日本へ │
│ │ │ の輸出を禁止 │
│ │12月│*イギリスはタイ産の米を大量に注文して日本の米の注文を妨 │
│ │ │ 害 │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年│7月│◇日本はインドシナ半島の南で取れる石油をフランスから買う │
│ │ │ 約束をした。そこで、他の国がこれを妨害しないように軍隊 │
│ │ │ を派遣した(南部仏印進駐)。 │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年│7月│*南部仏印進駐に反対するアメリカはアメリカ国内にある日本 │
│ │ │ の資産を凍結した(アメリカにある日本の政府や会社のお金 │
│ │ │ を使うことを禁止すること。いろいろな国との仕事や貿易な │
│ │ │ どができなくなります) │
│ │ │*同時にイギリス・オランダも資産を凍結した(アメリカ・イ │
│ │ │ ギリス・オランダは東南アジアには自分たちの植民地がある │
│ │ │ ので、日本の軍隊がここへ出てくると自分たちの植民地が危 │
│ │ │ なくなる・・・と考えた) │
│ │ │*アメリカは日本への石油輸出を全面禁止した │
└─────┴──┴─────────────────────────────┘


<ワークシート・第3ページ>
★当時の総理大臣になって考えてみよう

アメリカ・イギリス・オランダの資産凍結により、日本は世界のほとんどの国と貿易ができなくなってしまいました。残っているのは満州・中国・インドシナ半島のフランス植民地・タイだけです。
石油のたくわえは1~2年ぐらいしかもちません。当時の日本の人口は約7000万人ですが、もしこのままの状態が続けば日本人の1000万人が仕事を失います。失業者の家族をふくめれば日本人の約半分が生きていくことができなくなってしまうのです。また、石油がなければ戦車や軍艦、戦闘機も動かなくなって軍隊は使えなくなります。こんな時に外国に攻め込まれたら・・・。
ここまで、日本はアメリカとくりかえし話し合いを続けてきましたが、状況を変えることはできませんでした。

当時の政府の中には次の3つの考え方がありました。あなたが当時の総理大臣ならどの意見に賛成しますか?

◇第1案:アメリカとの話し合いを続ける
とにかく話し合いを続けるべきだ。もし、話し合いが決裂してもアメリカ・イギリスとの戦争は絶対に避けなければならない。日本の国力を考えると戦争をして勝てる相手ではない。とにかく日本の国力が落ちても、戦争をするよりはましだ。くやしいがいまの状態をただひたすらがまんしよう。国民の中にも死者が出るかもしれないが耐えてもらうように頼むしかない。

◇第2案:すぐにアメリカと戦争する準備をする
話し合いを続けてもアメリカが自分の考えを変える保障はない。そんなことをしているうちに石油はなくなってしまう。こんなときにソ連が満州に攻め込んできたら戦うことはできない。そして、アメリカも万が一に備えて戦争の準備を進めている。時間がたてばたつほど日本はどんどん不利になり危険が増えていく。今、決断すれば強いアメリカに勝てるかもしれない。このまま死を待つのはごめんだ。

◇第3案:話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備をする
 戦争をすぐに決めた方が勝てる可能性があることは認めるが、まだ望みを捨てずに話し合いを続けるべきだ。たしかに少々の不便はあるが話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備も並行して進めることにしよう。もしかしたら、日本が戦争の準備をしていることを知ったらアメリカも話し合いでの意見が変わってくるかもしれない。ただし、期限を決めてその時点で話し合いが決裂したら戦争を覚悟するしかない。

◆一つ選んであなたの考えを書きましょう。後で話し合ってみましょう。


 児童の意見分布を見てみよう。矢印の前が討論前、後が討論後の数である。

1組・・・第1案 1人→0人   第2案 4人→6人   第3案 21人→19人
2組・・・第1案 5人→4人   第2案 2人→2人   第3案 22人→23人

<第1案に賛成>
「死者が出てしまうのもいやだけど、すぐに戦争をしても勝ち目はない。戦争の準備をしているのをアメリカが知ったら逆に攻め込まれてしまうかもしれない」  
「アメリカ・イギリスは強いから、やっても勝てないと思うし、勝っても日露戦争の時のように日本の限界が来てしまう。資源がない日本は話し合いを続けるしかない」

<第2案に賛成>
「時が経つに連れて石油はどんどんなくなり、日本も弱くなっていざ戦争ろいうときに勢力が弱くて負けてしまうかもしれないから、まだ石油があるうちに戦っておいた方がよい。話し合いをしている間にたくさんの人が死ぬのはいやだから」
「話し合いを続けていてその間に日本人が苦しむと内乱などが起こるかもしれない。石油がある1~2年の間で戦争をして、それ以上続いたら負けを認める。それしか方法はない。もし、アメリカを倒したら他の国も認めてくれるかもしれない」

<第3案に賛成>
「第1案と第2案は危険すぎる。第2案ではアメリカには勝てないので、準備中のそのちょっとの油断をつかれて植民地にされてしまう。第1案は無理矢理話し合いを続けていると、そのうちに犠牲者が増えてしまう。準備さえしておけば倒せる可能性も広がる」
「もしかしたら、話し合いが成功するかもしれないのに、今石油を使えば国民はもっと苦しくなってしまう。1案はやられっぱなしなので悔しい」
「東郷平八郎じゃないんだからアメリカが戦争してくるか、貿易してくれるか、そんなのわかるわけがないんだから、話し合いを続けながら万が一に備えて戦争の準備をするしかない」
「1案で死者を出してしまったら、話し合いに失敗して戦争になったときと同じになる。2案だと無闇に突っ込んでいってしまったらあかえって多くの死者を出してしまい、大戦争になる可能性がある。望みを捨てない3案がいい」
「すぐにあきらめるのではなく、まずはもう一度話し合ってみる。しかし、話し合いがうまくいかず、もしかしたら攻撃をしてくるかもしれない。そのときのために戦争の準備をしておく。両立させておけば、とりあえず間違いはない。安心できる」

<ワークシート・第4ページ>
★アメリカとの戦争を決めた日本

政府は会議でこれからの方針を第3案に決めました。
この苦しい状況をなんとかするためにアメリカとくりかえし話し合いを行いました。しかし、残念ながら進展はありませんでした。
1941年11月、アメリカは「ハルノート」という次のような提案を日本につきつけました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①日本は中国とインドシナから軍隊と警察を引き上げるべし。 │
│ ②日本は中国のいくつかある政府のうちアメリカが支援している政府のみ認めよ。 │
└──────────────────────────────────────┘
日本がこの2つを認めれば石油の輸出を再開するというのです。しかし、この2つを認めると言うことは次のことを意味します。
┌──────────────────────────────────────┐
│ *日本は中国にある権利と満州の権利をすべて捨てなければならない。 │
│ *これからは石油を売ってほしければアメリカの言うとおりしなければならない。 │
└──────────────────────────────────────┘
これは、ようやく世界の大国と肩を並べられるようになった日本に対して「すべてを捨てて日本列島に引っ込み、70年前の明治維新のころの日本に戻れ」と言っているのと同じです。独立国・日本として、これまで先輩たちが苦労して築き上げてきたものをすべてあきらめることなどとてもできません。
 中国と満州にいる日本人の生活はどうなるのでしょう? 
 しかも、本当に欲しい分だけアメリカは石油を売ってくれるのでしょか?
 この提案を承認したら、苦しんでいる国民をさらに苦しませることになってしまいます。
 「ハルノート」を読んだ当時の東郷外務大臣は「目の前が真っ暗になるほど失望した。長年の日本の苦労や犠牲をすべて無視して、東アジアの大国になった日本に対して持っているものをすべて捨てろ、と言うのだ。これは日本に自殺しろと言っているのと同じだ」と言っています。
日本政府はこの提案を「最後通告」と受け止め、アメリカとの戦争を覚悟するしかありませんでした。


 児童の感想を見てみる。
*自分で総理大臣の立場になってみたら、かなりのプレッシャーを感じた。このことを決めるのはとてもよく考えなければならないと思った。
*今日の学習で、日本は他の国から貿易できないようにされて、これ以上発展するな、と言われているように感じました。はじめは日本が進歩したから戦争をしたのかと思ったけど、日本は仕方なく戦争になったんだなと思いました。
*アメリカはひどすぎると思います。戦争を覚悟するのも無理はないと思います。アメリカなどの大国と戦争すれば負けるのは目に見えているのに・・・。どちらを選んでも日本が負けるなんて不公平すぎます。最低!
*第3案に意見を決めて苦しい状況を進展させようとしたときに、アメリカから日本にとって厳しい通告をされて戦争になってしまったのは、当時の日本にとってしかたがないことなのかなと思いました。石油1~2年分で戦争ができるのか、心配になりました。
*アメリカはいつもずるい!ずるすぎますよ。自分たちが強いからって何を考えているんでしょうか!負ける日本!がんばれ日本!です。いつか日本がアメリカと全く同じに肩を並べられるようになることを願っています。
*日本はアメリカと戦争をするしかなくなったけど、日本はアメリカの考えにはまってしまってついに戦争をするしかなくなってしまった。
*アメリカは、今と違ってけっこう意地悪ですね。それでも、昔から積み重ねてきた日本の苦労をけっして無駄にしないぞ!という日本の意思がすごいと思いました。
*日本だけなぜこんないじめを受けるのでしょうか?大国と肩を並べるということはたいへんなことでもあるんですね。
*アメリカとイギリスはとてもひどいと思いました。(いじめ!)せっかく、今の日本を築き上げてきたのに、それが、すべて水の泡になるのは最悪だと思いました。それほど、世界は厳しいんだなとわかりました。
*アメリカのルーズベルトさんも、アメリカの人たちも「武士道」を読んで「日本はすごい」とか言っていたくせに、日本に対してこの態度はなんだ!ペリーの時代から日本と仲良くしていたくせに!浮気か!たるんどる!
*負けてしまうのはわかっていたけれど、戦争になって仕方がないと思う。もし、アメリカの言うことを聞いていたら日本はアメリカの植民地になり、もっとたいへんなことが起こったに違いないと思います。
*日本はこのときになんでこんないじめられてたんだろう?でも、ここまで日本はがんばってきてくれたから本当に感謝しなければいけない。日本って今でもギリギリの国?
*今日の学習では、日本の苦しみと覚悟を知ることができて、とてもうれしいのと悲しいのが混ざってあまりよくわからなかったです。でも、今日の学習は将来絶対に役立つと思います。
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2015.12.20(Sun) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

日中戦争

 授業が始まる前に「日本の宿命」及び「課題」を黒板に掲示しておく。
 授業は前回の確認から入る。
『今日は戦争の原因の学習の2回目です。前回のキーワードは満州国でした。日本は満州国を作りました。国際連盟は調査団を送り、日本人が中国大陸で危険な目に遭い、安全が脅かされていたことは認めてくれました。しかし、満州は他の国も共同で管理した方がいい、と報告しました。しかし、すでに満州国を作っていた日本はこれに反対しました・・・ここまで学習しましたね。では、今日は戦争の原因の学習、2回目です』
 
 今日のワークシートを配布する。
 ワークに日付とタイトルを書く。タイトルは<日中戦争>である。
 ここで以下のことを確認し、導入とする。
『おさらいを兼ねて確認します。日清戦争と言ったら日本と清の戦争でしたね。日露戦争と言ったら日本とロシアの戦争でしたね。では・・・日中戦争と言ったら?』
「日本と中国です」
『そうです。日中戦争と言ったら・・・日本と中国の戦争・・・のはずですよね?・・・ではワークシートを見てみましょう』 
 ここでさらに付け加える。
『日中戦争と言ったら日本と中国が戦争をしているはずなんですが、ここの3枚の写真を見ると「あれ?へんだなあ」「日本と中国の戦争のはずなのにおかしいな?」と思うところがあります。それを見つけて下さい』

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は日中戦争のときのものです。
 3枚の写真を見て気づいたことを書き出してみましょう。


日本軍歓迎1
日本軍と中国の子ども1
日本軍と中国の子ども2

 2分ほどの短い時間だが、子どもたちはいくつかのことに気づく。
「中国の人が日本の旗を持っている」
「日本の兵隊と中国の子どもが遊んでいる」
「戦争をしている雰囲気じゃない」
「日本軍を中国の人が歓迎している感じがする」
『そうですね。日本と中国が戦争をしているはずなのに・・・中国人が日の丸を振って町に入ってきた日本軍を歓迎しています。それに日本の兵隊さんと中国の子どもたちが手をつないで遊んでいたり、おもちゃで遊んでいます・・・・違う写真も見てみましょう』

日本軍歓迎2
中国人の女の子が日の丸を自分の家の前に飾っています。ニコニコしています。
日本軍と中国の先生
ここにいるのは中国の女の先生です。日本の兵隊さんに校長先生になってもらっています。
日本軍の治療1
この衛生兵は戦った相手である中国兵の治療をしています。
日本軍の治療2
この人たちは日本軍の衛生兵です。中国の子どもたちの治療をしています。日本軍の礼儀
「中国無名戦士の墓」と書かれています。戦って亡くなった敵である中国兵のお墓を作り、深々とお辞儀をして弔ってあげています。

『それにしても、日本と中国は戦争をしているはずなのに・・・へんですよね。その理由を調べてみましょう』
ワークシートの2ページ目の①を読み、その後に以下の説明を加える。
『つまり、内乱状態ですから、そこにはいろいろな政府や軍閥、盗賊もいます。その中には、ひどい奴もいるんです。そんな人に町を支配されたら自分たちの安全が守られません。そこに日本軍が来て、そんな奴を追い払い、しっかりした政治をしてくれれば自分たちの生活の安全が保障されます。だから、しっかりした政治をしてくれて親切で優しい日本軍を歓迎してくれているんです』


<ワークシート・第2ページ>
★日中戦争のころの中国大陸

①混乱する中国大陸
中国には清がほろんだ後に、中華民国という国ができましたが、すぐに分裂してしまいました。そして、各地に武装した「軍閥」と呼ばれるグループがそれぞれ「政府」を作って「自分たちが中国の代表だ」と言っていました。これらの「軍閥」「政府」が互いに絶え間なく戦い合う混乱の時代だったのです。また、満州族は日本の力を借りて満州国を作り、モンゴル族やチベット族も独立を宣言していました。

この混乱した中国には、西洋の国も日本もすでに自分の国の人間が住み、生活をしていました。ですから、国民とその生活を守るために軍隊を派遣し、「政府」の中の有力なグループと話し合ったり、仲良くしようとしていました。アメリカ・イギリスは南京政府と、ソ連は延安政府と仲良くしようとしていました。
日本もここまでは南京政府と話し合ってきました。

②日中戦争の経過を見てみよう
┌───┬──────────────────────────────────┐
│1933年│*停戦(戦争をやめる)協定が結ばれて日本と南京政府の戦争が終わる。 │
├───┼──────────────────────────────────┤
│1934年│*南京政府は満州国と鉄道・郵便・電信をつなげる。 │
│ │*南京政府と延安政府の戦争が激しくなる。延安政府は敗走。 │
├───┼──────────────────────────────────┤
│1935年│*南京政府と約束して日本が中国北部に入ることになる。 │
│ │*北部の各地で日本と仲良くしようとするリーダーが小さな政府をあちこちに│
│ │ 作り始める。南京政府はそれを見て警戒。 │
├───┼──────────────────────────────────┤
│1936年│*日本のことをよく思わない人たちの反日デモが増え始める。 │
│ │*四川省で日本人記者2人が殺される。 │
│ │*広東省で日本人商店が襲撃され店主殺害・日本人の警官射殺される。 │
├───┼──────────────────────────────────┤
│1937年│*延安政府がわざと日本軍に鉄砲を撃ち込み、南京政府と日本が戦争に │
│ │ なる(7月7日)。 │
│ │*停戦協定が結ばれたが、南京政府は攻撃を続けた(7月9日)。 │
│ │*再び停戦協定を結んだが、また南京政府が攻撃したので日本も応戦した │
│ │ (7月11日)。 │
│ │*通州で日本人117名と朝鮮人106名が殺される。 │
│ │*南京政府は休戦協定を破り、日本への攻撃をくり返した(8月11日)。│
│ │*南京政府が日本艦隊へ空襲(8月14日)。 │
│ │*日本は南京と上海へ爆撃を開始(8月15日)。 │
│ │*日本はドイツを通して和平交渉を申し込んだが、南京政府に拒否された │
│ │ (11月2日)。 │
│ │*日本はアメリカに「間に入って和平交渉を進めてほしい」と頼んだが、断られ│
│ │ る(11月15日)。 │
│ │*日本は南京政府を追い、首都・南京まで攻め込み占領する(12月13 │
│ │ 日)。南京政府は重慶へ逃げて重慶政府となる。 │
└───┴──────────────────────────────────┘
※最初は南京政府とうまくいっていたのに、いつから関係がおかしくなったのだろ う?


<ワークシート・第3ページ>
★不拡大方針のはずが・・・どうやって戦争をやめればよいか?

日中戦争が始まると日本はすぐに「不拡大方針」を発表しました。つまり、これ以上戦闘を続けたり、騒ぎが大きくならないようにするという方針です。しかし、こうした方針を決めたのになかなか戦闘を止めることができませんでした。
 では、どうすればよいか?当時の日本政府になって考えてみましょう。

この時に、中国大陸には3つの有力な「政府」がありました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①もと南京政府が重慶に逃げて作った重慶政府。アメリカ・イギリスが応援して │
│ います。日本もこれまではここと仲良くしようと考えていました。。 │
│ ②もと南京政府から分かれてできた新しい南京政府。日本と仲良くしたいと考え │
│ ています。 │
│ ③延安政府。ソ連が応援しています。 │
└──────────────────────────────────────┘
当時、下の2つの考え方があったとします。あなたが、当時の日本政府ならどちらの考え方を選びますか?

A:新しい南京政府と話し合おう
本当は重慶政府と仲良くしたいのですが、いくら話し合いを望んでも、重慶政府は応じてくれません。これ以上、こちらから歩み寄ってもムダです。それにアメリカ・イギリスは東南アジア側から山にルートを作って武器を重慶政府に売っています。これは日本に対して戦争を仕掛けているのと同じです。こんな状況で仲良くなれるのでしょうか? 
 新しい南京政府は日本と仲良くした方がこれからの中国のためになると言う考え方です。だったら日本は希望を持てる新しい南京政府と話し合うべきでしょう。

B:重慶政府と話し合おう
新しい南京政府はまだ小さくて力があまりありません。ここと仲良くなったからといって戦闘が止まるのでしょうか? 結局は力のある重慶政府と話し合うしかありません。それに重慶政府との関係をあきらめたら、アメリカ・イギリスを完全に敵にすることになります。
 日本に不利な条件を要求してくるかもしれませんが、ここはがまんにがまんを重ねて重慶政府の要求をできるだけ受け入れましょう。今後のことを考えると、アメリカやイギリスとの関係が悪くなるのは避けたいです。

◆どちらかを選んであなたの考えを書きましょう。後で話し合ってみましょう。


児童の意見分布は以下のようになった。矢印の前の数字が討論前、後の数字が討論後の人数である。

1組・・・A 15人→19人  B 12人→ 8人
2組・・・A 15人→17人  B 15人→13人 

主な意見を見てみる。
<A派>
「新しい南京政府は日本と仲良くしたいと思っているので、南京政府の方が仲良くしやすくて希望が持てる」
「Bの意見ももっともだけど、戦争から逃げると世界から、日本は弱くなったな・・・と思われてしまう。新南京政府と組めば中国にもメリットはあるんだからその方がいい。重慶政府は話を聞いてくれないし攻撃してくるんだからデメリットばかりだ」
「日本は強いのでその武器を新南京政府に送ればそれなりの力になると思う」
「新南京政府が力がないというのなら、その政府と話し合って日本の信頼をもらって日本と組んで大きな政府にすればいい」
「何回も停戦協定を結んだのに、無視して攻撃を続けてくる相手と組んでもうまくやっていけるわけがない」
「話し合いを断られているし、重慶政府の要求を受け入れるのは日本にとって不利だと思います。アメリカやイギリスが武器を売っているのに仲良くなれるとは思わない」
「重慶政府と話し合って不利な条件を受け入れてしまったら、後からどうやって改正するんですか?昔に逆戻りです」
「重慶政府と仲良くなったら、日本と仲良くしたいはずの新南京政府が攻撃してくるかもしれません」
「新しい南京政府と仲良くして、混乱している中国を一緒に安全にする」

<B派>
「新南京政府の方が話し合いは楽に進みそうだけど、アメリカからは日本が国際連盟を脱退してからというものなめられているので、ここは信頼を取り戻すチャンスになる。そもそも、もともとやっていない罪を延安政府になすりつけられているんだから、互いに謝れば大丈夫だと思う。延安政府を全滅させればいい」
「どうしてもアメリカ・イギリスを敵に回すのは絶対に避けなければいけないから、ここは重慶政府を仲良くして、その後に南京政府とも仲良くすればいい」
「アメリカやイギリスは大切な学ぶべき相手だし、貿易をしているから」
「力の弱い新南京政府と話し合っても戦争は終わらないし、アメリカやイギリスを敵に回すと他の西洋の国々とも仲が悪くなる」

ワークシート・第4ページ>
★日本は重慶政府をあきらめて、新しい南京政府を選んだ

日本が選んだのはAの「新しい南京政府と話し合う」でした。

 そのころ中国大陸には、日本と関係の深い産業がたくさんありました。
 茶・清涼飲料水・自動車・木材・セメント・マッチ・電球・ゴムなどの中小工場、製糸・製粉・造船などの巨大工場などです。そして、そこで働き、生活している日本人がたくさんいたのです。中国は内乱状態でしたから、日本人を守るための軍隊も必要でした。中国大陸は日本の経済と生活に深く結びついていたのです。
 もし、重慶政府と意見を一致させようとすれば、日本はそこに住む日本人も、苦労してそこに起こした産業も、軍隊もすべて撤退しなければなりません。これは国民の気持ちを考えると、たいへん難しいことでした。

しかし、この決断はアメリカ・イギリスとの関係を悪くしてしまいます。もしかしたら戦争になるかもしれません。中国大陸での問題も解決していないのに、アメリカ・イギリスと戦争をすることはなんとしても避けなければなりません。

ですから、政府内でもくり返し話し合いが行わました。そして、日本政府が決断したのがAだったのです。こうして、日本は新しい南京政府との間で条約を結びました。これに反対するアメリカ・イギリスは重慶政府への応援をさらに広げていくようになり、対立が深まっていきました。


 児童の感想を紹介する。
*今回の決断はとても難しかったです。当時の人も大変だったと思います。しかし、アメリカ・イギリスと仲が悪くなったのは残念です。でも、しょうがないことなんですよね。
*重慶政府は、日本の軍隊と停戦協定を結んだのに攻撃を続けるのはどうかと思うし、それを非難しないアメリカやイギリスもどうかと思う。
*ただ強いからという理由でアメリカ・イギリスが応援する重慶政府ではなくて、中国大陸に住む日本人を思って新しい南京政府と条約を結んだ当時の日本人は、アメリカ・イギリスとの関係を悪くしてしまうリスクを背負いながらも、すごいと思いました。
*アメリカ・イギリスはどうしても重慶政府の味方なんですね。アメリカ・イギリスと対立してしまったら、この二国は戦力も圧倒的なのでそれは絶対に避けたいです。
*日本は重慶政府、そしてアメリカ・イギリスを敵に回してしまったけど、時間をかけて作り上げた工業を手放す必要なはいと思った。
*延安政府はひどいと思いました。日本と重慶政府との戦争の原因だから。
*日本はアメリカ・イギリスと対立してしまうことになったけれど、日本人・産業・軍隊のことを考えると仕方がないと思う。
*今日の学習の最初に日中戦争って書いてあるのに、助け合いなんかしてびっくりして「何やってんだよ日本」と思ったけど、理由を知って日本は偉いな、と思いました。でも、これからの日本とアメリカ・イギリスの関係が気になります。
*日中戦争なのに中国の人に喜んでもらえるなんて、日本は本当に優しい国だな。あらためて実感しました。
*国民の気持ちを考えるとAだけど、外交のことを考えるとBだから、どちらにしてもリスクが高いなかでの決断だと思う。でも、米・英との戦争を避けなければならない。

2015.12.20(Sun) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

満州国をどうするか?

 第2時は「戦争の原因を探る」というテーマの学習の1回目となる。
 一つ目のキーワードは満州である。

 最初に上記のようなこの授業の方向性を確認した後に、第1時から続く共通の課題を掲示する。また、「日本の宿命」も大事なヒントとして掲示する。

<ワークシート。第1ページ>
★下の表と地図を見て気づいたことを書き出してみましょう。

┌───┬───────────┐
│ 王朝名│  建国した皇帝 │
├───┼───────────┤
│ 隋 │ 楊堅(ようけん) │
├───┼───────────┤
│ 唐 │ 高祖(こうそ) │
├───┼───────────┤
│ 宋 │ 太祖(たいそ) │
├───┼───────────┤
│ 元 │ フビライ │
├───┼───────────┤
│ 明 │ 洪武帝(こうぶてい)│
├───┼───────────┤
│ 清 │ ヌルハチ │
├───┼───────────┤
│ ? │ │
└───┴───────────┘

現在の中国地図

 なお、教材として適切な地図が見つからず、余計な情報が入ったものとなってしまっている。そこで事前に着目させる観点を与えるために『地図にはいろいろな線が入っていますね。どんな線があるか、調べてみましょう』と指示しておく。

 ここで児童に気づいて欲しいのは以下の2点である。
 ①表にあるカタカナの人名
 ②地図にある線のうち東西を走るデコボコの線 

 ①は漢民族以外の民族が中国の王朝となった例である。モンゴル族のフビライと満州族のヌルハチである。②はその異民族の侵入を防ぐために作った防御用の壁となる万里の長城である。

<ワークシート・第2ページ>
★中国大陸と日本

①万里の長城
「万里の長城」は全長は6000kmで千年以上かけて作られました。月からも見えると言われています。これは南に住む漢民族が北から異民族(モンゴル族や満州族など)に侵入されないように作った防御用の壁です。この壁を突破し、漢民族を滅ぼしてできた国が元(モンゴル族)と清(満州族)です。中国大陸にはさまざまな民族が住んでいて戦いをくりかえしてきた長い歴史があるのです。

万里の長城1
万里の長城2
万里の長城3
万里の長城4

②日本人は満州に住むようになった
 日露戦争後のポーツマス条約により「万里の長城」よりも北の土地である満州はロシアから清に返されました。そこで、日本は南満州鉄道(満鉄)の権利を清からもらい受け、満州の荒れた土地に鉄道を通し、町を作り、産業を起こしました。そして、多くの日本人が満州に住み、農業・商業・工業を営んで生活していました。

③盗賊と軍閥といくつもある政府
1911(明治44)年、ついに清が滅んで中華民国が誕生しました。しかし、中華民国はまとまりが弱く「自分たちが本当の中国政府だ」と名乗る人が何人もあらわれるような状態でした。また、大陸では数え切れないほどの大小さまざまな盗賊が暴れていました。そして、こうした盗賊の中から強い者たちが軍閥を呼ばれるグループを作り、戦争をくりかえしていました。中国大陸は内乱状態だったのです。

④次々と起こる事件
 清が滅び、しっかりした政府もない中国大陸では治安が乱れていました。ほとんどの中国人は日本人と仲良くしていたのですが、なかには日本人を標的にするグループもあって事件が続発しました。日本人の子どもたちに石が投げられたり、日本の会社に勤めている中国人が脅迫されたり、町に日本人の悪口を書いたビラが貼られたりしました。さらにひどくなると町の中で日本人が殺されたり、日本人の経営する会社が爆破されるなどのテロも起きるようになりました。そして、怒った日本人と中国人のなかが険悪になり、衝突することが増えるようになってしまったのです。

⑤ソ連が迫ってきた
革命が起こったロシアは、これまでとはまったくちがう社会主義の国・ソビエト連邦(ソ連)になっていました。ソ連は五か年計画で力をたくわえ、満州の近くに大軍を集め始めました。その力は日露戦争の時よりも強いと考えられていました。


<ワークシート・第3ページ>
★満州を今後どうするか?・・・当時の日本人になって考えてみよう

 では、満州を今後どうすればよいか、当時の日本人になって考えてみましょう。
以下は架空の話し合いです。3人の意見を聞いて、あなたならどの意見に賛成するか考えてみてください。

◇Aさん:満州を「日本」にする
この状態では満州に住んでいる日本人の安全が保障できません。満州地域の「政府」に犯罪の取りしまりを頼んでも何もしてくれません。これでは子どもが町の中で遊ぶことさえできないではありませんか。こうなったら満州を日本の植民地にして日本政府が直接治めるしかありません。日本の国の力で安定した政治を進めれば安全な生活ができて満州に住む満州人や漢人たちもみんな喜ぶはずです。
 それにソ連が迫ってきています。満州に進入されたら大変です。日本の軍隊をソ連防衛に専念させるためにも日本の領土にしましょう。

◇Bさん:満州国をつくる
確かに安全な生活ができればみんな喜ぶとは思いますが、日本の植民地にして「日本」の領土ということになったら、満州人や漢人のプライドを傷つけることにならないでしょうか?ここはもともとは満州族の国だったところですから、日本の力を満州人に貸して「満州国」という国にしたらどうでしょう。最初は日本人がリードして安全な国にして、少しずつ満州人に政治をまかせるようにするのです。
 ソ連に対しては、満州国にいろいろな援助をする代わりに日本の軍隊を置かせてもらえるように約束し、ソ連防衛に専念できるようにしましょう。

◇Cさん:協力を頼み、じっと耐える
 その「満州国」は本当の独立国と言えるのでしょうか?アメリカやイギリスから「日本が裏で満州国をあやつっているんだろう」と言われてしまいそうです。確かに満州に住む人の安全も大事ですが、世界中から日本のイメージが悪くなる可能性もあります。ここはじっと耐えるしかありません。いくつもある「政府」に安全を確実にできるようにそれぞれ協力を頼んでみましょう。
 内乱状態の満州でソ連防衛は難しいので、満州にいる日本の軍隊の数を無理をしてでも増やしていくことで対応しましょう。

◆ひとつ選んであなたの考えを書いてみましょう。後で話し合いましょう。


 意見分布は以下のようになった。右の数字は話し合い前、左の数字は話し合い後である。

 1組・・・A 4人→3人   B 18人→21人   C 4人→1人
 2組・・・A 5人→7人   B 17人→17人   C 6人→4人
 
 児童からは以下のような意見が出てきた。
◇A派
「Bさんの最後の話はそんなに都合よくいくわけがないからダメだと思う。Cさんはイメージが悪くなると言うけど耐えてばっかりいるのは満州に手が出せないくらい日本って弱いんだ・・・と見られるからどうどうと植民地にした方が日本も満州も安全になるし、ソ連防衛にもなる」
「元々満州にいる人たちのプライドを傷つけるかもしれませんが、これが一番安全です。堂々と日本に植民地にした方がいい」
「当時の日本は植民地を持たなければ植民地にされるから、ここは日本が直接治めて安全にそしてソ連防衛に専念するべきだ。満州の人たちにはこれは日本の宿命なんだと言うことをわかってもらうしかない」

◇B派
「満州を植民地にしてしまうと満州人のプライドを傷つけてしまう。でも、中国のいろいろな政府に頼んでも互いに仲が悪いから協力してもらえないと思う」
「満州国を独立させたら満州の人も喜ぶし、日本人の安全も守れる。一石二鳥。平和なのが一番いい」
「植民地にしてしまうとプライドを傷つけられて満州で反乱が起きてしまうかもしれない。そこで「裏で操っている」と言われないようにアメリカとイギリスに了解をもらっておけばいい」
「もし植民地にするにしても現地の声をしっかり聞かないと、争いがひどくなる。それに日本は台湾の時のことを見ればわかるけどそんなに冷酷になれないからBがいい」
「植民地にすると朝鮮の時のように相手のプライドを傷つけて反対されてしまうから植民地にはしないで満州人と日本人で仲良く暮らした方がいい。日本政府が軍隊を満州に行かせて盗賊などと取り締まればいいと思う」
「Aは満州人のプライドを傷つけてしまい、もしかすると日本人にいやがらせをするかもしれない。だからといってCのようにずっと耐えることなんて本当にできるんでしょうか?満州国を作り日本が手助けすればよい国になると思う」
「Aだとソ連に満州に攻め込まれたときに直接、日本に攻め込まれたことになる。Cのようにいろいろな政府に協力を頼むとそれぞれが裏切られた!とかなって危険。なのでBがいい」
「日本が台湾のときのように元々住んでいた人のプライドを傷つけずに政治を進めれば、満州人や漢人も満州国を作りたいと思ってくれるはず。それに満州人には軍隊はないと思うので、日本がソ連から守ってあげればいいと思います」

◇C派
「同じ国際連盟に所属する日本のイメージが悪くなると、結局ソ連の方に有利になってしまい相手の思うつぼだと思う。アメリカやイギリスに対してイメージをよくしておけば助けてもらえるかもしれない」
「日本のイメージが悪くなると他国から攻撃を受けるかもしれない。今はソ連のことに集中して軍隊を増やした方がいいと思う」



<ワークシート・第4ページ>
★満州事変から満州国の建国へ
  
◇1931(昭和6)年、満州を警備していた日本の陸軍部隊が満州の奉天(ほうてん)という町の近くで満鉄の線路を爆破し、これを中国のしわざであるとして満鉄の沿線にある都市を占領しました。この陸軍部隊は強引な方法でBの考え方を実行しようとしたのです。
しかし、日本政府と陸軍本部はCの考え方に近かったので「これ以上強引な方法で問題を拡大してはいけない」と不拡大方針の命令を出しましたが、満州の陸軍部隊は命令を聞かずにさらに満州のその他の都市も占領しました。日本政府はどうすることもできずにこの行動を認めてしまいました。これを満州事変と言います。

満州で日本人が受けていた被害を解決することができない政府に対して不満が高まっていた国民の中には、この強引な方法を支持する者も多くいました。
 こうして1932(昭和7)年、満州の陸軍部隊を中心に、清が滅亡したときの皇帝を満州国皇帝の地位につけて満州国を建国しました。

アメリカをはじめ各国は満州事変をおこした日本を非難しました。国際連盟(アメリカは未加盟)は満州にリットン調査団を派遣して調査を行いました。
リットン調査団の報告書にはこう書かれています。
*満州に住む日本人の安全と権利が脅かされる被害にあっていたことは認める。
*しかし、満州国は日本単独ではなく他の国も参加して管理した方がよい。
すでに満州国を建国していた日本はこれに反対して国際連盟を脱退しました。

◇その後、日本と中国の間には停戦協定が結ばれてしばしの平和が訪れました。
満州国は五族共和(満州人・漢人・朝鮮人・日本人・モンゴル人)の理想を掲げ、日本の力を借りて経済を成長させました。政治が安定し、安全が保たれたことで南の中国から多くの中国人が満州に入ってきました。
しかし、満州国のリーダーシップは満州の日本陸軍がにぎっていました。また、日本人を標的にした事件もなかなかなくなりませんでした。

◇当時の満州国の各地のようすを写真で見てみましょう。


新京駅前
首都の新京(もと長春)駅前
新京メインストリート
新京のメインストリート
西公園
西公園(夏はボート遊び、冬はスケートリンクになる)
キタスカイヤ街1
ロシア人も多く住むキタイスカイヤ街①
キタスカイヤ街2
ロシア人も多く住むキタイスカイヤ街②
牡丹江小学校
牡丹江小学校の運動会
鞍山製鉄所
鞍山製鉄所
ダム建設
大豊のダム建設
大連港
貿易でにぎわう大連港
大連広場
大連の広場(当時の最新の都市デザインだった)
あじあ号
満鉄あじあ号(蒸気機関ながら今の新幹線こだまと同じスピードが出る)
食堂車
あじあ号の食堂車
展望車
あじあ号の展望車

 最後に児童の感想を紹介する。
*満州事変で日本が中国に罪をなすりつけて占領したなんてとてもひどい。でも、その後に満州国を建国して安定させたのはとてもいい。はじめはよくないけれど終わりはととえもよかった。
*少し強引だったけれど、日本は満州国を豊かな国にしていたことがわかりました。いろいろな国の人や文化が違う人と一緒に住むのは大変だろうなと思いました。
*満州国が独立して中国と日本も平和になったけれど、日本人を標的にした事件がなくならなかったのは悲しいです。
*満州国が安定したのはいいと思いますが、国際連盟を脱退したのはよくないと思います。もとどおりになってほしいです。
*満州事変で日本のチームワークが少しずつなくなってきているような気がする。国際連盟を脱退してちょっと不安があるけどへいわになったてよかった。
*中国ではたくさんの日本人が殺されていたということがわかりました。日本政府はいまのままではダメだと思いました。もっとしっかりしないと。
*結局、満州は平和になったのでしょうか?経済成長できたなら満州国もうれしかったでしょうね。満州は近代的な街だったんですね。
*陸軍部隊は満州を安全ににようとしたのはわかるけど、やり方は強引で日本のイメージを悪くすることにしかならなかったような気がする。 

2015.12.19(Sat) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

昭和時代 導入

 昭和の学習に入る。
 <昭和時代>とタイトルを書く。
 『今日からは昭和時代を学習します。これまで日本は日清戦争・日露戦争と大きな戦争をしてきましたが、それよりも大きな戦争を7経験しました。これからはその戦争について学習していきましょう』

(1)課題を確認する
 『学習に入る前に、次のことを確認しておきましょう』
 <日本の宿命>というタイトルの画用紙を黒板に掲示する。ここには以下のように書かれている。
  
  ①植民地になりたくなければ植民地を持つしかなかった。(当時の世界のルール)
  ②資源がほとんど取れない。
 
 『この2つの宿命がこの戦争と大きく関係します』
 さらに、この単元の課題を掲示する。
<戦争の原因、経過を調べ、当時の日本人の考え、気持ちを追求しよう>

(2)大東亜戦争の展開をつかむ
 一枚の地図をスクリーンに提示する。

大東亜戦争展開図


 『この地図を見るとその戦争のことをおおよそつかむことができます。この地図を見て気づいたことをノートに書きましょう』
 4分ほど時間を与えて観察させた後に発表させる。
 児童からは以下のような気づきが出された。これを大きく
 ○戦争の相手国に関係するもの
 ○場所に関係するもの
 ○時間に関係するもの
 ○その他
 に分類して板書する。

①相手国に関係するもの
*連合国と戦った
*いろいろな国と戦っている
*敵が10カ国ぐらいありそう
*日本のまわりの国と戦っている
②場所に関係するもの
*戦う範囲が広い
*いろいろな場所で戦っている
*島での戦いが多い
*海戦がほとんど
*東南アジア、南太平洋、中国大陸などが戦場になっている
*相手はハワイから沖縄へと向かっている感じがする
*大東亜戦争という名前が付いている
*太平洋で戦ったから太平洋戦争という名前も付いている
『日本ではこの戦争を東アジアの広い範囲で戦ったので大東亜戦争と呼んでいました。アメリカは太平洋を中心に戦ったので太平洋戦争と呼んでいます』
③時間に関係するもの
*1941年から1945年の4年間の戦い
*1941年12月に始まった
*1945年8月に終戦になっている
④その他
*原爆が落とされている
*たぶんだけど日本は負けたっぽい

 これらの気づきをほめた後に以下の点を確認する
◇日本が戦った相手は?
  アメリカ(ハワイに基地がある)
  オーストラリア
  イギリス(マレー半島がイギリスの植民地)
  オランダ(現在のインドネシアはオランダの植民地)
  ソ連(満州に攻め込んできている)
  中国(この当時は正式な中国政府はないけれど、いくつかあるうちのある政府と戦っている)

(3)教科書の本文を読む
 児童に教科書の該当箇所を数人に音読させる。

(4)画像で戦争の経過を調べる
  画像を見せながら以下のような解説を加えていった。

真珠湾攻撃地図
アメリカ軍は軍隊をハワイに移していた。日本軍はここを奇襲攻撃する作戦を立てた。
航空母艦
日本軍は航空母艦を出撃させて密かにハワイに近づいていた
甲板のゼロ戦
航空母艦からゼロ戦が出撃する
上空から見た真珠湾
ハワイの真珠湾を空から見たところ。ここにアメリカ軍の基地がある。
ゼロ戦の攻撃
ゼロ戦が真珠湾に攻撃を開始する
真珠湾炎上1
ゼロ戦による爆撃で炎上するアメリカ軍の軍艦
真珠湾炎上2
次々と炎上するアメリカ軍軍艦
真珠湾炎上3
アメリカ軍の戦闘機が飛び立つ前に叩いてしまう
油田攻略
日本軍はオランダの植民地になっていた東南アジアの油田地帯に進撃した
シンガポール攻略
イギリスの植民地だったシンガポールにも進撃
ビルマの声援
西洋の国に植民地にされていた東南アジアの人たちは日本軍を大歓迎した
インドとの握手
イギリスの植民地になっていたインド人も日本軍と協力を誓って握手をする
マレー沖海戦
マレー沖海戦では当時最強と言われていたイギリスの戦艦2隻を飛行機による空からの攻撃で撃沈する
ミッドウェイ海戦
しかし、このミッドウェイ海戦で大事な航空母艦を4隻も失い、負けてしまう。これで形勢が逆転。
マリアナ沖海戦
続くマリアナ沖海戦でも敗北
沖縄への艦砲射撃
ついにアメリカ軍は沖縄に迫ってきた。アメリカの戦艦が沖縄に向かって艦砲射撃をしている
アメリカ軍上陸
すごい人数のアメリカ軍が沖縄に上陸
アメリカ軍戦車
大事な田んぼの中を平気で進むアメリカ軍戦車
アメリカ軍火炎放射器
火炎放射器で沖縄を火の海にするアメリカ軍
戦艦大和
沖縄を救うために戦艦大和が出撃する
攻撃される大和
しかし、世界最強の大和も空からのアメリカ軍の攻撃を受けて苦戦する
大和撃沈
ついに大和撃沈
硫黄島占領
日本本土のすぐそばにある硫黄島も占領される
空襲
日本の各都市はアメリカ軍の空襲を受けるようになる
原爆
広島と長崎にも原爆が落とされた
終戦1
ついに終戦。日本は負けた。負けたくやしさで顔を上げられない日本兵。
終戦2
日本各地で女の人も日本の敗戦を悲しんでいる


(5)教科書の穴埋めプリントをする 











 

2015.12.16(Wed) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

野口英世

 大正の人物学習の最後は野口英世を取り上げる。
 この時代に日本の文化が飛躍的に進歩し、世界中から認められたその代表として医学者・野口英世を学習させる。

 
 英世の肖像写真を見せる。

野口英世肖像


<ワークシート・第1ページ>
★中央で白い服を着ているのが野口英世です。この写真を見て気づいたことを 箇条書きで書き出してみましょう。


グアヤキルの英世

児童の気づきは以下のようなものだった。
「廻りにいるのはみんな外国人」
「みんな偉そうな感じ」
「緊張している感じにも見える」
「英世は白い服だけど、外国人はみんな黒っぽい服を着ている」
「全員、帽子を被っている」
「全員、革靴を履いている」
「後ろに船が見える」
「ここは港だと思う。桟橋を歩いている」
「これからどこかへ行くぞ!みたいな感じ」
「英世だけ半ズボンかな?」
『英世は半ズボンではなく、長ズボンの裾にゲートルという黒い包帯のような布を巻いています。蚊に刺されないようにするためです。なぜ?それは後でわかります』

<ワークシート・第2、3ページ>
★世界中の人を病気から救った野口英世

①大やけどを負う
 野口英世は1876(明治9)年に福島県の猪苗代の農家に生まれました。
1才の時に火がついた囲炉裏に落ち、左手を大やけどを負いました。その後、先生や友人の募金で左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が動かせるようになりました。

囲炉裏

英世の左手

②医学の研究を志す
医師をめざした英世ですが、ふつうのお医者さんではなく医学の研究する道を選びました。北里柴三郎の伝染病研究所に勤めた後、アメリカへ留学してロックフェラー医学研究所で細菌学を研究するようになりました。英世はここで蛇毒や小児マヒ、狂犬病、オロヤ熱など世界中の人を苦しめていた病気の研究で成果を上げ、有名な医学研究者となったのです。

ロックフェラー研究所


③野口英世は眠らない
 英世は、数多くの実験から得られるデータの収集を重視し、寝る間も惜しんで研究を進めました。思いついた実験はすべて驚異的なスピードで、しかも正確に実行しました。英世の研究を見た海外の医学者たちは「野口英世は眠らない」と驚きの声を上げたと言います。

④黄熱病との戦い
 1918(大正7)年、英世は当時まだワクチンのなかった黄熱病の病原体を発見するため、エクアドルへ渡りました。
 英世は、エクアドルに到着してわずか9日目には病原体を特定することに成功し、世界中から称賛されました。この研究結果によって開発された野口ワクチンにより、南アメリカでの黄熱病の流行は止まり、多くの人の命が助かったのです。
 さらに、黄熱病の研究のためにメキシコやペルーへも行き、ジャマイカで黄熱病研究の発表を行い、アフリカにも出張しました。
 アフリカで黄熱病の研究を続けていたある日、英世自身が黄熱病に感染してしまいました。一時は回復しましたが、その後病状が悪化し51才の生涯を閉じました。

★野口英世のプレート~エクアドルの人になって考えてみよう

 野口英世が戦った黄熱病は、熱帯アフリカと南アメリカ周辺に見られる伝染病です。蚊によって広まり、伝染します。潜伏期間は3~6日で突然の発熱、頭痛、嘔吐などで発症します。死亡率は30~50%と高く、現在も特効薬はありません。

当時は、実験中に自分自身が黄熱病にかかって死亡するなど黄熱病の研究は過去に何人もの犠牲者を出していました。しかし、英世はこの危険な黄熱病の研究に挑みました。
 1918(大正7)年7月。英世は、船でエクアドルのグアヤキルの町に到着しました。この町で黄熱病が流行し始めたのは1740年です。それから150年以上もの間、この町は黄熱病に苦しんできたのです。しかも、近くの国からは「蚊が多くて汚い町だ」と言われていました。

なんと、到着して9日目に黄熱病で死亡した患者の血液を培養し、病原体を発見しました。さらに、英世はその後も現地に残ってこの病気のワクチンを製造しました。野口ワクチンのおかげでエクアドルの人たちの多くの命が助かったのです。エクアドルの人たちは喜びました。やがて、英世の帰国が伝わると「エクアドルに立派な研究所を建設してドクターノグチを引き止めよう!」という声が市民の中からわき起こったほどです。
エクアドル市民によるお別れ会で、英世は「もし、エクアドルが私を必要とするときは、誰よりも先にはせ参じましょう」と挨拶しました。会場の人びとは立ち上がり「グラシアス、ドクターノグチ!(野口博士ありがとう)」と叫びながら拍手を送りました。
 「黄熱病の流行する汚い町」という汚名を消し去ってくれた英世のことをエクアドルの人びとは「英雄だ」と考えたのです。

1918年7月24日。エクアドルの公衆衛生研究所に野口英世の顔のレリーフが付いたプレートが飾られました。プレートにはこう書かれています。
┌──────────────────────────────────────┐
│  この公衆衛生研究所で、ロックフェラー研究所のメンバーであり、すぐれた細 │
│ 菌学者である野口英世が黄熱病の病原体を発見した。 │
└──────────────────────────────────────┘

エクアドルのプレート


 しかし、その後の研究で英世の発見はまちがいであることがわかりました。英世が発見したのは黄熱病の病原体ではなかったのです(ワイル氏病という別の病原体だったと言われています)。じつは後の時代に黄熱病の病原体は細菌ではなく、細菌よりもさらに小さなウィルスであることがわかりました。しかし、英世の時代の光学顕微鏡ではウイルスを見ることはできません。ウイルスは電子顕微鏡が発明されてから人類が発見した病原体なのです。

さて、困った問題が起きました。エクアドルの人たちが掛けてくれたプレートに書かれている内容はまちがっています。このままにしておくわけにはいきません。
 どうすればよいでしょうか?
 エクアドルの人たちの気持ちになって考えてみて下さい。

◇あなたの考えを書いてみましょう。後で話し合ってみましょう。


 ここの課題は英世の研究成果がたとえ間違っていてもエクアドルの人々を助けた功績は決して色褪せないことを子どもたちがつかめればよい。日本人が世界に羽ばたいたその姿を学習することが目的である。
 児童からは出された主な意見を紹介したい
「正しい内容に書き換えればいい。作り直す。野口ワクチンが病気に効いたのは事実なのだから、そのことを書けばいい」
「一度、それを取り外して保管し、野口英世は汚名を消し去り、ワクチンを我々のために作ってくれたエクアドルの英雄だ、と新しく作る。そしてその隣にこれを付ける」
「そのままにする。他の国の人は間違っていると言うかもしえないけれど、いくら間違っていたとしてもエクアドルの人たちの病気を治せたんだし、野口英世のおかげで黄熱病の流行する町と言われなくなったのだから、プレートはそのままでいい」
「プレートを作った人に事情を話し、別の正しい内容のものを作ってもらう。別のウイルスであったが、エクアドルの人々をたくさん救ってくれた人だった、というプレートにする」
「このプレートは残して欲しい。エクアドルの黄熱病を研究してくれたし、黄熱病で亡くなってしまったし、町の汚名を消してくれたし、私たちにとっては英雄だ」

<ワークシート・第4ページ>
★世界から慕われた野口英世

 エクアドル人たちは1918年のもとのプレートははずしませんでした。
 その代わり、その右側に「左の記した野口の発見は誤りであり、のちに修正が加えられた」と書かれた新たなプレートを取りつけました。
野口英世の伝記を書いた人の中にはこんなことを言っている人もいます。
 
 最初の発見が誤りだとわかったら、1枚目のプレートをはずせばすむことかもしれません。しかしエクアドルの人たちは、1枚目をきちんと残したうえで新たに訂正のプレートを加えました。「野口英世に対する当時の評価を消す必要はない」と考えてくれたのではないでしょうか?

残されたプレート


エクアドルの首都・キトから離れた村にはノグチ小学校があります。野口英世がこの村を訪れたことがあるのを記念してできた小学校です。学校行事があるときは右のポールに日の丸、中央にはエクアドル国旗、左にはキト市の旗が掲揚されます。

エクアドルの小学校

 残念ながら受賞はなりませんでしたが、野口英世は4回もノーベル賞候補になっています。しかし、医学への貢献が認められて世界中から表彰されています。
 *1913年 スペインとデンマークから勲章授与
*1914年 スウェーデンから勲章授与
 *1920年 アメリカ・フィラデルフィア市からメダル名誉章
 *1924年 フランスから勲章授与
 *1928年 日本から勲章授与


 児童の感想を紹介する。
*野口英世の研究結果は間違っていたけれども、エクアドルの人は、野口英世を偉人としてみているのが、日本人としてうれしいと思いました。寝ないで研究したのもすごいと思いました。
*野口英世がノーベル賞を取れなかったのは残念だけど、こんなに世界から勲章をもらって、しかもエクアドルの小学校で名前がノグチ小学校があると言うことは、世界中からその実力が認められたのだと思う。
*野口英世は、多くの人々の命を助けてきた人だからすごい人だと思いました。世界中から親しみを持たれているし、エクアドルの町にプレートを貼られているなんて本当にすごいと思います。ノグチ小学校があるなんて驚きました。
*野口英世のことを僕は心から尊敬します。そして、将来僕が大人になったら野口英世のように日本や外国に貢献したいです。
*エクアドル以外のスペイン、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、フランスなどの、昔は日本が学んでいた国から認められたことがすごいなと思いました。



2015.12.06(Sun) | 大正 | cm(0) |

新渡戸稲造

  大正の人物学習の二人目は新渡戸稲造である。
 新渡戸は『武士道』の著者や国際連盟の事務局次長として知られているが、当時の「植民地学」の権威であり、台湾農業を改革させたことでも有名である。新渡戸の業績や思想を学習することで日本の植民地経営について考えさせる。

 まず肖像写真を見せる。

新渡戸稲造肖像

<ワークシート・第1ページ>
★新渡戸稲造の肖像画は旧5千円札に使われていました。
  その下の2枚の写真は稲造とどんな関係があるか予想してみましょう。


旧五千円札

◇本の表紙
英語版・武士道

◇ある植物
サトウキビ
  児童からは以下のような予想が出された。
*このある植物とは「竹」で、竹に関連したことでベストセラーを出したのでは?
*植物について研究した人だろう
*表紙にBUSHIDOと書かれているので「武士道」についての本でhないか?
*英語で書かれているので英語で書いた人なのか?
*この本で外国から認められた
*これは竹ではなくてサトウキビだと思うので、サトウキビの本を書いたのか?

 『みなさんの予想は当たらずとも遠からずといったところでしょうか。なかなかいい点を見抜いています』

<ワークシート・第2、3ページ>
★太平洋のかけ橋になりたい~新渡戸稲造

①農業学を志す
新渡戸稲造は、岩手県の武士の家に生まれました。
 明治時代になって東京で英語の勉強をしているころ「これからの日本に必要なのは科学技術だ。この分野で西洋の国々におくれを取っていてはいけない」と考えて農業学を学ぼうと考え、北海道の札幌農学校へ進学しました。

②『武士道』を英語で出版
日本とアメリカをつなぐ「太平洋のかけ橋になりたい」とアメリカの大学へ留学した稲造は、キリスト教の信者となり、アメリカ人の女性と結婚しました。稲造は日本に戻って札幌農学校の先生になりましたが、再びアメリカへ渡り1900(明治33)年『武士道』という本を英語で出版しました。
 この本は「日本人の考え方や行動」のもとになるものが「武士道」にあることを説明した本です。この本は英語からドイツ語・フランス語・ロシア語にも訳されて世界中で読まれました。当時、まだ日本のことをよく知らなかった世界の人たちはこの本を読むことで日本人を理解してくれるようになったと言われています。この『武士道』を読んで感動したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、すぐに数十冊を購入して「ぜひ読んでほしい」と配って歩いたそうです。

③国際連盟事務局次長になる
1920(大正9)年に稲造は新しくできた国際連盟の事務局次長の仕事につきました。スイスのジュネーブ本部を中心に世界中をかけまわる日々が始まりました。スピーチのうまかった稲造は、ヨーロッパを中心に講演活動を行い、世界中にその名を知られるようになりました。


★新渡戸稲造になって台湾の農業を立て直してみよう!

 さて、稲造は『武士道』を出版した次の年に台湾の農業を立て直す仕事をまかされました。当時の台湾は日清戦争後に日本の国土となっていたからです。
 稲造は、遅れている台湾の農業の中からサトウキビに目をつけました。サトウキビから取れる砂糖を中心にして台湾農業を立て直そうと考えたのです。さっそく、台湾のサトウキビ農業の長所と短所を調査しました。

◇長所:台湾にサトウキビ農業が適している理由
①台湾の気候は1年中暖かく、雨の量もちょうどよい。しかし、植え付け時期にもう少 し水があればさらに収穫が増えるだろう。
②サトウキビは重いので運搬がたいへんだ。その点、広い平野がある台湾は適して いる。また、人工的に水の調節をすることができれば平野なら調節しやすい。
③台湾の近くにある日本や中国では砂糖を使う量が年々増えているので、たくさん 売れるはずである。また、スエズ運河も開通したのでヨーロッパへ売れるかもしれ ない。

◇短所:現在のサトウキビ農業の問題点
①農業をすすめるために必要なお金を持っている人たちが清国に帰ってしまった。
②山賊がたくさんいて農家の家を焼かれたり、農民が殺されたりしている。
③伝染病の流行でたくさんの人が死んでしまい、農業をする人が減ってしまった。
④農業よりもお金がもらえる仕事へ変わってしまう人が多い。
⑤気候は適していても、それを生かすための機械・肥料・運搬設備がない。

◇稲造は下の目的を達成するためにどんな方法を考えたでしょうか?いろいろなアイデアが考えられます。
 新渡戸稲造になってあなたの考えを書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 台湾のサトウキビがたくさん取れるようにする(収穫を上げる) │
│ 台湾のサトウキビから作られる砂糖の質を上げる(質のよい砂糖の生産) │
│ 台湾のサトウキビから作られる砂糖がたくさん売れるようにする │
└──────────────────────────────────────┘

 いろいろなアイデアが出された。
 3つのカテゴリーに分けて板書した。

①収穫
*もっと水がよくわき出てくる場所を見つけてサトウキビ畑にする。
*スプリンクラーなど人工的に水をまく機械を設置する。
*台湾は島国なのでまわりの海の水を真水に換えてまくことができる装置を開発する。
*外国から技術者を招き、指導してもらう。
*水の豊富な日本から水を輸出できないか?
*伝染病を止めて農業ができる人を増やさなければいけないので病院を建てる。
*用水路を造って常に水が保てるようにする。
*山賊を取り締まるために日本の軍隊を派遣する。
*井戸を掘って水源を確保する。
*外国からいい土を輸入したり、肥料を使って土壌改良をする。
*農業用の機械を日本から無料で輸入する。そして台湾のサトウキビ農家が儲かったらお金を返してもらう。
*台湾のサトウキビ農家の給料をアップしてやる気を出してもらう。

②品質
*日本から肥料を援助する。
*品種改良してもっと甘みのあるものをにする。
*地元のベテランや外国の農業技術者をリーダーにして「こだわり」の仕事を徹底させる。

③販売を
*台湾のサトウキビを海外にアピールするためにチラシなどを作る。
*海外へ売るための航路を確保する。
*サトウキビの海外輸出用の船を用意して大量に輸出する。
*台湾国内に鉄道を引いて重いサトウキビを能率的に運搬できるようにする。
*まずは台湾国内で試食会を行い、これをきっかけにして世界に台湾サトウキビを売り出す。
*大きな港を整備する。
*新渡戸稲造はスピーチがうまいので世界中で台湾サトウキビのよさをスピーチする。

 このさまざまなアイデアの出し合いで重要なのは次の2点である。
○台湾農業のためになることを考えること。
○何事も資金が必要であり、それは誰が用意するのかについて考えさせること。
 そこで、児童が自分の意見を書いているときも、発言の合間にもときどきこの点にこだわった質問を入れた。
『それはお金が必要になるけど、誰が出してくれるの?』
 という具合である。
 児童からは「日本から」「日本政府から」「台湾も日本だから政府が出す」などの回答が返ってくる。

『いろいろなアイデアが出ましたね。では新渡戸稲造が取り組んだことを見てみましょう』

<ワークシート・第4ページ>
★日本の植民地・台湾の農業のために力をつくした新渡戸稲造

 稲造は台湾のサトウキビ農業を立て直すためにどんなことをしたのでしょうか?

①種類を改良する
今まで台湾で栽培していた種類とは違うラハイナ種に変える。これは、収穫量が増える・しぼった汁が濃厚で糖分が高い・害虫などに強い、などの長所がある。
②栽培方法の改良をする
新しい栽培方法を台湾の農家にすすめる。そのためにも新しい品種にすることで「よし変えてみよう」という気持ちにすることができる。ただし、化学肥料などを買うお金は最初の5年間だけは政府が無料で配る。
③水を管理する施設を作る
いまの台湾ではおけに水を入れてまいているだけだ。水を人工的に管理することができて、30~40%は確実に収穫が増えるだろう。その証拠に米を作る水田は水を管理しているが、その近くのサトウキビ畑では、他のサトウキビに比べて1.5倍の大きさに成長している。そこで、水田の中でうまくいっていないところだけ、サトウキビ畑に変える。なお、施設を作るために政府が補助金を出す。
④新しい土地を開拓する
サトウキビ畑のための新しい土地を開拓する。そのためには台湾の人たちにサトウキビに適した土地を宣伝したり、開拓に成功したら無料でその土地の権利を与える。さらに、砂糖製造工場を建設したらこれを特別に保護してもうかるように助ける。
⑤砂糖工場に機械を導入する
いまの台湾では水牛と人の力でサトウキビをしぼって砂糖を作っているところが多いが、機械を使えばもっと多くの汁をしぼり出すことができてムダがないし、品質も高くなる。そこで、小さい機械なら政府が貸し出すか、安い値段で売る。大きい機械を使って砂糖工場を経営してみたいという人がいれば、お金を援助する。また、経営に成功したらボーナスを出す。

新渡戸稲造は、植民地の目的について「その土地の文化を進歩させて、それを広げることだ。ただ単にもうけるためにやることではない」と言っています。西洋の国々は植民地を自分の国の利益を上げる場所としか考えていなかったようですが、日本は新渡戸稲造のように自分の国の予算から貴重なお金を出し、道路・鉄道・港・ダム・学校などを作りました。また、衛生状態をよくしたり、匪賊などをとりしまって安心して生活できる環境を整備しました。


 児童の感想を見てみよう。
*新渡戸稲造さんは西洋と違って、自国だけではなく、植民地の人々のことも考えていたのですね。いい人だと思いました。台湾の人も日本の植民地でよかったな、と心のどこかで思ったかもしれません。
*植民地は、ただ利益を上げたりするだけのものだと思っていたが、日本はそんなことをしないで植民地になっている国の人も安心してくらせるように活動していて、心が広いと思った。
*新渡戸さんは西洋とは違って、植民地でもちゃんときれいにしたり暮らしやすい環境を自分から進んで取り組んですごいと思いました。西洋の国より思いやりがあると思いました。
*この新渡戸さんの考え方は世界でも珍しい考え方だ。植民地に道路や鉄道を通すというりっぱな考え方は後に世界に大きな影響をもたらすかもしれない。
*日本政府は植民地をよくしようという気持ちが強いことがわかりました。新渡戸さんの台湾でのサトウキビ作りを見ていると、その土地の文化を進歩させることが大切だと言っていることに納得できる。
*植民地は自分の国の利益を上げる場所なのに、この場合は日本が損をしている。だから、とても優しいと思った。この仕組みは日本の本部と支部みたいだ。稲造のしていることはすばらしいけど反対派の人が日本国内にはいるような気がする。
*新渡戸稲造は、植民地を儲けるためだけには使わないで、その土地の長所を生かし、その国や地域のよさを伸ばしていこうと考えているのがすごいことだと思いました。匪賊を取り締まって安心してくらせるようにしたのも、僕が台湾に住んでいたら「日本はとてもいいことをしてくれtな」と思ったと思います。

2015.12.06(Sun) | 大正 | cm(0) |

原敬

 大正時代の人物学習の一人目は政治家として原敬を取り上げる。
 原の肖像写真を見せる。

原敬肖像

 その後、ワークシートを配って、タイトルを書く。

<ワークシート・第1ページ>
★下の表は初代から19代までの日本の総理大臣一覧表です。これを見て気づ いたことを箇条書きで書き出してみましょう。

│ 1 │ 伊藤博文(山口県) │幕末志士│ 11│ 桂 太郎(山口県) │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 2 │ 黒田清隆(鹿児島県) │幕末志士│ 12│ 西園寺公望(京都府)│ 公家 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 3 │ 山県有朋(山口県) │幕末志士│ 13│ 桂 太郎(山口県) │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 4 │ 松方正義(鹿児島県) │幕末志士│ 14│ 西園寺公望(京都府)│ 公家 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 5 │ 伊藤博文(山口県) │幕末志士│ 15│ 桂 太郎(山口県) │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 6 │ 松方正義(鹿児島県) │幕末志士│ 16│ 山本権兵衞(鹿児島県)│ 海軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 7 │ 伊藤博文(山口県) │幕末志士│ 17│ 大隈重信(佐賀県) │幕末志士│
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 8 │ 大隈重信(佐賀県) │幕末志士│ 18│ 寺内正毅(山口県) │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 9 │ 山県有朋(山口県) │幕末志士│ 19│ 原  敬(岩手県) │新聞会社│
└──┴───────────┴────┴──┴───────────┴───┘


 児童から出された気づきは以下のようなものである。
①伊藤博文は4回も総理大臣になっている。
②その他、何回も同じ人がなっているがいる・・・大隈重信2回、松方正義2回、山県有朋2回、西園寺公望2回、桂太郎3回
③初代から10代まで出身が幕末志士が続いている。
④山口県出身が多い。次に多いのは鹿児島県。
⑤原さんだけが岩手県で東北で東日本出身。
⑥出身が原さんだけ新聞会社になっていて一般人っぽい。後は幕末志士、公家、軍隊の人。

 こうした気づきをとらえて以下のような話をする。
『幕末志士が多いのは明治維新を成し遂げたのが幕末のこうした志士たちだからですよね。でもなぜ山口県や鹿児島県が多いのだろう?』
 なかなか出てこなければ次の質問をする。
『山口県と鹿児島県は江戸時代はなに藩だったかな?』
「長州藩と薩摩藩」
 これで児童は納得する。
『倒幕を成し遂げたのはこの2つの藩の力が大きかったんだよね』
 もう一つ気づいた欲しいのは岩手県と新聞会社という原敬の出身である。それまでとは大きく違うことに気づくはずである。

<ワークシート・第2、3ページ>
★平民宰相・原敬

総理大臣一覧表を見て山口県・鹿児島県出身の人が多いことに気づきましたか?
 山口県はもと長州藩、鹿児島県はもと薩摩藩です。つまり、幕府を倒すためにもっとも活躍した2つの藩出身の志士たちが交互に総理大臣になっています。
明治政府の中でもこの2つの藩の力がとくに強かったので、これを「藩閥政治」と呼んだりします。混乱した新しい明治時代にとって「藩閥政治」はよい面もありましたが、その後は政治について同じ考え方の人たちが集まって作った政党を中心にした「政党政治」に変わるべきだという意見が増えていきました。

①新聞社の社長に
 原敬は、ペリーが来航して3年後に盛岡藩(いまの岩手県)で家柄の高い武士の子として生まれました。
 明治時代になって新聞社に入社しました。その後、外務省で仕事をするようになった原は陸奥宗光にその才能を認められ、大事な役目を行うようになりました。しかし、再び外務省をやめてちがう新聞社に入社し、社長になりました。

②日本初の本格的政党内閣を作った
 原は、1902年の衆議院議員選挙で、盛岡から立候補して衆議院議員に初当選しました。そして、以後は立憲政友会という政党のリーダーとして政治の世界で活躍し、内務大臣(ないむだいじん)を3回経験しました。
 1918年、原は総理大臣になりました。この原内閣は日本初の本格的政党内閣と言われています。それは、原が日本で初めて衆議院に議席を持つ政党の党首として首相に任命されたことによるものです。また、原は位をもらうことをいっさい断っていたので「平民宰相」と呼ばれました。

④原のめざした日本とは?
 原は次のような方針で政治を進めました。
◇アメリカ・イギリスと仲良くする
◇日本の政治を進める政党の力をもっと強くする
◇4つの方針で日本をよくする
 1)高校や大学を充実させて優秀な人材を育てる
 2)地方にも鉄道をのばして交通機関を整える
 3)国内の産業と外国との貿易をさかんにする
 4)外国の軍隊に負けないように新兵器をそろえて国の守りを固める


★原敬になって大正時代の選挙制度をどう改正すべきか、考えてみよう

 日本で初めての選挙は1889(明治23)年に行われました。このとき選挙権を持っていたのは25才以上の男子で税金を15円以上納めている国民に限られていました。まだまだ、教育が国全体に行き渡らず、情報を得る手段もほとんどない時代ではこのような制限があるのは無理もないことでした。
 しかし、大正時代になると「選挙制度を改正しよう」という声が大きくなり、民衆の中にも演説会や集会などが行われ、盛り上がりを見せていました。
 
 原敬が総理大臣になったころも、これは重要な政治課題でした。この時代の目標は「普通選挙」の実現です。「普通選挙」とは「納める税金や学歴に関係なく選挙権がある」ことです。なお、現在は男女関係なく選挙権を持っているのは当たり前ですが、当時は選挙権が男子にしかないのは普通のことでした。
 
 ここで次のような意見を持っている人がいたとしましょう。あなたが当時の総理大臣・原敬だったとしたらどちらの意見に賛成しますか?
┌──────────────────────────────────────┐
│ A議員:条件なし―すぐ普通選挙を実現すべし! │
│  すでに前回の国会で「税金を10円以上納めている25才以上の男子」に改正され│
│ ています。それでも選挙できるのは国民全体の2%しかありません。これでは国民の声│
│ を聞いて政治をしているとは言えません。明治時代にできた憲法の心を実現するため│
│ にも選挙ができる人を増やすべきです。 │
│  それに民衆の不満が大きくなっていて、暴動が起きそうな勢いです。これを防ぐため│
│ にも選挙権を与えて正しい政治参加ができるようにする必要があります。 │
└──────────────────────────────────────┘
┌──────────────────────────────────────┐
│ B議員:10円を3円に―まだ普通選挙は早すぎる! │
│  私も選挙権を持つ人を増やすことには賛成です。10円を3円にすれば選挙できる│
│ 人は増えます。しかし、いっきに増やすことには反対です。時間をおいて国民にもしっか│
│ り政治を学んでもらい、あわてずに少しずつ選挙権を持つ人を増やしましょう。 │
│  ところで、普通選挙は暴動を止めるためにあるのですか?それは違うでしょう。大事│
│ なのはしっかり考えて、清き一票を入れることができる人を増やすことです。暴動が起こ│
│ る可能性があるというのなら、そんな人たちに選挙権を持たせるのはむしろ心配です。│
└──────────────────────────────────────┘

◇あなたの意見を書いてみましょう。後で話し合ってみましょう。


 意見分布は以下のようになった。

 1組・・・A 9人  B17人
 2組・・・A 5人  B25人

 2クラスで出た意見を見てみよう。
<A派>
*意見を言いたいと思っている人たちが言える場がないから暴動になっているのではないか?だから普通選挙にすべきだ。
*選挙をする権利は納税額では決められない。
*納税額で選挙権のあるなしが決められたら平等とは言えない。
*身分が低くて税金が納められなくても政治について意見が言える勉強をしている人はいるかもしれない。
*暴動が起きてしまったら国が危なくなるので、選挙権を与えるべき。
*国民の声をより多く聴くことが大切だと思う。
*選挙権を制限しているとちゃんと考えている人も爆発してしまうかもしれない。

<B派>
*まずは政治をしっかり学んでもらうことが大切。
*B議員が言っているように選挙は暴動を止めるためにあるのではない。
*まだまだ情報もないのに正しい選挙ができるはずがない。
*形だけ作っても7中身が伴わないと意味がない。
*何事も徐々に進めることが大事で、徐々にでも納税額を減らしていけば不満は抑えられる。
*政治のことを何もわかっていないのに選挙をするなんて許されない。
*B議員が言うように暴動を起こすような人に選挙権を与えるべきではない。
*もし、不満を持っている人が選挙をしたとしてそれで自分が票を入れた人が当選しなかったら結局その人は不満が高まるだけな のであまり意味がない。

<ワークシート・第4ページ>
★普通選挙と原敬の死

 1919年に原内閣は「3円以上税金を納めている25才以上の男子」という改正を行っています。しかし、普通選挙の実施については反対していました。
 
 原はこう言っています。  
「普通選挙の実現は世界的な動きであって、日本がこの影響を受けないということはありえないだろう。日本もこれまでの考え方の上に海外から来る進歩的な考え方を調和させなければいけない」
こうして税金の条件を10円から3円に引き下げることに賛成しました。つまり、あわてずに少しずつ普通選挙を実現すべきだ、という考え方だったのです。

その後、原は1921年に東京駅で暗殺されてしまいました。再び、普通選挙を実現しようとする動きが高まったのは1922年のことです。
 もし、原が生きていれば世の中の動きを敏感に感じ取り、原首相みずからが中心となって普通選挙を実現していただろう、と言われています。

普通選挙法が国会で決まったのはその3年後の1925年です。日本は男子のみと言う限定はありますが、普通選挙を実現させたアジアで初めての国となりました。  当時の先進国であるイギリスでさえ男子のみの普通選挙が実現したのは1918年です。日本とさほど変わりません。日本は驚くほどの速さで西洋に追いつき、立憲政治を実現したと言ってよいでしょう。


原敬暗殺現場
(原敬の暗殺現場プレート)

児童の感想を見てみよう。
*原敬さんは深く考えていたのですね。一般人だからこそ一般人の思いがわかったのでしょう。本格的政党内閣によって西洋に追いついたのはいいですね。
*西洋にとても早く追いついた日本はすごいと思った。きっともっとすばらしい日本にしたかったと原敬は思ったと思う。だから、暗殺されてしまったのは残念だと思う。
*アジア初というのがすごいと思いました。イギリスとの差がだんだん縮まっていることを感じました。
*原首相はゆっくりと普通選挙実現へと動いていたことがわかりました。イギリスと7年の違いで普通選挙が行われたのはすごいと思いました。1900年代だと思うと、100年以内の最近のことなんだなあと思いました。
*今では、お母さんもお父さんも選挙で投票していますが、昔は選挙権が厳しかったんですね。日本がこんなにも早く、西洋に追いつくとは日本、さすがです。

2015.12.06(Sun) | 大正 | cm(0) |

大正時代の文化

 大正時代の導入である。
 上記のタイトルを板書した後に次の基本的なことを質問する。
『時代は大正時代に入りましたが、大正の前は何時代?大正の後は何時代ですか?』
 前者は「明治」、後者は「昭和」と出てくるので、確認する。
 なお、ここからの大正時代の学習は明治後半と昭和前半も重なってることを伝える。

 さらに次ようなお話をする。
『日露戦争の後に第1次世界大戦という戦争が起こりました。これは主にヨーロッパが戦場になったので日本はあまり関係しないですみました。さて、その後に世界のリーダーシップを取る5つの国がありました。世界のベスト5です。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア・・・そして日本です』
 児童から安堵の声があがる。
『日本はついに世界のベスト5に入ったのですね。こうして平和な時代がしばらく続きますが、この頃の日本の様子を歌った歌があるので聴いてみましょう』
 
 榎本健一が歌う『洒落男』を聴かせる(なお、この歌による大正時代のイメージ形成をねらった授業は東京の佐藤民男氏の実践の追試である)。
 1回目はそのまま聴かせて、2回目にプリントを配布して聴かせる。どちらも第2フレーズまでである。

 ◇洒落男(しゃれおとこ) 歌:榎本健一 

┌──────────────────────────────────────┐
│  俺は村中で一番 │
│  モボだと言われた男 │
│  うぬぼれのぼせて得意顔 │
│  東京は銀座へと来た │
│ │
│  そもそもその時のスタイル │
│  青シャツに真っ赤なネクタイ │
│  山高シャッポにロイド・メガネ │
│  だぶだぶなセイラーのズボン │
│ │
└──────────────────────────────────────┘

 榎本健一さんは大正時代から昭和にかけて活躍した俳優・歌手・コメディアンです。「エノケン」と呼ばれてたいへんな人気でした。この「洒落男」はヒット曲の一つです。
  この歌の歌詞には大正時代から始まった文化のようすがたくさん入っています。

★大正時代から始まったのではないか?と思われることばを見つけて□で囲んでみましょう。
 


 児童はスタイル、シャツ、ネクタイ、ロイドメガネ、山高シャッポ、セイラーのズボンなどのカタカナ語に着目する。どれも大正時代から一般的になってきたものであることを教える。
 なお、シャッポは帽子であり、山高シャッポは図を描いて教える。ロイドメガネは丸い眼鏡で当時のアメリカのコメディアンであるハロルド・ロイドが広めたものであることも話す。
 しかし、一つだけモボが児童の中で謎として残る。そこで、ヒントとしてモボとモガがあることを告げて、さらに一方が男で一方が女であることを教える。
 解答はモダンボーイとモダンガールの略称である。現代で言えば最先端のファッションを取り入れたカッコイイ男の人や女の人であることを話す。
 
『では、モガを写真で見てみましょう』

モガ

「今っぽいね」の声が上がる。
『じつは大正時代は現代の日本ととても似ています。今は当たり前の文化が大正時代に始まったものであることが多いんです。ではいろいろと大正時代の文化を見てみましょう』

◇映画館
映画館

◇海水浴
海水浴

◇デパート
デパート

◇デパートのショーケース
デパートのショーケース

◇デパートのレストラン
食堂

◇電線(電気の普及)
東京の電線

◇電気の普及による鉄道馬車から路面電車への変化
鉄道馬車から電車へ

◇女子高生の電車通学
電車通学

◇野球の普及
野球

◇サッカーの普及
サッカー


 最後に文化とは関係ないが関東大震災という大きな災害があったことを話す。
関東大震災

 残りの時間は予習復習を兼ねて穴埋めプリントなどをやる。

2015.12.05(Sat) | 大正 | cm(0) |

日露戦争・その後

 日露戦争の第3時は「その後」として日露戦争の世界史的意義について考えさせる。
 授業の冒頭に三笠記念公園内の売店で購入した<東郷ビール>の空き瓶を教室内を一周しながら全員に見せる。
 すぐにラベルの人物が東郷平八郎であることに気づく子が出てくる。
 そこでワークシートを配布する。

<ワークシート・第1ページ>
★下のビールのラベルは1970年にフィンランドのピューニッキ社で発売された「世界の提督シリーズ」の中の一つです。このシリーズは世界中の24人の海の英雄たちの顔がラベルになっています。
ここにあるラベルの絵は、東郷平八郎です。なぜ、24人の中に東郷平八郎が選ばれているのでしょう?


東郷ビールラベル

 児童からは以下のような反応が返ってくる。
「大国ロシアに勝ったことで東郷平八郎の名が世界中に知られるようになったから」
「トーゴターンなど予想外の作戦で勝ったから」
「日本の代表みたいな人だから。ヒーローだから」
「世界一の艦隊に勝ったから、その活躍が広まった」
「強運の持ち主だから縁起がいい。ラベルがお守りみたいになるから」

<ワークシート・第2ページ>
★日露戦争と世界の人々

①東郷平八郎のビールラベル
 ロシアのバルチック艦隊に完全勝利した日本の東郷平八郎の名は世界中に知れ渡りました。ですから、このようなシリーズにも東郷平八郎が選ばれたのでしょう。
(なお、このビールを作っていたフィンランドの会社はすでになくなっています。しかし、今はオランダのビール会社が日本向けに東郷平八郎のラベルだけを復活させて輸出し「東郷ビール」の名前で親しまれています)

②トルコの「トーゴー」
 トルコでは日本の勝利の後に子どもに「トーゴー」と名前を付ける人がかなりいたと言われています。ハリデ・エディプも息子に「トーゴー」と名付けています。また、地名にも「トーゴー」の名が付いた道ができました。

トルコの東郷通り


③中国人・孫文(そんぶん)とアラビア人
 中国建国の父と言われる孫文は講演の中でこう述べています。
 船の上でアラビア人たちが「あなたは日本人か?」と質問してきたので「わたしは中国人だが、どうしたのですか?」聞くと、「最近、アジアの東にある国がヨーロッパの国と戦って勝ったということを知った。わたしたちアジアの西の国の者も同じアジア人として自分のことのようにうれしいのです」と話していた。日本の勝利は有色人種や大きな国に苦しめられている民族に独立のめざめを与えたと言えるでしょう。

④エジプトで出版された本
 エジプトのムスタファ・カーミルは日露戦争後に『昇る太陽』という本を出版しました。この本の目的は、エジプトがイギリスから独立するためには日本をモデルにして学ぶことにありました。また、サラーマ・ムーサーも自分の本の中で「エジプトの人々は日本に好意的だった」と書いています。

⑤イランの詩人の言葉
 イランの詩人であるシーラーズィーは次のように言っています。
「日本は立憲制を取り入れて偉大な国になった。その結果、あのように強い国にも勝つことができたのだ」



<ワークシート・第3ページ>
★日露戦争後の世界の人々の目になって考えてみよう

 ここまで、日露戦争における日本の勝利が世界中に大きな影響を与えたことを見てきました。
 じつは、日露戦争の後、世界の反応はおおよそ下のAとBの2つに分かれました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ A:強くなった日本から学ぼうとした。 │
│ B:強くなった日本を警戒するようになった。 │
└──────────────────────────────────────┘
 では、下の4つの国はAとBのどちらの反応が強かったでしょうか?どちらかに分類してあなたの意見を書いてみましょう。

   ①アメリカ    ②インド    ③フランス    ④ベトナム


世界地図

 この課題に取り組ませるに当たっては世界地図を用意することが肝要である。
 ここまで出てきた国を世界地図上で確認させる。
 子どもたちはさすがにアメリカの位置はわかるが、フィンランド、トルコ、エジプト、イラン、フランス、インド、ベトナムはほぼわからない。
 確認すると「もう一回教えて」とかなり日本との位置関係が気になる様子である。

 分類の人数分布は以下のようになった。
  
             1組             2組
 アメリカ ・・・A 0人  B 27人   A 4人   B26人
 インド  ・・・A 27人 B 0人    A 28人  B 2人
 フランス ・・・A 9人  B 18人   A 11人  B17人
 ベトナム ・・・A 23人 B 4人    A 21人  B 9人

 大勢の意見は、Aにアジアの小国、Bに西洋の大国を当てはめるものである。
「①と③は西洋だったのでちょっと前までは西洋の方が日本より強いと思われていたため、ロシアに勝った日本が西洋に勝つかもしれないと思ったから。②と④は当時、植民地だったので、支配されていた大国に勝てるかもしれないと勇気をもらった」
「②と④は小さくて植民地にされやすいから強い国に勝った日本に学んだ方がいいと思った。また、大きな国の①やロシアと同じヨーロッパの③は警戒すると思う」

 その他の意見その1としてAに①、Bに②③④と分類した国土の大きさで判断したもの。
「①のアメリカは日本よりでっかいし、日本と仲良くしていた。②のインドはイギリスから日本の植民地にされてしまうかもしれないと
恐れた。③のフランスは日本がいきなり強くなって、国の大きさが同じぐらいだから危ないと思ったかもしれない。④のベトナムは日本より小さいしインドと同じ植民地にされてしまうかもしれないと思ったから」

 その他の意見その2としてAに②と③、Bに①と④と分類した日本との距離で判断したもの。
「アメリカは昔、日本が学んだぐらいだからもう学ぶ必要がない。ベトナムは小さくて日本と近いからこの2つの国は警戒した。インドとフランスは遠くて警戒する必要がないから、学ぶ方がいいと思った」

 その他の意見その3は、アメリカ警戒説である。アメリカのみ警戒のBとして残りは3つともAである。
「アメリカは貿易もたくさんしていて大きい国だから、同じぐらい大きくなった日本を警戒すると思う」

<ワークシート・第4ページ>
★日露戦後の日本

◇日本に学べ
 下のお話は、のちにインドの首相になったインドのネルーが自分の子どもに語って聞かせているものです。
┌──────────────────────────────────────┐
│  アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影 │
│ 響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえ │
│ によく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そし │
│ ておとなが、おなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国はやぶれた。 │
│ だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように │
│ いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。 │
└──────────────────────────────────────┘
 日本の勝利はインドの人たちに「インド独立」という希望を与えました。「インドも日本のように近代化を果たせばイギリスの支配から逃れられる」と考えたのです。

 ベトナム人のファン・ボイ・チャウも「日本の勝利の知らせは長い夜の夢からめざめさせてくれた」と語り、ベトナムの独立を夢見て「日本から学ぼう」と約250名の若者を日本に留学させる運動をおこしました。

◇日本を警戒せよ
 西洋の国々も、日本の勝利に驚き「日本から学ぶべきだ」という声が起こりました。イギリスでは「日本海海戦での日本の勝因は<武士道>にある。日本の精神力に学べ」という新聞記事が載り、アメリカでは「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」と言う東郷の有名な言葉に感動した大統領のセオドア・ルーズベルトが、これを英語に翻訳して当時のアメリカ軍に配ったりしました。

 しかし、一方でアメリカの新聞には「日本に対抗できる海軍はもうイギリスにしかない」「日本は恐るべき強国となるだろう」「貿易上のライバルになる」という記事が載るようになりました。西洋の国々は強くなった日本を警戒するようになったのです。

 また、フランスの新聞にも「日本はアジアからフランスを追い出す秘密計画があるらしい」「日露戦争でのロシアの敗北はヨーロッパ全体の敗北と同じだ」「日本を止めるために白人全員で一致協力しよう」などといった日本を警戒する記事が掲載されました。


 児童の感想を見てみたい。
*東郷平八郎の日本海海戦の勝利によってアジアの小さな国々に希望と勇気を与えたのだとわかりました。
*日本は最初はものすごく弱く、植民地になりそうで危ない時期もあり、すごく弱かった。でも、植民地にされるどころか、植民地になっている国に希望を与える大きな国になった。僕はすごい進歩だと思う。
*日本はアジアの人たちに希望を与えたので、今のアジアがあるのはそのためだと思います。日本が大国に警戒されるということは日本は成長したんだと思います。
*日本は強くなって危険になったのではないか?白人が全員で攻撃してきたら日本は大丈夫なのか?心配だ。でも、世界の強国に勝った日本は本当にすごい。計画を立て、行う、やる気がすごい、世界一だと思った。
*こんなに世界中が驚いてすごいと思った。東郷さんのおかげ。植民地にされた国にも勇気を与えたから戦争というのも全部が悪いというわけではなかった。
*日本海海戦の大勝利が植民地にされている人々に希望を与えられたのはすごいと思います。日本の強さをわかってもらえるのはよいけれど、恐れられたり誤解されることがないようにしてほしいと思いました。
*日本がアジアにもたらした利益はものすごいものだと思いました。
*日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎が、こんなに有名になっているとは、同じ日本人である僕も感動しました。

2015.12.02(Wed) | 日清・日露戦争 | cm(0) |

小村寿太郎

 日露戦争の第2時である。
 ポーツマス講和会議をテーマにして小村寿太郎を取りあげる。

小村寿太郎肖像

<ワークシート・第1ページ>
★日露戦争を終わらせるための講和会議が行われることになりました。下の写 真はその時に撮られたものです。気づいたことを箇条書きで3つ書き出した 後、下の質問に対してのあなたの予想を書いてみて下さい。


<質問>この講和会議はアメリカのポーツマスという小さな町で行われました。
      なぜ、会議はアメリカで行われたのでしょう?


ポーツマス講和会議

 児童の気づきは以下のようなものが出てきた。
「みんな真剣な表情をしている」
「資料のようなものがテーブルにある」
「左が日本で、右がロシアだと思う」
「真ん中の椅子が空いている」
「ペンのようなものもある」
「5対5」

 質問についてはこんな予想が出された。
「日本またはロシアでやると戦争中なので不公平になる」
「とても両国では押さえきらないのでアメリカに頼んだ」
「アメリカは関わりがないから選ばれた」
「お互いの国でやるとどちらかに有利になるので危険だから」
「薩長同盟と同じで自分たちでは話し合いが進められないから頼んだ」

<ワークシート・第2ページ>
★ポーツマス講和会議が始まるまで

①国力の限界
 圧倒的な国力をもつ大国ロシアにくらべれば日本はまだ小さな国でした。ですから、戦争が始まったころから自分たちが優位なうちに講和に持ち込もうと考えていました。そして、ロシア軍に対して優位に戦闘を続けることができていましたが、すでに日本の国力は限界に来ていました。

②アメリカに仲介をたのむ
 これ以上、戦争を続ければ大国であるロシアの兵力が増強され、いつ逆転されてしまうかわかりません。そんな中、日本海海戦で大勝利をおさめたことで日本は講和会議に持ち込むチャンスがやってきたのです。日本は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に日本とロシアの間に入って講和会議を進めるようにたのみました。この当時、アメリカは日本を支持していたからです。

③小村とウィッテ 
 日本側の代表に選ばれたのが小村寿太郎です。小村は、身長148㎝の小さな体でした。かつて、駐米大使になった時、ある人に「外国人の中にまじったら子どものように思われますよ」と言われ、「だいじょうぶです。わたしは日本を代表して行くのですから。日本は小さくても強いですからね」と答えたと言われています。
 対するロシア側代表のウィッテは身長180㎝の大きな体でした。
 ウィッテは、ロシア皇帝から「わずかの土地も金も日本に与える条約は結ぶな」と命令されていたと言われています。そのためウィッテは「講和会議がうまくいかなくてもしたがない。ロシアは戦争を続ける準備もできている」という態度をとっていました。

④国民の期待   
 しかし、講和会議を前にして日本の国民の多くはあの大国であるロシアに勝ったのだから多くの賠償金を勝ち取ってほしいと考えていました。日露戦争は多くの戦死者を出し、国民も多くの負担に耐えてきていたので、賠償金を期待していたのです。


講和会議の3人


<ワークシート・第3ページ>
★小村寿太郎になって考えてみよう

 講和会議はポーツマスの海軍造船所を改築した会場で行われました。日本とロシアの代表団はホテルに宿泊し、そこから船で会場に行きます。講和会議は17回にわたって行われました。
 第1回目の会議で日本は12項目の要求をロシアに提示しました。そのなかの重要なものを3つにまとめたので見て下さい。

 A:ウラジオストックをロシア海軍の軍港からふつうの商業のための港にする  こと。そして、ロシア海軍の兵力を制限してこれ以上強くならないようにす  ること。

 B:日本は大きな損害を受けたので、ロシアは賠償金を支払うこと。また、樺  太を日本の領土にすること。

 C:日本陸軍とともにロシア陸軍も満州から引き上げ、満州の鉄道とリャオト  ン半島を日本にゆずること。また、朝鮮半島のことについては日本にまか  せること。

 この3つの要求の中で日本が「絶対にゆずれない」と考えていたのはどれだと思いますか?
あなたもこれから交渉する小村寿太郎になって考えてみてください。

◇あなたの考えを書いてみましょう。あとでみんなで話し合ってみましょう。


 児童の意見分布は以下のようになった。
       
1組・・・A 7人  B 3人  C 18人
2組・・・A 9人  B 5人  C 14人

 主な意見を紹介する。
<A派>
*ロシアは戦争を続ける準備もできているので、次の戦いでは日本は負けてしまうかもしれないという状態だから。
*ロシア海軍が強くなって日本に攻め込んできたら日本は包囲されてしまう。ロシア海軍をこれ以上強くしてはいけない。
*ウラジオストックは日本に近いので危険。

<B派>
*国民の期待に応えるために賠償金を払わせる。
*多くの国民が望んでいる賠償金をウィッテを説得してもらえれば、国の再建ができる。土地をもらってもやっぱりお金が必要になるから。
*樺太が日本の領土になればロシアは攻めにくくなると思う。

<C派>
*ロシアが引き下がれば日本は安心できる。もし裏切られれても朝鮮半島が日本にまかせられればそこを通ることはできないので日本までは簡単に来られない。来たとしても時間がかかりその間に逆に日本が攻めることができる。
*ロシア陸軍が満州から引き上げないとまたロシアと戦争になってしまうかもしれないし、とても広い満州や朝鮮を領土にできて一石二鳥だ。
*朝鮮半島が他の国のものになってしまえば、その国が攻めてきたときに絶対に不利だから。朝鮮半島が安定していれば前のように朝鮮を他の国が渡って来て攻められることは少なくなると思う。
*AやBも大切だと思うけど、鉄道やリヤオトン半島を取れれば、貿易したりして賠償金以上にお金が儲かる。


<ワークシート・第4ページ>
★ぎりぎりの交渉を成功させた小村寿太郎

 日本が「絶対にゆずれないこと」と考えたのはCです。
これまでの歴史をふり返れば、日本が外国からの危機に直面するのは、つねに朝鮮半島が敵対する国の手に落ちたときです。ですから、朝鮮半島が安定した状態にあることが何よりも重要でした。また、そこから一歩進んで満州も敵対する国に取り込まれないようにすることも大事だったのです。

小村のねばり強い交渉により「絶対ゆずれないこと」と考えていたCはすべて取ることができました。また、「できれば達成したいこと」と考えていたBも、賠償金は取れませんでしたが、樺太の南半分を取ることができました。ですから、交渉はほぼ引き分けで終わり、講和会議は成功したと言ってもよいでしょう。

 しかし、日本の国民はこの講和条約の結果に満足しませんでした。賠償金が取れなかったことに対して非難が高まり、全国各地で「講和条約反対」「戦争を続けろ」と集会が開かれました。また、暴動も起こり、大臣官邸や新聞社、交番などが焼き討ちされる事件にまで発展しました。 
 日本政府は「ロシアが戦争を続けようとすれば日本は負ける」という情報を国民に知らせることはできませんでした。なぜなら、この情報がロシアにもれれば戦争も講和会議も不利になるからです。そのため、国民の多くは「大国ロシアなら多額の賠償金を取ることができる」と信じていました。

日比谷焼き討ち事件


75年後のことです。作家の吉村昭さんは小説を書くためにポーツマスを訪れました。このとき吉村さんは、当時の会議場を警備していた90才の男の人に質問をしました。
「小村は、ずいぶん小さな人と思われましたでしょう」
すると男の人はこう答えました。
「とんでもない。一国を代表する堂々とした人で、小さくなどありませんでした」
この言葉の中に、日本の運命を背負い、つらくきびしい役目を果たそうとした小村寿太郎の姿がうかびます。


 児童の感想を紹介する。
*小村寿太郎は、国民に非難されるのに、それができたすごい人だと思います。勇気があるなと思いました。身長は低くても気持ちはすごく大きな人だと思います。
*小村寿太郎は体は小さいのに、日本のために堂々として講和会議をしたことはすごいことだと思いました。
*体の大きさではなく、意志の強さが相手にも伝わったと思います。もしも、自分が政府の事情を知らない国民だったら同じように怒ると思います。
*こんなに人々が苦しんでたくさんの犠牲者が出たにもかかわらず賠償金を得られなかったのは国民にとっても苦しかったと思います。でも、これからのことを考えると満州と朝鮮が譲れなかったんだと思いました。
*小村寿太郎は慎重148センチの小さな人だったけれど、警備をしていた人の話から心がとても大きな人だったということがわかりました。寿太郎のねばり強い心もあって、交渉も成功したんだろうなと思いました。

2015.12.02(Wed) | 日清・日露戦争 | cm(0) |