FC2ブログ
プロフィール

mutukawa34413

Author:mutukawa34413
 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR

吉田茂

 戦後学習の5時間目は吉田茂と日本の独立を取り上げる。
 この授業で、当時の背景にあった「冷戦」についても学習させる。

『今日は戦後学習の最後です。当時の総理大臣の吉田茂について勉強します』

吉田茂肖像画

『この吉田茂と当時の日本について学習する前に、当時の世界の様子を見てみましょう』

<ワークシート・第1ページ>
★下の地図と写真にはどんな関係があると思いますか?あなたの予想を書いてみましょう。


東西冷戦
ベルリンの壁

 子どもの予想を見てみよう。
「同じベルリン市なのに東と西に分かれているので、地図の米ソ対立と関係していると思う」
「ドイツが戦争に負けて地図に載らなくなったのでは?」
「米ソ対立でどこかの国が対立した」
「米ソが対立と書いてあるので元々1つだったベルリンが取り合いになって2つになった」
「米ソ対立で手を振っている写真は戦争の兵士を見送っているのでは」
「同じくNATO対WTOで対立してベルリンも分かれた」

<ワークシート・第2、3ページ>
★ベルリンの壁
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ(米)・イギリス(英)・フランス(仏)・ソ連の四か国によって西ドイツと東ドイツとに分断されました。西ドイツは米・英・仏が、東ドイツはソ連が占領しました。ところが、東ドイツの中にあったベルリン市はさらに分割され、西ベルリンを米・英・仏が、東ベルリンをソ連が統治することになりました。つまり、東ドイツ国内にありながらも西ベルリンだけは西ドイツに属するという、まさに陸の孤島のような状態になったのです。
自由主義国・西ドイツと、共産主義国・東ドイツの経済力の差は徐々に大きくなっていきました。東ドイツの経済が悪化していくのに対して、西ドイツと西ベルリンの経済は成長を続け、市民の生活も豊かになりました。最初は、ベルリンの東と西の行き来は自由だったので、自由で良い暮らしを求めて、東ベルリンから西ベルリンへ亡命する人は増える一方になったのです。
 このままでは人がいなくなってしまうと考えた東ドイツは、東の人々が西に逃げられないように壁を作ったのです。1961年、西ベルリンをぐるりと取り囲む壁が一夜にして作られました。信じがたいことですが、ある日突然出現した「壁」によって、家族や友人が離れ離れになってしまったのです。

一夜にしてできた壁
一夜にしてできたベルリンの壁

壁の全体
壁全体のようす

壁の構造図
壁の構造図(車転落用の溝、サーチライト、監視塔、犬走り用の鎖などが巡らされいる)

射殺された亡命者
射殺された亡命者と東ドイツ兵士

東西ドイツ
東西分断時代のドイツ地図

分断時代のベルリン
東西分断時代のベルリン市地図

★冷戦(冷たい戦争)と朝鮮戦争
第2次世界大戦が終わると、連合国は新たな戦争を防ぐための組織として国際連合を作りましたが、戦争がなくなることはありませんでした。

 なぜなら、アメリカをリーダーとする自由主義国とソ連をリーダーとする共産主義国が対立したからです。アメリカはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を作り、ソ連もワルシャワ条約機構(WTO)を作りました。こうして、2つの陣営が対立する「冷戦」の時代に入ったのです。対立はしていてもアメリカとソ連のリーダー同士による武力衝突がないことからこう呼ばれていました。

 しかし、実際にはこの2つの陣営の対立による狭い地域での戦争や事件がたくさん起こっていました。1950年、ソ連が応援する北朝鮮軍が韓国へ攻め込み、韓国軍とこれを助けるアメリカ軍が反撃しました。その後、共産主義国になっていた中国軍も北朝鮮軍に味方して一進一退の戦いが続きました。これを朝鮮戦争と言います。「冷戦」が日本のすぐ近くの朝鮮半島で現実の戦争になったのです。

★吉田茂になってサンフランシスコ講和条約の方針を考えよう

 吉田茂は戦後5回も総理大臣になり、大事な仕事をたくさんしました。しかし、なんと言ってもいちばん大きな仕事は、1951年にサンフランシスコ講和条約を結んだことです。
 なぜならば、このサンフランシスコ講和条約を結べば、アメリカの占領は終わり、日本は独立することができるからです。自分たちの国のことは自分たちで決めて、新しい国づくりを進めることができるのです。この講和会議の結び方について、日本には2つの考え方がありました。     

 ひとつは【全面講和】という考え方です。これは第2次世界大戦に関係した55カ国すべての国と講和を結んだ方がよいという考え方です。      

 もうひとつは【単独講和】という考え方です。これは共産主義国をのぞく48カ国とだけ講和を結ぼうという考え方です。                    

【全面講和がよいと考える人たちの意見】
 対立している国とも仲良くすべきだ。それが日本のためにもなる。
 対立している国どうしを仲良くさせるためにもすべての国と条約を結びたい。
全面講和をしようとすれば独立ははやくても5年ぐらいは遅れるかもしれないがそれはしかたがない。

【単独講和がよいと考える人たちの意見】
 まずは同じ考え方の自由主義国とだけ早く仲良くして仲間になることだ。
 そうしてすぐにでも独立して自分たちのことは自分たちで決められるようにしたい。全面講和をしようと考えていたら、いったいいつ独立できるようになるかわからない。


◆さて、あなたが吉田茂ならどちら意見に賛成しますか?あなたの意見を書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちの話し合いの前に意見分布を取ってみた。

*全面講和・・・1組 7人   2組 3人
*単独講和・・・1組19人   2組26人

 主な意見を見てみる。
*全面講和派
「対立している国同士を仲良くさせるためにすべての国と条約を結んだ方がいい。全面にしないとまた大きな戦争がおこってしまう」
「対立している国を仲良くさせないと平和が早く来ない。独立はできるのだから何年かかってもあわてることはない」
「単独講和だと同じ考えの国だけでいい、ということになってまた戦争になるかもしれない。すべての国と仲間にならないと本当の平和にはならないと思う」

*単独講和派
「全面講和では独立できるかどうかもわからない。5年も待たされてもし独立できなかったら困る。単独の方が確実だと思う」
「共産主義国と自由主義国は対立しているのだから、両方に手を出すのは危険」
「今の日本人たちはととても苦しく貧しい生活をしているので、あと5年も待つなんてかわいそうだ。自分たちで物事を決められないのでは国民を豊かにすることはできない。今すぐにでも同じ考えの自由主義国と仲良くした方がいい」
「やはり同じ考えの人が話し合った方がうまくいって早く独立できるし、自由主義国は経済成長を遂げているので、さらに日本は豊かになれる」
「独立して国を発展させれば両陣営の間に入って止めることができるかもしれない。そのためには独立を優先し、国を発展させるのが一番だと思う」
「日本は今までもけっこう他国に裏切られているので、いきなり対立している国も含めて55カ国と仲良くするのはやめておいたほうがいい」
「同じ考えの自由主義国とまずは仲良くなるべきだ。安定してきたら共産主義国とも仲良くできるかもしれないけど、今やると何かと面倒が多くなる気がする。どっちの味方でもなく宙ぶらりんな状態ではどちらも敵に回すことになる」
「一刻も早くアメリカの占領を終わらせて国が独立して安心して暮らせるようにしたい。第二次世界大戦から続いている苦しい状況を終わらせることで、とりあえず今は自分の国の事を考えることが大切。共産主義国とは後からでも仲良くなれる」

<ワークシート・第4ページ>
★アワー・フレンド・ジャパン

 吉田茂の考えは単独講和でした。                      

 これに反対する全面講和に賛成の人たちは次のように考えていました。     
「近くにある中国などとも講和条約を結ばないと日本は経済的に自立できない。また、日本は中立を守るべきだ。自由主義国とだけ仲良くしたら中立が守れない」    
 それに対して、吉田茂はこう考えていました。                
「世界はどんどん進んでいる。とにかくいっこくも早く独立して世界の仲間入りをしないと、経済的にも日本は遅れていってしまう。そして、日本はアメリカと仲良くしていかなくてはいけない。アメリカと対立するようになったら、また日本はまちがった方向に行ってしまう。」

 国内でこうした話し合いが続けられているときに、おとなりの朝鮮半島で戦争が起こりました。朝鮮戦争です。この戦争は北朝鮮と韓国の間に起きた戦争ですが、共産主義国のソビエトと中国が北朝鮮の味方になり、自由主義国のアメリカが韓国の味方をしました。戦争は一進一退をくりかえし、最後は朝鮮半島のほぼ真ん中の北緯38度線で戦いが終わりました。
この戦争は共産主義国と自由主義国が戦ったわけですから、全面講和がよいか?単独講和がよいか?で話し合っていた日本人に大きな影響を与えました。             
 日本人はだんだんと吉田茂の考え方に賛成するようになり、日本は単独講和の考え方でサンフランシスコ講和条約を結んだのです。
 全面講和がよいと考えていた人たちも単独講和がよいと考えていた人たちもどちらも真剣に日本の将来を考えていたのですが、中には心ない人がいて、吉田茂の家に放火して家が焼かれてしまったこともあります。しかし、吉田茂はそんなことにもめげずに自分の信念を貫き通し「いつかきっと反対の人たちもわかってくれる」とまわりの人たちに話していたそうです。                   
 
 サンフランシスコ講和条約に調印したあと、司会をしていたアメリカ人は次のように日本を紹介しました。「アワー・フレンド・ジャパン」これは英語で「私たちの友だち日本」という意味です。つまり、アメリカなどの自由主義国の一員となったのです。吉田茂はこの言葉をどんな気持ちで聞いていたでしょうか?心に残る一言だったにちがいありません。こうして日本は独立することができたのです。


講和会議1
講和会議2

 授業後の感想文を見てみよう。
*吉田茂は日本の将来の分かれ道となる時に単独講和を選んで独立させた勇気のある人だなと思いました。
*最初は全面講和で戦争はなくなると思いましたが、吉田茂さんの考えを聞いて、単独講和の考えに変わりました。家が焼かれてもめげずに日本のことを考えた吉田さんはすごいと思いました。
*今の日本は吉田茂のおかげで独立してるんだなあ、と思って感謝しています。
スポンサーサイト



2016.01.23(Sat) | 昭和(戦後) | cm(0) |

古橋広之進

 戦後の学習4時間目はスポーツ選手を取り上げる。
 水泳の古橋選手である。戦後、食べるものもままならない状況で世界新記録を連発した古橋選手は当時の日本人のまさしくヒーローだった。
 日本人は古橋の泳ぎで自信を取り戻したのである。

 一枚の画像を見せる。
『今日は戦後の日本人に勇気を与えた一人のスポーツ選手を取り上げます。水泳の古橋選手です』

古橋・スタート

『古橋選手の勉強をする前にオリンピックと日本の関わりについて勉強しましょう』

<ワークシート・第1ページ>
★下の表は第1回から第18回までのオリンピックの開催都市一覧表です。これを見て気づいたことを書き出してみましょう。

│ │    開催都市 │ │
│ 1│アテネ (1896年) │ │
│ 2│パリ  (1900年) │ │
│ 3│セントルイス(1904年) │ │
│ 4│ロンドン(1908年) │ │
│ 5│ストックホルム(1912年)│日本初参加。 │
│ 6│ベルリン (1916年) │第1次世界大戦で中止 │
│ 7│アントワープ (1920年)│日本初のメダル獲得・熊谷一弥(テニス・銀) │
│ 8│パリ(1924年) │ │
│ 9│アムステルダム(1928年)│日本初の金メダル獲得 織田幹雄(三段跳) │
│ 10│ロサンゼルス (1932年)│日本が水泳・陸上で大活躍する。 │
│ 11│ベルリン (1936年) │ │
│ 12│東京 (1940年) │返上 │
│ 13│ロンドン (1944年) │第2次世界大戦で中止 │
│ 14│ロンドン (1948年) │日本は招待されなかった。 │
│ 15│ヘルシンキ (1952年) │日本は戦後初のオリンピック参加。 │
│ 16│メルボルン(1956年) │ │
│ 17│ローマ (1960年) │ │
│ 18│東京 (1964年) │アジア初のオリンピック開催。 │


子どもたちからは以下の気づきが出された。
「日本が参加したのは第5回から」
「初めてメダルを取ったのが第7回」
「戦争で中止になったオリンピックが2回ある」
「1948年のロンドン大会は日本は招待されなかった」
「ロンドンはイギリスだから、イギリスと日本は戦争していたからたぶんそれは戦争と関係あると思う」
「東京は2回やっているけど、後の方がアジア初と書いてあって・・・」
「返上って書いてあるから何かあった」
「返上だから、返すってことで戦争していたから批判されたのか?」
「お金とかなくてスタジアムとか作れなかったのでは」

<ワークシート・第2、3ページ>
★幻の東京オリンピックと参加できなかったロンドンオリンピック

 1940年に開催が決まっていた東京オリンピックは日中戦争のさなかであったため、残念ながら日本は開催を返上していましたまた、1948年のロンドンオリンピックはすでに第2次世界大戦も終わっていたのですが、敗戦国である日本は参加することを許してもらえませんでした。
オリンピックは政治に左右される悲しい運命を持っていると言えるでしょう。

★水泳・古橋選手の大活躍

戦後すぐの苦しい生活の中で表れたヒーローが水泳の古橋広之進選手でした。

①厳しい練習環境
戦後すぐの日本人の生活は住むところも、着るものも、食べるものもままならない大変苦しいものでした。
当時、大学の水泳部に所属しいた古橋選手も同じです。大学にはプールはなく、中学校の25mプールで練習していました。やっと見つけた50mプールも空襲で穴が空いているので自分たちでセメントをこねて穴を埋めて使いました。練習メニューや練習方法をアドバイスしてくれるコーチもいません。
何より苦しかったのは食糧事情が悪く、食べ物を自分たちで確保しなければならないことでした。練習の合間をぬって農家へ買い出しに出かけ、頭を下げてサツマイモを分けてもらいました。スポーツ選手でありながら、栄養失調の状態だったのです。

日大水泳部

古橋・カボチャ


②左手中指の切断
じつは古橋選手は左手の中指を第1関節から失うという致命的な事故に遭っています。戦争中の勤労動員で作業中に機械の歯車に巻き込まれて骨をつぶしてしまい、切断したのです。古橋選手はこのハンディキャップをカバーするために右手を徹底的に鍛え、フォームを改造し、キックの数も変える変則的な泳法を開発しました。

古橋・力泳

③次々と世界記録を樹立
終戦から2年後の1947(昭和22)年の日本水泳選手権で古橋選手は400m自由形で4分38秒4の世界新記録を樹立しました。しかし、この世界新記録は国際的には認められませんでした。なぜなら、日本はまだ国際水泳連盟への復帰が認められていなかったからです。
翌年の1948(昭和23)年はロンドンオリンピックが開催されました。しかし、日本は開催国イギリスの反対で参加することはできませんでした。
 古橋選手は当時をふり返ってこう言っています。
「私はさびしかった。今なら世界の一流選手と泳いでも勝つ自信は充分にある。同じスタート台に並んでレースがしたかった」
 そこで、日本水泳連盟は「こうなれば意地でも外国をあっと言わせてやろう」とロンドンオリンピックと同じ日程でその年の日本選手権を開くことにしました。それは世界に対する日本水泳界の挑戦状でした。古橋選手は1500m自由形で18分37秒0の世界新記録を出しました。2位の橋爪四郎選手も世界新記録です(ロンドン五輪の優勝者マクレーンの記録は19分18秒5)。続く400m自由形も4分33秒4で世界新記録(ロンドン五輪の優勝者スミスの記録は4分41秒0)でした。
 しかし、世界新記録を出していた日本選手に対してアメリカの新聞は「日本のプールは、アメリカより短いのだろう」「日本が使っている時計の針は回り方が遅いのだ」などと疑った記事を載せていました。

★全米水泳選手権への出場~アメリカ人はどんな態度を取っただろう

古橋選手たちに世界と戦うチャンスが巡ってきました。当時、世界一の水泳大国アメリカの全米水泳選手権への参加が決まったのです。大会は連日、日本選手が大活躍しました。

*1500m自由形予選A組 橋爪 18分35秒7<世界新>
B組 古橋 18分19秒 <世界新>
*1500m自由形決勝 1位古橋 2位橋爪 3位田中 日本選手が3位まで独占
* 400m自由形決勝 1位古橋 4分33秒38<世界新>
2位橋爪 3位村山 4位田中 日本選手が4位まで独占*200m自由形決勝  1位浜口
*400mリレー 1位日本<世界新>
*800mリレー 1位日本<世界新>
*団体 優勝 日本(東京クラブ)
*個人総合 1位古橋 2位ヴァーデュアー 3位橋爪

 こうした古橋選手をはじめとする日本人選手に対してアメリカ人たちはどのような態度を見せたと思いますか? この当時のアメリカ人の気持ちになって考えてみましょう。 


◇あなたの予想を書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちの主な意見は大きく2つに分かれた。
 一つは何か差別的なことをされたのでは?というもので、もう一つは相手は認めざる得なかったというものである。その折衷的な意見もあった。
「これはまぐれだ!時計が壊れている、反則している、などと負けを認めなかった」
「敗戦国・日本に負けてイライラしていると思う。でも、日本は水泳が強いということが認められた」
「速すぎて呆然としている。アメリカでやったのだから疑いをかけられない」
「日本がすごすぎて日本だけの大会みたいになってこんなのつまらないと怒ってしまう。でも、すごーい!と言っている」
「表彰式で拍手をするときにアメリカの選手だけ盛り上がって、日本人のときには拍手をしなかったのでは?」
「アメリカ人は動揺を隠せなかったと思う。これは認めるしかない」
「日本は戦後で食料もままならないのに、アメリカに勝つなんて・・・すごいと思った」
「事実を認め、アメリカのトップクラスの水泳クラブからスカウトに来た」
「アメリカのことだから、また今回は調子が悪かったとか、日本はずるしたとか認めることはないと思うけど、今回のことで少しは見直した人もいたと思う。たぶん人それぞれ」
「やっぱり日本はすごいと言って、日本のすごさを認めた。次の大会も出て欲しいと推薦された」
「世界記録は本当だったんだと驚いた。認めるしかない」

<ワークシート・第4ページ>
★フジヤマのトビウオ

 全米水泳選手権への参加が決まった古橋選手は
「絶対に負けない。必ず勝ってみせる」と闘志を見せていました。しかし、不安もありました。まだ、戦争が終わったばかりでしたから日本に対するアメリカ人の感情は決してよいとは言えなかったからです。
「アメリカへ行くのはやめろ。行けば殺されるかもしれないぞ」とアドバイスする人もいました。また、日本の外務省からも「日本とアメリカの国交はまだ回復していないので、安全は保障できない」と告げられていました。
現地に到着すると、大会が開かれるロサンゼルズの雰囲気は予想どおり厳しいものでした。日本人は「ジャップ」と差別的な表現で呼ばれ、ホテルへの宿泊は断られてしまいました。宿泊させてもらった日系人の家のまわりは警官が24時間体制で警戒しているような状況でした。

ところが、大会初日に古橋選手と橋爪選手が世界新記録を出すと、まるで今までのことがウソのようにムードが一変しました。「ジャップ」と呼んでいたアメリカ人が「ジャパニーズ」と呼ぶようになりました。そして、大活躍の古橋選手には<フジヤマのトビウオ>というニックネームが付けられました。
さらに、アメリカ人が次々とやってきては「お前はグレートだ!これを受け取ってくれ」と腕時計や万年筆をプレゼントしてきたのです。古橋選手は時計は20個、万年筆は100本を越えてしまいました。その他に持ちきれないほどのチョコレートやガム、洋服やズボンを贈られた選手もいました。

当時をふり返って古橋選手はこう言っています。
「思えば、このあたりの光景はまさにすきっ腹をかかえ、物資の欠乏した敗戦国の選手ならではのものだった。しかし、私たちの心は決して貧しくなかったし、卑屈な気分も全くなかった。私たちそれぞれの全身に、世界の頂点に立った日本人スイマーの、自信と誇りが脈打っていたし、使命を果たした充足感が満ちていた。それに、プレゼントを手渡すアメリカ人たちの目に、はっきりと尊敬の光が宿っていることを、私たち一人ひとりがはっきりと見ていたのだ」


『練習環境もまともではなく、食べるものもない、左手には大きなハンディキャップを持っている古橋選手の活躍はすごいの一言です。この古橋選手の大活躍は戦争負けて自信をなくしていた日本人に勇気を与えました。』
 
 なお、ヘルシンキオリンピックに出場した古橋選手は残念ながらメダルに手が届かなかったことを話した。当時の古橋選手は伝染病のアメーバー赤痢にかかって体調を元に戻せなかったと言われている。また、すでに全盛期を過ぎていた。不運のヒーローだった。しかし、金メダルは取れなかったが日本人に生きる勇気と希望を与えた本当のヒーローだったと言える。

 子どもたちの感想を紹介する。
*これで少しはアメリカも日本のことを認めて、尊敬してくれたのでしょうか?久しぶりに日本がうまくいきました。やはり、実力は認めるしかありません。古橋選手を代表とした日本の選手は国民の光だったと思います。
*たぶん当時の日本人は古橋選手に勇気をもらったと思います。プールがなくても、中指に障害があっても、栄養失調でも圧勝。これはすごいと思います。
*厳しい状況の中でアメリカに負けた日本が水泳大会に連勝することで「こんなに厳しい中でも頑張る人がいるんだ」と元気づけられた人たちがいることがわかりました。これから日本がどんな復活をしていくのか楽しみです。
*まさにヒーローだなと思った。でも、古橋さんだけでなく、橋爪さんもすごいと思った。まさに日本の誇りだと思った。
*古橋選手は敗戦国の人であるにもかかわらず、戦後すぐに世界新記録を更新したのがすごいと思います。苦しい日本への希望を与えたすごい人・・・(橋爪選手も)。
*今日の授業では、古橋選手のすごさに驚いた。日本人が世界の頂点に行ったことがすばらしいと思いました。とても誇りに思うし、会えたらありがとうございましたと言いたいです。
*古橋選手は栄養失調だし、左手の中指が不自由なのに世界を相手に戦ったことがとてもすごいと思った。また全米水泳選手権での活躍は、日本を弱く見ていた国に衝撃を与えたと思う。

2016.01.23(Sat) | 昭和(戦後) | cm(0) |

東京裁判

 戦後学習の3時間目は「東京裁判」を取り上げる。
 この授業は2003年に斎藤武夫氏が『学校で学びたい歴史』(産経新聞社)に発表した実践の追試である。ただ、斎藤氏の実践をいわばライト版に改変している。
 この授業に興味を持たれた方がいたら、ぜひ斎藤氏の著書にある重厚な実践記録も読んで欲しい。感動的な授業である。

『昨日の昭和天皇の授業で「東京裁判」という言葉が出てきましたね。今日はその「東京裁判」について勉強しましょう』

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真はある場所の様子です。気づいたことを書き出してみましょう。


東京裁判法廷

子どもたちから出てきた気づきは以下のようなものである。
「左側に旗がある」
「国旗のようなものがある」
「兵士みたいな人がたくさんいる」
「警備している」
「右に扉のようなものがあってそこを主に見張っている」
「体育館みたいで広い」
「普通の裁判所と違う感じ」
「裁判になっている人が一人じゃないみたい」
「記者みたいな人が見学している」
「左右が階段状になっている」
「真ん中の柵みたいなものの向こう側はひとがたくさんいるが、手前は人が少ない」
「左がアメリカで右が日本みたいな感じ」
「裁判じゃないみたいな感じ」
『これは東京裁判の法廷です・普通の法廷ではなくて講堂を改造して裁判の法廷にしました。では次のページを読んでみましょう』
 2ページの最初の4行目まで読んだら以下の点を板書して説明する。
『では裁判について確認しましょう。裁判は4つの役目を持った人がいます』
 <裁判官>は判決をする人で有罪・無罪を決める。
 <原告>は訴えた人。しかし、これは民事裁判の場合で刑事裁判の場合は検察官がこの役目をする。この「東京裁判」では<検察官>になる。
 <被告>は訴えられた人。<弁護人>は被告を助けてくれる人。
『では、東京裁判ではそれぞれ誰がやったのか、を教えます』
<裁判官>は現段階では?にしておきます。
<被告>の①は戦争当時の日本人28人です。個々には当時の総理大臣や軍人が入っています。
<検察官>の②はアメリカなど11カ国の連合国軍です。
<弁護人>はもちろん日本人で清瀬一郎さんという人です。

<ワークシート・第2、3ページ>
★東京裁判

 表紙の写真は東京・市ヶ谷にあった陸軍の講堂です。ここを改築して東京裁判が行われました。東京裁判は正式には「極東国際軍事裁判」と言います。
 では、学習を進める前に「裁判」とは何かを確かめておきましょう。裁判には4種類の人が必要です。この東京裁判ではそれぞれどんな人がやったのか、先生に教えてもらいましょう。
┌────────────────────────┬────┬────────┐
│        裁判での役割 │ 名称 │ 東京裁判の場合 │
├────────────────────────┼────┼────────┤
│*有罪か、無罪かの判決を下す人 │ 裁判官 │?        │
├────────────────────────┼────┼────────┤
│*疑いをかけられて裁判される人 │ 被告 │① │
├────────────────────────┼────┼────────┤
│*犯罪があったことを証明するために「この人はこ │ 検察官 │② │
│ ういうことをした」と言う人 │ │ │
├────────────────────────┼────┼────────┤
│*反対に②の人の側に立って「この人はこういうこ │ 弁護人 │③ │
│ とはしていない」と言う人 │ │ │
└────────────────────────┴────┴────────┘

 では、この東京裁判の傍聴席にすわって2年半続いた裁判の討論をを聞いてもらいます。聞いた後でみなさんから感想を出してもらいます。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ★検察側の意見(アメリカを中心とする連合国) │
│ ◇被告は有罪だ │
│ 日本は、太平洋戦争において「平和に対する罪」と「戦争犯罪」をおかしました。 │
│したがって、当時日本の指導者だった被告たちは明らかに有罪です。 │
│ 【平和に対する罪】 │
│ ①日本はアメリカを攻撃し、平和を破った │
│ 1941年12月8日、日本海軍はいきなりハワイの真珠湾を攻撃してきました。 │
│ それは、ここにいる被告たちの命令で引き起こされたものです。日本が攻めてこ │
│なければこの戦争は起きていないのですから、戦争の全責任が日本にあるのは明か │
│です。世界の国々は、このような侵略戦争を禁止しています。日本はこの約束に違 │
│反して「平和に対する罪」をおかしたのです。 │
│ ②日本は中国を侵略した │
│ 侵略とは理由もなく一方的によその国へ攻め込んで、そこを自分のものにしてし │
│まうことです。満州事変も日中戦争も、日本の戦争はすべて自分勝手で強盗のよう │
│な戦争でした。 │
│ ③日本は東南アジアにも侵略した │
│ さらに、日本はイギリス・オランダ・アメリカの植民地だったビルマ・インドネ │
│シア・フィリピンなど、東南アジアにまで侵略してきました。そして、西洋諸国が │
│築き上げてきたアジアの平和をやぶったのです。それは、東南アジアにおける西洋 │
│諸国の正当な権利を踏みにじり、東南アジアを、自分たちの利益のために支配しよ │
│うとして行われたものなのです。 │
│ 【戦争犯罪】 │
│ ○日本は戦争犯罪を犯した │
│ 日本軍はいたるところで戦争のルールを破り、戦争犯罪を犯しました。中国や東 │
│南アジアのふつうの市民を殺したり乱暴したりしたのです。大勢の市民が殺された │
│り暴行されたりしました。また、わが連合国の捕虜たちも日本軍によって虐待され │
│ました。 │
└──────────────────────────────────────┘

┌──────────────────────────────────────┐
│ ★弁護側の意見(日本) │
│ ◇被告は無罪だ │
│  この戦争の責任がすべて日本にだけあるという検察側の主張は認められません。 │
│弁護側は被告全員の無罪を主張します。 │
│ 【平和に対する罪】 │
│ ①日本は自衛戦争を戦った │
│ 日本の戦争は自分の国を守るためのもので、侵略戦争ではありません。世界の国 │
│々は自分の国を守る自衛戦争を禁止したことはありません。わが国は資源に乏しく、 │
│西洋諸国のように大きな植民地もありません。貿易をしなければ生きていけない国 │
│です。その貿易の道を閉ざして、日本が生きていけないように追い込んだのはアメ │
│リカを始めとする連合国の方です。日本は生きるために、やむなく戦争という手段 │
│に訴えたのです。この戦争の責任はわかっていて日本を追いつめたアメリカにある │
│のです。 │
│ ②中国にも責任がある │
│ 中国との戦争についても同じです。わが国が日露戦争で手に入れた南満州鉄道や │
│鉱山を経営する権利、そこで日本人が生活する権利などは、中国も条約で認めた正 │
│当な権利です。それが中国人に攻撃されたり、日本人が殺されたりしました。満州 │
│事変は、日本の権利と日本人の命を守るために始まったのです。日中戦争は中国軍 │
│から始めた戦争であり、日本は受けて立っただけです。 │
│ ③東南アジアを日本の領土にしようとしたのではない │
│ 日本が、東南アジアを支配していた西洋諸国と戦ったのは、植民地をなくそうと │
│したからです。そこを自分の領土にしようとしたのではありません。 │
│ 【戦争犯罪】 │
│ ○すべての国が戦争犯罪を犯した │
│ わが国の軍隊もときにはルールを守らなかったことがあったことは認めましょう。 │
│ しかし、それは戦いの混乱の中で起きたことであり、被告たちが命令したことで │
│はありません。戦争犯罪は、日本だけが犯したあやまちではなく、連合国もその罪 │
│から逃れられないのです。東京大空襲や原子爆弾ほどむごたらしい犯罪があるでし │
│ょうか? │
│ さらに、ソビエトは戦争が終わった今も日本人捕虜をシベリアで虐待し、多くの │
│日本人が死んでいます。 │
└──────────────────────────────────────┘
※なお、この資料は2年半話し合われた内容をごくかんたんに要約したものです。また、この資料には裁判で最も大切な「証拠」が書かれていません。本当らしく見えてもそれが真実かどうかはこれだけでは本当のことはわかりません。大人になったらぜひ自分で調べてみて下さい。


◇2つの意見を聞いた感想を書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちの主な感想を紹介する。
「アメリカの主張のすべてではないけれど、これは間違っている。日本に戦争させるように縛って、空襲したのはアメリカだ。そっちこそ日本の一般市民を殺したじゃないか。人のことは言えないはずだ」
「もし東京大空襲や原爆が許されるなら、日本の罪なんて軽いものじゃないかと言いたい。もし日本の罪が許されないならアメリカも裁判するべきだ。そんな、日本にすべての責任があるなんて考えられない。今だって日本に責任をかぶせようとしているだけかもしれない」
「全責任が日本にあるなんておかしい。私は日本人だからかもしれないけど弁護側の意見が正しいと思う」
「アメリカはずっと日本を攻めてきたし、全部日本が悪いとは限らない。アメリカだって責任がある。アメリカの大統領だって原子爆弾投下を命令したのだから裁判にかけるべきだ」
「アメリカはわざと貿易をやめて、日本を植民地にしようとしたのでは?そして戦争して裁判したのではないか?これはまるで作戦のような感じがする」
「検察側の意見はほとんどでたらめというか、本当は悪くないのに日本を悪者に見せための言い訳みたいだ。アメリカに殆ど責任があり、日本はそんなに悪くない」
「連合国軍の主張は違うと思う。日本は東南アジアの人々を虐待なんかしていない。それに日本が攻撃していたのは軍事基地だけだし、連合国軍は原爆や東京大空襲などの国際法違反に間違いない。一般市民を殺しておいて日本に責任を取らせるのは違うと思う」

<ワークシート・第4ページ>
★東京裁判の判決

 ここでもう一度、東京裁判に関わった人たちのことをはっきりさせておきましょう。
  
*被告 ・・・もと総理大臣の東条英機ら当時の日本のリーダーたち28人
*検察官・・・連合国の11か国代表
 アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ソ連・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・中国・インド(イギリスの植民地)・フィリピン(アメリカの植民地)
*弁護人・・・清瀬一郎

では、裁判官は?
 じつは検察官と同じ連合国・11か国の裁判官でした。
 下された判決は、被告25人は全員有罪(3人は裁判中に死亡)です。東条英機ら7人は死刑、16人が無期禁固、残る2人は禁固20年と禁固7年でした。

 しかし、11人の裁判官の中でただ一人だけ「日本は無罪だ」と判決した人がいるのです。インド代表の裁判官・パールさんです。パールさんは次のように言っています。

パール判事


「被告25名は全員無罪である。この戦争の原因は戦った両方に政治の失敗があったのだから、日本だけが悪かったと決めつけるのはまちがいである。検察側が言う「日本の戦争犯罪」も事実かどうか証明できないものが多い。たしかに日本も戦争犯罪を犯したと言えるが、それはここにいる被告たちが命令してやらせたことではない。むしろ、原子爆弾を落とせと命令したアメリカ大統領こそ裁かれるべきであろう。この東京裁判は裁判に名を借りた復讐にすぎない。日本は戦争に負けたことですでに十分に裁かれている。にもかかわらず、戦争に勝った国が負けた国にこのような復讐を行うことは、世界の平和にとってかえって害が大きいと言えるだろう。やがて、長い時間がたって世界の人々が公平な見方で歴史を見ることができるようになったときに、この裁判が正しい歴史の見方ではなかったことが理解されるようになるであろう」


 学習後の感想を紹介する。
*私は今日の勉強をして、昔の裁判は異常でびっくりしました。まさかの裁判官が連合国の人って知って、公平じゃないと思いました。そして11人の中でパールさんが他の裁判官の意見と違っていてほっとしました。一人でもそういう人がいてよかったです。
*パールさんは、今の私たちの気持ちと同じような考えを持っていたんだなと思います。パールさんの意見が通っていれば、勇気がもらえて国民の苦しみはなくなったのではないかと思います。
*インドはイギリスの植民地で、イギリスと同じような判決を出さなければイギリスに殺されたり、虐待されてもおかしくないのに、無罪を主張してくれたのはとても勇気があると思いました。
*この東京裁判はおかしい。裁判官が全員連合国の人たちというこの不平等な裁判はおそらくはじめから全員有罪のつもりでやっていたと思う。
*パールさんはよく「無罪だ」と言ってくれたと思います。昭和天皇と同じで、自分の身を犠牲にしてでも「日本は無罪だ」と言ったことに本当に驚いた。
*パールさんは日本を助けてくれたように聞こえるけど真実を言っただけだ。パールさんは未来を予言した。すごい。

2016.01.23(Sat) | 昭和(戦後) | cm(0) |

昭和天皇

 戦後学習の2時間目は昭和天皇を取り上げる。
 メインで扱うのはマッカーサーと昭和天皇の会見である。

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は戦争が終わった直後の東京のようすです。気づいたことを書きだ してみましょう。


焼け跡1
焼け跡2

子どもたちの気づきは以下のようなものでる。
「家の屋根が今にも崩れそう」
「空襲で焼けて何もなくなってしまっている」
「電柱しか残っていない」
「がれきで被われている」
「とても貧しそう」
「兵隊さんの服装の人がいる」

がれきの中から使えそうなものを探してきて作った家を「バラック小屋」と呼ぶことを教えた。終戦直後は住む家もない、着るものものもない、食べるものもままならないという貧困状態にあってことを教える。

<ワークシート・第2ページ>
★昭和天皇と終戦

昭和天皇

①昭和天皇のお人がら
 天皇として即位したのちの、1931年11月のことです。天皇は、九州の鹿児島から軍艦に乗って東京に戻るとき、夜になって暗くなっている海に向かって一人、敬礼をしていました。お付きの者が見つけ不思議に思って海の向こうを見ると遠く暗い薩摩半島の海岸に住民たちがつけた火の列が見えました。それは天皇の軍艦を見送るためにつけたものでした。天皇はそれに向けて敬礼していたのです。

②昭和天皇のその時代
昭和天皇が即位された時期、日本は大きな危機を迎えていました。天皇は各国との友好と親善を心から願っていましたが、時代はそれとは違う方向へと向かっていました。天皇はたとえそれが自分の考えと違っていても政府が決定したことは認める、という立憲君主制のきまりを固く守っていました。
しかし、昭和天皇がご自身の考えを強く表明したことが2回だけありました。そのうちの1回が終戦を決めたときのことです。
 会議の席で「天皇を守り、本土決戦で最後まで戦いたい」と主張した者に対して昭和天皇は静かに言われました。
「気持ちはよくわかる。しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたくしは国民の生命を助けたいと思う」
 戦争で負ければ、昭和天皇は責任を追及されて死刑になる可能性もあったのです。しかし、昭和天皇のこの決断で日本は降伏を決めました。

③日本の降伏
 1945年8月15日に日本は連合軍のポツダム宣言を受け入れて降伏しました。 終戦直後の日本は空襲で焼け野原になり、住む家もありませんし、食べるのもままなりません。寄せ集めの材料で作ったバラック小屋で寝泊まりし、やっと雨つゆをしのいでいました。天皇が住まわれている皇居も例外ではなく空襲で一部が破壊されていました。皇居でさえこんな状態でしたから国民の生活の貧困ぶりはひどいものでした。

④マッカーサーの来日
こうした中、8月30日。アメリカのマッカーサーが日本にやってきました。 
 日本を占領する連合国の代表です。マッカーサーはさっそく日本の軍隊を武装解除し、日本の統治を宣言しました。これから日本はもう自分のことは自分で決められません。すべて占領軍の言われた通りにしなればならないのです。 
 日本が他の国に占領されたのはあとにも先にもこのときが初めてです。こうした占領期間は7年間も続きました。


マッカーサー

<ワークシート・第3ページ>
★マッカーサーと会見した昭和天皇はどんな話をしただろうか?

連合軍は日本人から戦争犯罪人を決めて裁判をしようと考えていました。
 戦争の罪をすべて負けた日本に押しつけ、自分たちは正義のために戦ったのだと宣伝しようと考えたのです。こうして戦争中の日本の首相や軍人を28人も逮捕して東京裁判を開くことを決めました。                
 さて、このころ連合国ではこんな話が持ち上がっていました。
「われわれと戦争を始めた国のうち、ドイツはヒトラーが、イタリアではムッソリーニが独裁者になって戦争を起こした。日本ではきっと国の代表である昭和天皇が独裁者のようにふるまって戦争を起こしたにちがいない。日本の昭和天皇を裁判にかけて絞首刑にする必要がある。」
 この「天皇を死刑にしろ!」という声は日増しに高まっていきました。

 こうした中、昭和天皇は自分から出かけてマッカーサーに会うことを決めました。昭和天皇はマッカーサーに会ってどんな話をしたのでしょうか?
 昭和天皇になって、あなたの予想を書いてみましょう。


 子どもたちから出てきた主な意見を見てみる。
「自分はどうなってもいいから28人を解放してくれ。その28人に罪はない」
「私はこの国の天皇です。すべての責任はわたしにあります。私はどうなっても構いませんが、国民には罪はありません。国民は助けて下さい」
「確かに、こうなる前に戦争をやめなかったのは私の責任だ。しかし、私は独裁者ではない。罪は受けるが死刑になるつもりはない」
「死刑になる覚悟はできている。責任は取るが戦争に耐えてきた国民は自由にして欲しい」
「昭和天皇は国民を愛する人だから自分はどうなってもいいから国民だけは攻撃や苦労をさせないでほしい、と言った。最後まで国民を守ったと思う」
「マッカーサーに自分は無実であることを伝えに行った。それでも受け入れられなければ話し合いをする必要があると言ったのではないか」
「マッカーサーに、私には何をしてもいいが、民には何もしないでくれと頼んだ」
「自分を殺す代わりに、この国から出ていってくれ」

<ワークシート・第4ページ>
★昭和天皇とマッカーサー

 昭和天皇はマッカーサーに会うと次のように話したと言われています。

「私はこの日本を代表する者としてあなたに会いに来た。今度の戦争についての責任はすべて私にある。私は死刑になってもかまわない。ほかの者たちに責任はないのでゆるしてほしい。そして、どうか国民が生活に困らぬように連合国から援助をお願いしたい。」

マッカーサーは昭和天皇のこの言葉を聞いて驚き、そして感動しました。
なぜなら、「死刑にすべし」の声まで出ている今、きっと「命を助けてほしい」と自分に頼みに来るにちがいない、と思っていたからです。ふつうはどの国でも戦争に負ければその国の代表者は「命を助けてほしい」と命乞いをしたり、国民を放り出してあわてて他の国へ逃げ出したりすることが多いものなのです。ですから、マッカーサーは昭和天皇もそうするにちがいないと思っていました。
ところが昭和天皇は「自分のことはどうなってもいい。国民を助けてほしい」と言うのです。これを聞いて、マッカーサーは「なんとりっぱな人物なのだろう」とその天皇の勇気ある言葉に感動したと言っています。
 さらに、昭和天皇は大きな風呂敷包を取りだして、こう言いました。

「わずかばかりだがここに皇室の財産の一部を持参した。国民の援助のために使ってほしい。」

マッカーサーはこれを見ると突然立ち上がり、昭和天皇の前に進み出て手を握り、「私はあなたのような人を初めて見た。」と述べたと言われています。
 その後、マッカーサーは「このようなりっぱな人を死刑になどするわけにはいかない」と考えました。また、死刑にすべしと言う人たちには「もし昭和天皇を殺したりすれば天皇を慕う日本人は黙ってはいない。ゲリラ戦がはじまり、少なくともあと100万人のアメリカ兵が死ぬことになるかもしれない」と警告しました。
 こうして昭和天皇を「裁判にかけろ」という声はなくなっていきました。

 5ヶ月後の昭和21年(1946年)2月。
 昭和天皇は苦しんでいる国民を少しでも励ましたいと考えて全国をまわることを決めました。このご巡幸は2月の川崎・横浜・三浦半島・東京都内、3月に群馬・埼玉、6月千葉、10月に愛知・岐阜、11月に茨城と続きました。ご巡幸の旅は昭和26年の秋まで続けられ日本のほとんどをまわりました。


天皇ご巡幸

 授業後の感想文を紹介する。
*歴代の天皇たちは、とても勇気のある人たちが多いと思った。連合国軍に国民を心配していることを伝えて、天皇の財産まで渡して、そこまで国民を大事にしてくれる人物だったとは驚いた。
*昭和天皇は自分ではなく国民を第一に考える天皇としての責任感の強い方だということがわかりました。全国をまわり、国民を励まそうとした優しさのある方でもあることもわかりました。
*昭和天皇は優しすぎる。もう神みたいな存在。そんな人を「死刑にしろ」なんて言う人はこの事実を知ったらひざまづいて謝ると思う。
*昭和天皇がどれだけ国民を愛しているかわかりました。「自分の命はどうなってもいい、国民を助けてあげて」という言葉を聞いて、この人はすごいと思いました。
*私は最初は「「さすがに最初から自分はどうなってもいい、なんて言うのは人がよすぎるだろう」と思っていたのですが、昭和天皇はすごいですね。いい人です。だから昭和は60何年も長く続いたんですね。そして、マッカーサーも感動して死刑をやめたっていうなら本当はいい人なんじゃないかと思います。
*昭和天皇ってすげー!
*昭和天皇はとても勇気があって立派な人ということがわかった。このような人がいなければ今の日本の平和はないかもしれなかったと思いました。天皇がご巡幸をしてとても優しい人だということがよくわかった。
*私は今日の勉強をして昭和天皇はとても器が大きいと思いました。自分の命まで捨てて国民を助けてほしいと言いに行ったと知ってびっくりしました。そして、全国を回ることが今の日本にも受け継がれていると知ってうれしかったです。
*今日の学習では昭和天皇の人柄や国民をどれだけ愛しているかなど、いろいろなことがわかり楽しかったです。昭和天皇はとても勇気があり、とても国民のことが好きだったことがわかりました。漫画みたいな話が本当にあって事だと思うととても誇りに思います。

2016.01.23(Sat) | 昭和(戦後) | cm(0) |

アジアの独立

 戦後の学習はアジアの独立から始める。
 東南アジア諸国の独立と日本の関係を調べ、どのような関係があったのかを考えさせる学習である。

<ワークシート・第1ページ>
★下の地図と表を見て気づいたことを書き出しましょう。


東南アジア地図
①インドネシア 1945年8月17日(オランダより独立)
②ベトナム 1945年9月 2日(フランスより独立)
③フィリピン   1946年7月 4日(アメリカより独立)
④インド     1947年8月15日(イギリスより独立)
⑤ミャンマー 1948年1月 4日(イギリスより独立)
⑥ラオス     1949年7月19日(フランスより独立)
⑦カンボジア   1953年11月9日(フランスより独立)
⑧マレーシア 1957年8月31日(イギリスより独立)
⑨バングラデシュ 1971年3月28日
   (パキスタンより独立・パキスタン1947年8月14日イギリスより独立)
⑩東ティモール  1975年11月28日(ポルトガルより独立)
⑪ブルネイ    1984年1月1日(イギリスより独立)


子どもたちからは以下のような気づきが出された。
「イギリスからの独立が多い」
「1945年から1950年の間に独立している国が多い」
「みんなヨーロッパの国から独立している」
「西洋の国がアジアの国を植民地にしている」

<ワークシート・第2ページ>
★アジアの独立と日本
 
 前のページを見てわかるようにアジアの国々のほとんどは1945年~1950年までに独立しています。それぞれの国の独立はその国の人たちの勇気と努力によってなされたものですが、じつは日本も深くかかわっています。
 1945年は日本が終戦を迎えた年です。つまり、日本とアメリカなど連合国軍との戦争が終わると、そこからわずか5年の間にアジアの国々は次々と西洋からの独立を果たすことができました。なぜならば、アジア諸国の独立を支援する日本人が独立をめざすアジアのリーダーを援助し、さらに日本がそれぞれの国を支配していたイギリス・フランス・オランダなどの西洋の国々と戦い、一時的にではありますがアジアから追い出したからです。
 そのようすをいくつかの国を例に見てみましょう。

◇ベトナム
ベトナム独立のリーダーであるクオン・デ王子やファン・ボイ・チャウはフランスから命をねらわれて日本へ亡命しています。多くの日本人がこの2人をはじめとして独立をめざすために秘密のうちに留学してきたベトナムの若者を助けていました。また、独立のきっかけとなる作戦を実施して8万人のフランス軍を武装解除したのは日本軍でした。

◇フィリピン
フィリピンはもとはスペインの植民地でしたが後にアメリカの植民地となりました。このアメリカとの独立戦争を戦うリーダーの一人であるリカルテ将軍も身の危険から日本に亡命し、日本人の助けを借りて横浜に住んでいたことがあります。日本はアメリカとの戦争が始まるとリカルテ将軍らと協力しながら戦いました。1943年10月14日には日本の援助でフィリピンはすでに一度独立しています。

◇ビルマ(のちに国名をミャンマーに変更)
 ビルマにも独立をめざす若者がたくさん現れました。その一人であるオン・サンも日本に亡命しました。その後、オン・サンは日本人の協力で独立義勇軍を作り、日本軍とともにイギリス軍と戦いました。ビルマも1943年8月1日に一度、独立を果たしています。

◇インド
 古くはインドの独立をめざすビハリ・ボースが日本に亡命し、日本人の助けを借りながら独立運動を進めていました。その後のインド独立の立役者の一人がチャンドラ・ボースです。チャンドラ・ボースはイギリス軍として戦争に参加させられていたインド人を集め、逆にイギリスと戦うための「インド独立国民軍」を作り、日本軍と協力してインドを支配するイギリス軍と戦いました。のちにイギリス政府は自分たちに反逆した「インド独立国民軍」を裁判にかけましたが、これに怒ったインド国民の抗議行動が拡大し、ついにイギリスは200年間にわたるインド支配をあきらめました。


フィリピン
日の丸を振って日本軍を歓迎するマニラ市民

インド1
突撃するインド兵と日本兵

インド2
万歳するインド兵と日本兵

タイ
日本の兵隊さんにザボンを差し入れるタイ人の女性たち

ニューギニア1
パプアニューギニアで子どもたちの健康診断を行う日本軍

ニューギニア2
パプアニューギニアの子どもと相撲をして遊ぶ日本兵

<ワークシート・第3ページ>
★「武器を渡してほしい」とインドネシア人に言われたら・・・

 1941年12月8日に、日本はアメリカ領のハワイ・真珠湾とイギリス領のマレー半島を攻撃して大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。さらに、オランダ領のインドネシアにあるパレンバン精油所をパラシュート部隊で奪取してからわずか1週間でオランダ軍を降伏させました。
その後、日本はインドネシア語を公用語にしました。これでインドネシア人は国民としてまとまることの重要性に気づいたと言われています。また「ムルデカ(インドネシア語で独立)」を期待するインドネシア人のためにインドネシア人だけの軍隊である防衛義勇軍を編成しました。そして、戦い方や武器の使い方を教え、訓練のための先生役をしました(この防衛義勇軍が独立後のインドネシア軍の基礎となりました)。
1945年8月15日、日本はアメリカとの戦争に敗れて終戦となりました。戦争に負けたことで日本軍の兵隊たちは連合国軍の支配下に入り、武装解除された後、連合国軍からの命令があるまで自分たちで武器を管理していました。
この後、連合国軍からは、例えば次のような命令が出てくるとことが考えられます。

*独立をめざすインドネシア人とこの武器で戦え
*インドネシアを再び植民地にするために戻ってくるオランダ軍に武器を渡せ
*命令に従えば日本に帰ることを許すが、従わなければ処分する(なお、許可を得な いで武器を渡すことは日本軍の規則にも違反することになります)

こんなときにあなたのところにインドネシア防衛義勇軍のインドネシア人がやって来ました。

「私たちはインドネシア独立のために、オランダ軍と戦う決意です。しかし、私たちには戦うための武器と実際の戦闘経験がまったくありません。そこで2つのお願いです。
 ①日本軍の武器を譲ってください。
 ②私たちと一緒にオランダ軍と戦ってください。どう戦えばよいか作戦を教えてほしいのです」

さてあなたが日本の兵隊さんだったらどうしますか?

◇あなたの考えを書きましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 この課題はこれまでで最も子どもたちを悩ませた。子どもたちの迷いに区切りをつけて意見の後押ししてやるためにも選択肢を用意するべきだったかもしれない。
 多種多様な意見が出てきたので、正確な分類とは言えないがおおよそ以下のように意見は分布した。

①戦う・・・1組10人  2組 10人
②武器だけ渡して戦闘には参加しない・・・1組 2人  2組 8人
③作戦だけ教えて武器は渡さない・戦闘にも参加しない・・・1組 5人  2組 3人
④断る・・・1組 5人  2組7人
⑤その他・・・1組 3人  2組 2人

主な意見を見てみよう。
①戦う
「せっかくインドネシア人と仲良くなったのに戦うことになるぐらいならインドネシア人と一緒に戦う」
「インドネシアに武器を渡してオランダ軍と戦う。理由はずっと仲良くしてきたインドネシア人を殺すなんてあまりにもひどくてできない。アメリカ軍にばれてしまってもインドネシア人を助けたい」
「戦ってもし勝ったら、インドネシア人のためにもなるし、オランダを負かした日本!ということで世界に認められる」
「武器を渡すと違反になってしまうなら、わざと奪ってもらう。そして、自分たちを人質にしてもらって戦う」
「もちろんインドネシア軍といっしょにオランダと戦います。今まで仲良くしてきたのに裏切るなんてできない。同じアジアとして協力しようじゃないか!独立をめざして頑張っている時期は私たちにもありました。独立がんばろう!」
「インドネシアといっしょに戦う。命令に従う弱い日本だと思われたくない」

②武器だけ渡して戦闘には参加しない
「規則を破るのはまずいので日本のためにこらえる。武器だけ渡す」
「日本はもう戦争に負けたのだから一緒には戦えないはず。しかし、自分たちで管理しているのだから武器を渡すことはできる。負けた日本軍の規則はもうなくなったのと同じとかんがえていい」

③作戦だけ教えて武器は渡さない・戦闘にも参加しない
「自分たちが処分されてしまうから武器は渡せない。一緒に戦ったら日本が滅ぼされてしまうかもしれない。一緒に戦うのは無理だけど作戦を教えるだけならできるかもしれない」
「武器を渡した作戦を作るのを手伝う。これだけならアメリカにも嘘はつける」

④断る
「真逆のことを悩んでいるので、インドネシア人を説得してどちらも意見も実行できないことをわかってもらう」
「連合国軍の指示に従う。インドネシアを助けたいけど、今日本が連合国軍に逆らえば日本に影響が出てしまうかもしれないので危険だ」

⑤その他
「オランダ軍ともインドネシア軍とも戦わない。だから、日本軍の武器も譲らないし、オランダの敵にも味方にもならない」
「日本はオランダと戦いたくない。なんでも日本に助けを求めて欲しくない」


<ワークシート・第4ページ>
★小野盛(おのさかり)=ラフマット小野さんの場合

 当時、すべてではありませんが、武器をインドネシア人に譲った日本軍の部隊がたくさんありました。「これまでインドネシア独立の手伝いをしてきたのに、今さらオランダが有利になるようなことはできない」と考えた日本人がたくさんいたのです。
 小野さんも終戦後にインドネシアに残って、独立のためにインドネシア人と一緒に戦った一人です。武器を渡すだけでなく、小野さんのようにインドネシアに残って戦った元日本兵が約2000人いたと言われています。

 小野盛さんは1919(大正8)年に北海道・富良野の農家に生まれ、20才の時に軍隊に入隊しました。その後、南方方面を志願してインドネシアに出征し、現地の警備を務めました。危険な任務でしたがインドネシア人とのふれあいもあり、小野さんはインドネシア人に親近感を覚えていきました。小野さんはインドネシアに残った理由についてこう言っています。

小野さん1

「インドネシアは、これだけ日本に協力して、日本が独立させるということになっていました。でも、日本が独立させないで先に参っちゃつて・・・わしはしゃくにさわったんです。日本はインドネシア独立のためにやってきたんですから。日本軍の目の前でオランダ軍にインドネシアの国土がぼんぼん、ぼんぼん爆撃されて、どんどん、どんどんやられている。でも、インドネシアの青年は、もう本当に勇敢で、どんどんやられているにもかかわらず戦う。これはかわいそうだ。それで我々には義憤があります。日本が負けてインドネシアがこうなっている。それに対する義憤ですね。それで戦友と現地に行こうじゃないかと話し合った。我々としては、大東亜戦争というのは大東亜を解放するための戦争ですから。それならずして日本は負けちゃった。でもインドネシアが独立しようとしている。だから、日本ができなかったことを、我々は本当に小さな力だけれど、彼らに示そうではないか、というわけで我々は戦った。だから日本が果たせなかったことを成功させようとしたというと、ちょっと話は大げさになりますけど、まあ、簡単に言えばそういうことになります」

小野さんは「バンジャル・パトマンの戦い」という重要な戦いを指導してインドネシア独立に大きな力を与えました。独立戦争後、小野さんはラフマット小野と名乗り、日本には帰らずにインドネシア人の女性と結婚してインドネシア人として幸せな家庭を築いています。


小野さん
上:戦後の小野さん(独立戦争に参加している時に左手を失った)  下:独立戦争でのインドネシア軍

インドネシア独立戦争


 子どもたちの感想を紹介する。
*小野さんが大事な戦いを指導したからインドネシアに大きな力が伝わり、よかったと思う。左腕をなくしたぐらい必死に指導したことがよくわかります。日本人の多くがインドネシアに武器を渡してよかったと思った。
*人にはいろいろな感情があって、すべての人たちは助け合って生きているな、と思った。植民地を抜け出した国があってすごいなと思った。
*小野盛さんには今までがんばってきたのだから、もう少しがんばろうという意思があったのだと思いました。
*今日の問題は、とても悩んだけど、小野さんや当時の日本人もとても悩んだと思う。答えはいろいろだけどインドネシア人に武器を渡し、一緒に戦った兵士はインドネシアの人々ととても仲良しだったのだろう。
*私は今日の勉強をして、日本は優しいんだなと思いました。アジアの人に手助けをして、他の国にお金をかけてすごいと思いました。
*日本は負けても外国を援助していたから、すごく優しいなと思いました。
*日本はあきらめてない!って感じが伝わってきました。
*小野さんの言葉を読むと、インドネシアに大きな力をあげていたことがわかる。これはインドネシアへ日本からの最高のプレゼントだと思う。今もインドネシアに鉄道を輸出しているけど何か関係があるのかな?
*日本人は本当に思いやりのある人たちがほとんどですね。私は当時の日本人たちにとても感心しました。インドネシアも独立できてよかったです。
*小野さんは国籍や名前を変えてまでインドネシアのために戦って勇敢だと思います。そこまでして他国のためになかなかできることではないと思います。インドネシアなどの植民地の人たちも独立のために命までねらわれて行動してるのはすごいと思いました。
*今日の学習では、インドネシアの人と昔の日本人の勇気と思いやりにとても感動しました。日本人は連合国軍に何を言われてもインドネシアを助けたということはとてもすばらしい。
*日本の兵隊の優しさはがこの文章を読んでいるとわかります。
*すごく迷いました。私が当時の兵隊さんだったら、小野さんのように勇気ある行動は起こせなかったと思います。インドネシアは遠く感じていたけど学習を終えて親近感を覚えました。
*小野さんの勇気に感動しました。日本は裏切らない国だと思いました。
*日本がアジアのために戦ったというのにとても感動しました。日本は戦争で負けてしまいましたが、日本軍はとても勇敢でした。

2016.01.19(Tue) | 昭和(戦後) | cm(0) |

卑弥呼

 一般的には卑弥呼は宗教的なリーダーであり、世俗の政治リーダーは弟である男が担っていた・・・これが一般的な邪馬台国のイメージである。いわゆるヒメヒコ制である。
 しかし、近年この考え方に疑問が出されているようである。そこで<女王・卑弥呼はどんなリーダーだったのか>という古代リーダーの姿を考えさせるという課題を子どもたちに考えさせてみた(なお、この授業は戦後の学習に入る直前に「歴史のおさらい」として行っている)。

<ワークシート・第1ページ>
★下の絵は卑弥呼の想像図です。この絵を見て気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。


卑弥呼

 子どもたちからは以下のような気づきが出された。
「丸いものがたくさんある」「小銭?」「銅鏡ではないか?」
「卑弥呼は左手に棒のようなものを持っている」
「ネックレスをしている」「勾玉が付けられている」
「右に大きな鐘のようなものがある」「銅鐸ではないか?」
「二匹の龍が描かれている」
「左下にハンコがある」
「雰囲気が神様っぽい」
「信頼を受けているという感じ」

<ワークシート・第2ページ>
★倭国の女王・卑弥呼
 今から約1800年前の日本には卑弥呼という名の女王がいました。
当時の中国の古い歴史書である『三国志』の中の『魏志倭人伝』に卑弥呼のことが書かれています。

┌──────────────────────────────────────┐
│  倭人(古代の日本人のこと)は、帯方郡(朝鮮半島のあった中国王朝がおいた郡 │
│ のこと・今の韓国のソウルあたり)から南東の海の中にある島に住んでいる。昔は100│
│ あまりの国に分かれていたが、今は30ぐらいの国があって私たち魏の国に使いを送っ│
│ てきている。倭国(いまの日本のこと)、もともとは男が王で70~80年間ぐらい治めて│
│ いたが、国の中が乱れて戦争が起こった。しかし、このままではほろびてしまうと考えて│
│ 話し合いが行われ、一人の女を選んで王とした。この女王を卑弥呼と呼んだ。 │
│ 女王は宗教的な力で人々の心をつかんだ。年をとっても結婚せず、 弟が政治を │
│ 助けた。女王になってから、彼女に会った人は少ない。召使いの女は1000人いた。│
│ ただ一人の男が食事の世話をしたり、女王のことばを伝えるために女王の住まいに │
│ 出入りしていた。宮殿や見張り台、とりでなどがりっぱに作られていて、いつも警備の│
│ 者が武器を持って守っていた。 │
└──────────────────────────────────────┘

 当時の倭国は邪馬台国、奴国、句奴国、伊都国、投馬国・・・などいくつもの国が集まった連合国家であったと考えられています。140年~190年ぐらいの間、この倭国の中は内乱状態でした。しかし、男の王ではこの乱れた状態を安定させることができませんでした。そこで、超能力的なまじないや祈り、予言の力をもつ女である邪馬台国の卑弥呼を王にしたところ、国内がまとまったと伝えられています。

 女王・卑弥呼はこれまでの古くさいまじない・祈りから、光かがやく鏡の力を使った新しいまじない・祈りにリニューアルし、人々の心をつかんだと言われています。またそれぞれの小さな国のまとまりに「一大率」という役人や「大倭」や「都市」という名の市場を監督する者を置くことで倭国を安定させました。

238年に、卑弥呼は中国の魏という国へ使節を派遣しました。すると、魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」(「魏は卑弥呼さんを倭の王として認めます」という意味)の称号と金印を授けました。また宝物として五尺刀2本と銅鏡100枚をプレゼントしました。卑弥呼は、243年、245年、247年にも魏に使節を送っている記録が残っています。


魏と日本地図

銅鏡

五尺刀

<ワークシート・第3ページ>
★あなたも卑弥呼になって考えてみよう!

 245年ごろ、倭国に再び危機が訪れました。
 卑弥呼の住む邪馬台国とかねてから対立していた狗奴国との間で戦争が始まったのです。
 狗奴国のリーダーは男の卑弥弓呼(ヒミクコ)です。卑弥弓呼は卑弥呼の鏡による新しいまじないや予言を認めようとしませんでした。倭国がまとまろうとしたときには互いの共倒れを避けるためにしぶしぶ卑弥呼を認めましたが、心の中では「いつか倒してやる」と考えていたのかもしれません。
また、当時の倭国のリーダーたちはみんな鉄の原料を欲しがりました。鉄でできたクワやスキなどの農耕具は地面を深く掘ることができるので作物の収穫量も増えるし、新しい土地を田や畑に変えるのも簡単です。自分の国を豊かにすることができるのです。さらに、鉄はよろいや剣などの武器を作るためにも必要です。
 このように鉄の原料を大量に手に入れると他の国よりも強くなれます。ですから、卑弥弓呼はより多くの鉄を手に入れたいと考えて、倭国の政治を進めている卑弥呼たちの邪馬台国に反旗をひるがえした、と考えることもできます。

邪馬台国の中には2つの考えがあった・・・としましょう。あなたが卑弥呼ならどちらの考え方を選びますか?卑弥呼になって考えてみましょう。

◇Aさん:卑弥呼様も戦場へ来て戦って欲しい
この戦いは倭国の将来のためにも絶対に負けられません。倭国がひとつにまとまるためには狗奴国に勝たなければならないのです。しかし、相手も強いので苦戦しています。そこで卑弥呼様に戦場まで来てもらい、最前線で戦う兵士に勇気を与えて欲しいのです。卑弥呼様の祈りの力を戦場で見せて下さい。卑弥呼様が戦場で祈れば、それだけで味方の兵士は勢いづき、敵は恐れをなすでしょう。勝利が見えてきます。

◇Bさん:卑弥呼様は宮殿で祈っているべきだ
この戦いが重要な戦いであることは私もわかっています。しかし、卑弥呼様が戦場に来る必要があるのでしょうか?戦場は何が起こるかわかりません。どこから矢が飛んでくるかわかりませんし、敵のスパイが潜んでいることも・・・。卑弥呼様にもしものことがあれば邪馬台国はほろび、倭国のまとまりは消え去ってしまいます。危険をおかす必要はありません。卑弥呼様の祈りの力は宮殿の奥からでも戦場に伝わるはずです。


◇あなたの考えを書きましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 話し合いの前の意見分布は以下のようになった。

1組・・・Aさん 3人   Bさん 21人
2組・・・Aさん 3人   Bさん 25人

 圧倒的にB派が多くなっている。
 子どもたちの主な意見を見てみよう。
*A派
「卑弥呼自身も戦場で兵士を見ていてあげれば、兵士はもっと頑張ろうと思うかもしれない」
「敵の動きを見ながら予言して兵士に伝えれば確実に勝てる」
「直接、兵士に勇気を与えればよい。卑弥呼は顔を見せたことがないんだから敵のスパイは卑弥呼の顔はわからない」
「卑弥呼が戦場に来れば祈りの力で勝てると思ってみんな頑張れるし、今は苦戦しているんだから負けたら大変だから戦場で祈るべき。負けてしまったら戦場にいなくても関係なくなってしまう」

*B派
「卑弥呼様がもし戦場に来てやられてしまったら、祈りの力もなくなり、相手も調子に乗ってしまう。女王がやられたら狗奴国に自信を与えてしまう。宮殿で祈っているべき」
「卑弥呼が戦場に来れば確かに兵士たちは勇気をもらえるが、矢に当たって死んでしまったら兵士は戦う気をなくしてしまうから安全策を取るべきだ」
「卑弥呼になにかあったら倭国のまとまりがなくなってしまう」
「日頃から厳重な警備をしているということはそれだけ重要なんだから卑弥呼様に何かあったら国内の争いが起こってしまう。卑弥弓呼は卑弥呼のことが嫌いだからなにをしてくるかわからない」
「もし卑弥呼が集中的に攻撃されたら兵士は卑弥呼を守るだけになって勝てない」
「戦いに来ておまじないで勝ったとしても、卑弥呼が死んでしまったらまた内乱になってしまう」

<ワークシート・第4ページ>
★卑弥呼は戦ったか?

さて、卑弥呼はどうしたのでしょうか?
 この邪馬台国と狗奴国の戦いは『魏志倭人伝』によれば以下のように記録されています。

*245年 卑弥呼に魏の印である黄色の旗を与え、卑弥呼を支持することを表明した。*247年 再び黄色の旗を与え、さらに魏の皇帝が卑弥呼を激励するための詔書と木簡を与えた。

しかし、魏の使者が邪馬台国に到着したときに、すでに卑弥呼は死んでいました。なぜ死んだのかについては記録に残っていません。ですから、卑弥呼は戦場での戦いに参加したのか?宮殿で祈ったのか?は残念ながらわかりません。どちらの可能性もあると言えるでしょう。

じつは弥生時代から古墳時代前半まで、倭国には男のリーダーだけでなく、女のリーダーもたくさんいたことがわかっています。ですから、女王はまじないや祈り、予言だけしていたわけではなく男王と同じように実際の政治にも関わっていました。
 また、このころの兵士は一般的には男性ですが女性もいたことがわかっています。ですから、女王が戦場へ出かけ、指揮をとったことも十分に考えられます。

いま、奈良県にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか?という説があります。この墓は全長280mもある巨大なものです。言い伝えによれば、この墓は「昼は人間が作り、夜は神が作った」と言われています。

箸墓古墳


卑弥呼の死後、倭国は再び男を王にしました。しかし、人々はこれに従わず、再び内乱が起きてしまいました。そこで、卑弥呼の一族である13歳の女・台与(トヨ)を王にしたところ国内の乱れはおさまりました。


 最後に卑弥呼のリーダー像にはおおよそ3つの説があることを紹介した。
 ①宗教的なリーダーだった
 ②宗教と政治の2つのリーダーだった
 ③宗教と政治と軍事の3つのリーダーだった
 『しかし、まだ学者の中でも決着がついていません。これから新しい遺跡や史料が見つかればはっきりするかもしれません』

 子どもたちの感想を紹介する。
*卑弥呼は魏とすごく関係があって、魏の助けを結構借りてるなと思いました。卑弥呼の死後もその一族が治めていたことがわかりました。召使いの多さにも驚きました。
*卑弥呼は謎が多いんですね。この時代は男よりも女の方が頼りになったのかもしれません。
*卑弥呼は謎が多いけれど、昔の日本のリーダーはすごい力を持っていたということがわかった。
*卑弥呼がどんなリーダーかは謎だけど、これだけ有名ならすごいリーダーシップだったに違いない。

2016.01.17(Sun) | 古墳・飛鳥・奈良 | cm(0) |

原爆

 戦争の学習の最終回は広島・長崎への原爆投下を扱う。
 史上唯一の被爆国・国民として原爆の学習を避けることはできない。しかし、これまでの原爆学習の多くは、原爆の恐ろしさを伝えるという点のみが強調されてきたように感じている。
 この授業ではメインの学習として「原爆正当化の論理を読んでどう思うか?」という課題を与える。感情のみならず論理で広島・長崎への原爆投下を考える力を付けさせたい。

『今日は戦争の学習の最終回としてこれについて勉強します』
 次の画像を見せる。

原子雲

子どもたちはすぐに原爆とわかる。続けて以下の画像を見せる。

投下前
投下後

広島市が原爆投下後に壊滅したことが一瞬にして理解できる。

原爆ドーム

<ワークシート・第1ページ>
★下の4枚の写真はアメリカ軍が投下した原子爆弾による被害の写真です。被害のようすで気づいたことを書きだしましょう。


焼野原
破壊されたビル
曲がった建物
バルブの影

 子どもたちは最初の3枚については「壊れている」「がれきの山」「焼野原」「建物が何もない」「建物が曲がっている」などの言葉を使って原爆被害についての気づきを発表する。だが、最後の1枚についてはどこに被害があるのかよくわからない。バルブのようなものが写っているので水道・ガスなどのライフラインが止まったのではないかと予想する子もいるが・・・。
 そこで次のように聞いてみる。
『真ん中にバルブがあるね。その右隣にも同じような形が写っているでしょ。これなんだかわかりますか?』
「???」
「影かな」
『そうです。じつはこのバルブの影は原爆から出た強い光と熱線で壁に焼き付いてしまったんです』
 子どもたちは意外なことに驚く。これだけで原爆の尋常ではない威力に恐ろしさを感じることができる。

<ワークシート・第2ページ>
★8月6日・広島 
 1945(昭和20)年8月6日、広島の朝は快晴で、気温はぐんぐん上昇しました。いつもと変わらぬ朝の午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂したのです。
 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が放射されるとともに、空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが作用して大きな被害をもたらしました。原爆による被害の特質は、大量破壊・大量殺りくが無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

①熱線による被害
 爆発と同時に放出された熱線は地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達しました(鉄の溶ける温度は1536度です)。強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。

②高熱火災による被害
放射された高温の熱線により市内中心部の家が自然発火し、一日中、燃え続けました。半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼失し、すべてのものが異常な高熱火災により溶けて、まるで溶岩のようにあたりを埋め尽くしました。建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人も数知れません。

③爆風による被害
 爆発の瞬間、強烈な爆風が吹き抜けました。爆風により木造家屋はほとんどが倒壊し、人々は吹き飛ばされ、即死した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。

④放射能による被害
 原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では発生しない大量の放射線が放出され、それによって人体に深刻な障害が及ぼされたことです。放射線は、人体の奥深くまで入り込み、細胞を壊し、血液を変化させ、骨髄などの血を作る機能を破壊し、内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。
さらに原爆は、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に広島に入った人たちの中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡する人もいました。
 被爆直後から症状を急性障害といい、吐き気や食欲不振、下痢、頭痛、脱毛、倦怠感、吐血、皮膚の出血斑点、発熱、口内炎、白血球・赤血球の減少などのさまざまな症状を示し、多くの人が死亡していきました。
 しかし、放射線の影響はこれで終わるものではありませんでした。
 原子爆弾による放射線は、長期にわたってさまざまな障害を引き起こし、被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。1年後には、火傷が治ったあとが盛り上がる、いわゆるケロイド症状が現れました。さらに5、6年が経過したころから白血病患者が増加し、10年後にはガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めました。
 放射線が年月を経て引き起こす影響については、未だ十分に解明されておらず、調査や研究が現在も続けられています。

★8月9日・長崎
広島の投下から3日後、今度は長崎に原爆が投下されました。このときのことを『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』には次のように書かれています。
『原子爆弾が炸裂にするとまず強烈な一大閃光が走りました。それは強烈な「マグネシウム」を焚いたのと同じような感じで、あたり一面が白茶けてぼんやりかんすんでしまいました。。そして爆発の中心部ではそれと同時に、多少の距離のあるところではそれよりも後に、猛烈な音とともに強烈な爆風と熱気とが襲ってきたのです』


<ワークシート・第3ページ>
★原爆は「正当化」していいのだろうか?
               ~現代に生きる日本人として考えよう

一瞬で大量破壊・大量殺戮を可能にする原子爆弾はたいへん恐ろしい兵器であることは、今では世界中の人々が知っています。
 しかし、中にはアメリカによる日本への原子爆弾の使用を「正当化」する考え方もなくなったわけではありません。

ここで、アメリカの日本への原子爆弾使用を「正当化」する意見を読んでみましょう。そして、現代に生きる日本人としてみなさんはこの意見をどう考えるか?自分の意見を書いてみましょう。

□「正当化」の理由① 日本がアメリカの真珠湾を先に攻撃したからだ
日本はアメリカ軍の基地があるハワイの真珠湾を先制攻撃してきた。これはだまし討ちだ。だから、その罰を日本人が受けるのは当たり前だ。日本の奇襲攻撃で始まった戦争を一日でも早く終わらせるためには原爆は必要だったのだ。

□「正当化」の理由② 100万人のアメリカ軍兵士を助けるためだ
アメリカは日本本土への上陸作戦を考えていたが、もし上陸して地上での戦いが始まれば、硫黄島のような長期戦に持ち込まれて100万人のアメリカ軍兵士の命が失われただろう。それを避けるためには原爆を使うことが必要だったのだ。

◆あなたの考えを書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちからは以下のような意見が出された。
「アメリカの言うこともわからなくはないけれど、無理矢理作ったみたい。100万人のアメリカ軍兵士が死ぬのと同じ価値がある日本の民間人は殺していいと言うのか?と言いたくなる。すごく不条理だ。それに日本が奇襲攻撃したのは軍の基地で民間人に対してはやっていない」
「アメリカ軍の兵士もたくさん亡くなっているけど、日本軍の兵士もたくさん亡くなっているんだから、これは理由にならない」
「原爆は使用する必要ななかったと思う。多くの人の命を奪うし、生き残った人もつらい思いをする。一日でも早く戦争を終わらせるという考えはいいが、1回でたくさんの人の命をうばってしまう原爆は使用しなくてもいいはずだ」
「兵士を守るために民間人を殺すのはダメだと思う」
「どんな理由があってもこんなむごくひどいやり方はいけないと思う」
「①については日本が真珠湾の先制攻撃したときは軍艦などに攻撃していて戦争の法律に合っていたから日本人がその罰を受ける必要なはい。②についてはアメリカ軍兵士を助ける理由で何も悪くない一般人に原爆を落とすのはいけないと思う」
「兵隊たちが戦うだけでなく、一般住民にも大きな被害をもたらしているので、戦争のルールに当てはまっていません。100万人のアメリカ軍兵士を助けるためと言っていますが、日本軍兵士を助けるためと言って原爆を落としても許されることではないはずです」

<ワークシート・第4ページ>
★「原爆は使用するべきではなかった」
①国際法違反・非人道的だ
 日本政府は広島・長崎に原爆が投下された直後の8月10日にスイス政府を通じてアメリカ政府に抗議文を発表しています。

アメリカ政府は、世界大戦が始まってから繰り返し「毒ガスなどの非人道的な兵器の使用は国際法違反だ」と言っていました。また「相手国がこれを使わない限り、アメリカは使わない」という声明を出していたはずです。しかし、アメリカが今回使用した爆弾は、使用禁止になっている毒ガスなどとは比べものにならなほど、無差別かつ残虐なのものです。アメリカは国際法や人道的な考えを無視して、すでに日本の広い範囲を無差別爆撃しています。この爆撃で兵士ではない老人・幼児・女性までも殺傷し、工場でもない神社・お寺・学校・病院・一般の民家などを倒壊・焼失させています。しかも、これまでの兵器とは比較にならないほど無差別かつ残虐なこの原子爆弾を使用するのは人類全体・文化全体に対する新たな罪悪です。
②軍事基地とふつうの町はちがう
 日米関係の研究者である日高義樹さんは次のような考えを発表しています。
 
 真珠湾攻撃は軍事基地に限定された攻撃だった。当時、太平洋の最前線だった真珠湾基地はもしかしたら起こるかもしれない戦闘に備えているべきところだ。しかし、広島や長崎は戦闘地域とはまるちがう無防備な一般市民が住んでいるところである。この2つを同じものとして考えることなどできるわけがない。

③原爆を使わなくても戦争は終わっていた
 エドワード・テラー博士は原爆を開発した一人ですが、日本への原爆投下には反対していました。

いまにも倒れそうな敵(日本)を葬るのに、ものすごい兵器を使う必要はないと思った。日本に原爆を使う必要はまったくなかった。

2016.01.17(Sun) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

硫黄島の戦い

 今回の授業は「硫黄島の戦い」というタイトルだが、栗林忠道中将の人物学習でもある。
 前回説明したように「千人針」「東京大空襲」とこの「硫黄島の戦い」は3つでワンセットである。つまり、銃後と戦場の思いはつながっている。そして空襲で苦しむ国民を助けるために栗林中将と日本軍は命を賭けて戦うのである。この姿にリスペクトさせるのが本当の歴史教育だろう。

『前回までは戦時下の国民生活を学習してきました。つまり、戦争中の国内のようすを勉強しましたね。今回は戦場で兵隊さんがどんな戦いをしていたのか?を学習しましょう』

 ここで一枚の画像を見せる。

硫黄島全景

『これは硫黄島と言う小さな島です。しかし、ここが日本軍とアメリカ軍の戦場となりました』

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は硫黄島です。この小さな島が戦場になりました。この島が日本にとってもアメリカにとっても重要な場所だったからです。なぜ重要な場所だったのでしょう?もう一枚の写真と地図をもとにあなたの予想を書いてみてください。


硫黄島地図

整備中のB29

「島が平らだから戦闘機などが着陸しやすいから」
「硫黄島で資源が取れたのかもしれない」
「この島を取れるかどうかで戦争の勝敗がはっきりするから」
「ここが日本とアメリカの境?」
「ここを取られると日本はアメリカから攻められやすくなる」
「地図を見ると日本に近いので攻められやすくなる」
「写真はB29だと思う。だから、アメリカは硫黄島を基地にすると日本を攻撃するときに燃料とかが少なくてすむのではないか?」

<ワークシート・第2ページ>
★硫黄島が戦場になった理由
 アメリカ側から見ると硫黄島は日本本土を攻撃するためになくてはならない重要な島なのです。なぜなら、
①B29の基地であるサイパン・テニアン・グアムと日本本土を結ぶ線のちょうど  中間にある。
②硫黄島の日本軍基地から飛び立つ戦闘機によりサイパン基地は攻撃を受けかなり損 害があった。
③これを避けるために回り道をして燃料を余分に使い、しかも爆弾の量を減らさなけ ればならなかった。
④本土爆撃を硫黄島の日本軍にキャッチされ、警報を出されてしまう。
⑤戦闘機の護衛をつけるための基地にしたい(サイパンでは遠すぎる)。
⑥日本軍にやられたときに不時着できる場所が欲しい。
 日本から見れば、硫黄島は小さいけれど日本本土を守るための重要な島だということになります。この硫黄島をアメリカ軍に取られれば日本本土はさらに空襲の恐怖にさらされることになってしまいます。大勢の日本人が空襲で死ぬことになるでしょう。 なんとしてもここを守り抜いて本土にいる家族・友人・恋人を空襲から守らなければなりません。

★硫黄島を守る栗林忠道中将
 この硫黄島の日本軍守備隊のリーダーになったのが栗林忠道中将です。栗林中将とはどんな人だったのでしょうか? 

栗林中将

①部下である兵士を大事にした
 栗林中将は硫黄島に来ると部下と同じ食事をしました。リーダーであっても普通の兵士と同じ食事をして部下の栄養状態に気を配っていたのです。1日にアルミのコップ一杯の水で洗面・手洗いするのも兵士と同じでした。また、たまに新鮮な野菜や水が届けられると部下を呼んで分け合ったといいます。部下と苦労をともにする人だったのです。  

②命をそまつにすることを嫌い最後まで戦おうとした
 当時の日本軍は敗色が濃厚になると「いさぎよく死のう」と考えて刀を抜いて敵に向かって突撃することが多かったのですが、栗林中将はこれを許しませんでした。日頃から「最後の一人になっても相手を悩ませろ」と兵士に言って聞かせていました。                           
③アメリカに留学したことがある
 栗林中将はアメリカに約2年間、軍事研究のために留学したことがあります。ですから、アメリカの事情にもとてもくわしくなっていました。車を買ってドライブをしたり、アメリカ人の友だちもたくさんいました。                                           
④家族思いのお父さんだった
栗林中将は、このアメリカ留学中にまだ字が読めない自分の子どもにたくさんの絵手紙を出しています。また、硫黄島からも空襲にさらされている東京の家族宛になんと41通も手紙を出しています。どの手紙も奥さんや子どもの健康を心配するなど、家族思いであることがわかる内容のものばかりです。



<ワークシート・第3ページ>
★なぜモグラ作戦で戦ったのか?-栗林中将になって考えてみよう                                   
 栗林中将は、この硫黄島を守るためにモグラ作戦をとることにしました。
 島中に地下トンネルを掘り、洞窟や山を結び地下に要塞を作ったのです。そして、アメリカ軍をあえて上陸させてしまい、島全体をつないだ地下トンネルから、できるだけ敵に発見されないように攻撃します。見つかったらすぐに地下トンネルで移動して相手の目をくらますのです。やられた場合は後方に下がり立て直します。
 こうした地下要塞を使ってできるだけ長くアメリカ軍を硫黄島に釘付けにし、長期戦に持ち込む作戦をとりました。
 なぜ、栗林中将はこのようなモグラ作戦で戦うことを選んだのでしょう?栗林中将になって考えてみましょう。    

<硫黄島の特徴>
 硫黄島は東京から1250㎞離れた火山島です。
 その名の通り硫黄ガスが吹き出し、地熱のため地中は高温で40~60度もあります。地形は、高さ169mの摺鉢山があるだけで、全体は平坦になっています。この島を守る兵士にとって何よりも困るのは水がないことです。島には池も川もありません。井戸を掘っても硫黄分多く塩辛い水しか出てきません。そこで、飲料水は雨水にたよるしかありませんが、雨はめったに降りません。

<硫黄島守備隊の日本軍と硫黄島攻撃のアメリカ軍の戦力比較>
            兵力       大砲(陸)    艦砲(海)     航空力(空)
日本軍     2万1152名    23門        なし       75機
アメリカ軍   6万1000名    168門     14250トン   4000機以上


◇あなたの考えを書きましょう。あとでみんなで話し合ってみましょう。


 子どもたちから以下のような意見が出された。
「地上に出たら力の強いアメリカ軍にあっという間にやられてしまう。だから、わざと相手を島に上陸させて、相手が休んでいるときに攻撃しようとした」
「地熱で暑いので体力を温存しようとした。上から爆撃されてもめったにやられることはない」
「栗林中将は命を粗末にしないから長くそしてあまり見つからないように行動して、戦おうとした」
「アメリカ軍は日本軍がいないと思っていて準備していないのでそこを攻撃できる」
「釘付けにすることが大事で、家族への空襲をやめさせたいという気持ちが大きい」
「人数が少ない日本にとっては、モグラ作戦をとればそれが不利ではなくなる」
「この力の差では正面から戦っても絶対に勝てない。地中は探索されにくい」
「少しずつ自分たちの縄張りでじりじりと攻めていける」
「戦力比較を見てのとおり、正面からぶつかればすぐにこてんぱんにやられてしまうので、隠れながら裏を突くしかばかった」

<ワークシート・第4ページ>
★激闘の末、全滅した硫黄島の日本守備隊

 この栗林中将の作戦によって「こんな小さな島は5日で占領できる」と考えていたアメリカ軍のもくろみはもろくも崩れ、なんと36日間も戦闘は続きました。最後は硫黄島の日本軍は全滅してしまいましたが、死傷者の数は負けた日本軍よりも勝ったアメリカ軍の方が多くなってしまったほどなのです。

硫黄島での戦いのようすを写真で見てみましょう。


 最後まで戦い抜いた栗林中将はこの戦闘で死ぬ間際に短歌を作っています。
┌──────────────────────────────────────┐
│  国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき │
└──────────────────────────────────────┘
     *「果たし得で」・・・やるべきことができなかった
      「矢弾尽き果て」・・・武器もなくなってしまった
      「散る」・・・負ける、死ぬ

 この短歌の最後にある「悲しき」には栗林中将のどんな気持ちがこめられているのでしょうか?
 栗林中将は日本のためにあえて長く苦しい戦いを選びました。そもそも、これだけの物量差があるアメリカ軍に勝とうというのはあまりのも難しいことなのです。だからこそ、少しでも生き延びてアメリカ軍を硫黄島に釘付けにして日本本土を守ろうとしたのです。
 栗林中将は国を守るという自分の務めを果たせなかったと言っています。「悲しき」というのはその無念の意味かもしれません。また、多くの部下を亡くしたり、大切な家族にももう会えないという気持ちもそこに込められているかもしれません。
 しかし、この戦いは日本にとって無駄ではありませんでした。この戦いでアメリカ軍は「日本軍は強い。これ以上戦いたくない。なんとかこの戦争を早く終わらせたい」と思わせた、と言われています。


 最後に子どもたちの感想を紹介する。
*日本はもともと小さいですから、アメリカに勝つのは難しいのに日本本土を最後まで守ろうとした栗林中将はカッコイイですね。日本軍は強いと思わせたのはよかったです。
*栗林中将は、日本のために尽くせなかったと言っていますが、ぼくは日本のために十分に尽くしてくれたと思います。本当は5日間の戦争を36日間に伸ばすのはすごいことです。
*現実の戦争では負けてしまったが、日本軍の志と精神が戦争に勝っていたのかな?と思う。
*信じられないような作戦で36日間も相手に戦闘を続けさせたのはすごいことだと思いました。栗林さんの作戦とメンタルに感動しました。
*栗林さんは頭を使って日本を守った。たぶん、日本人は栗林さんのおかげで勇気をもらったと思う。
*戦力比較ではアメリカが圧倒的に強いのに、ここまで追いつめた日本軍はすごいと思いました。栗林中将は日本本土を守ろうと頑張ってくれてありがたく思った。
*日本は強いとアメリカに思わせたことがとてもうれしかった。アメリカは他の国ともつながっていて、その中でも強いアメリカ軍に日本は強いと思わせたことで少しでも他の国の攻撃を防げると思った。
*栗林中将は仲間想いだし、国をとても大切にして、最後まであきらめなかった。だから、アメリカ軍にやられてしまうのは短歌にあるようにとてもくやしかったと思う。

2016.01.13(Wed) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

東京大空襲

 前回の「千人針」に続き、戦時下の国民生活の第2時という扱いとなる。
 じつは「千人針」→「東京大空襲」→次回の「硫黄島の戦い」は3時間でワンセットになる。「千人針」は銃後の国民から戦場の兵隊さんへの思い、「硫黄島の戦い」は戦場の兵隊さんから銃後の国民への思いを学習する。そのキーとなるのが今回の「東京大空襲」の学習である。

<ワークシート・第1ページ>
★下の絵は1945年3月の東京大空襲のようすを描いたものです。気づいた ことを箇条書きで書き出してみましょう。


東京大空襲の絵左

児童からは以下のような気付きが出された。
「勢いよく炎が上がって家が燃えている」
「上から何かが落ちてきている」
「みんな防災頭巾のようなものをかぶって逃げている」
「布団をかぶっている人もいる」
「奥にライトの光が見える」
「何かが地面に刺さって爆発している」
「炎の中に逃げ遅れた人がいる」

なお、次ページの資料で焼夷弾については詳しく説明する。
すると炎がなぜ上がっているのか、火から髪の毛を守る行為などの意味がわかる。

<ワークシート・第2・3ページ>
①B29と焼夷弾(しょういだん)
東京を空襲したのはアメリカのB29(ボーイング29型)大型爆撃機です。このときにB29が落としたのはふつうの爆弾ではありません。焼夷弾とよばれるものです。


B29

焼夷弾

 なぜアメリカ軍は焼夷弾を使ったのでしょうか?アメリカはアリゾナの砂漠に一軒の木造住宅を作り、ある実験をしていました。その実験の連続写真を見てみましょう。

0分
10分
15分
20分


②東京大空襲を生きのびた人たちの証言
「あ、落ちてくる!」                            
 私の一歩前にいた男は、顔をのけぞらしてさけんだ。ごしっ!と耳の破れたような音。地底にひきこまれそうな爆音。あわてて閉じたまぶたの裏に、金色の閃光がはしる。焼夷弾は、落ちてくる-とさけんだ男ののど首に、火をふいてつきささった。その横を走ってきた女の左肩をかすって、電柱にささりこみ、あっというまに、あたり一面を地獄絵図変えてしまった。

 B29が、ガソリンをまきちらしたのは、その後です。爆音が耳をかすめて、頭に、ほおに、さあーッとつめたいものがふれる。はっと気がついてみると、水です。それもへんににおう、とろとろした水、液体です。はじめ雨かと思いましたけど、そのにおいで、すぐガソリンとわかりました。ああ、これで私ら焼き殺されるんだ。死ぬのかな、って思いました。けど、そのとたん、畜生、死んでなるもんかと思い、必死で起き上がろうとしたんですけど、ダメなんです。私の上は、死体だらけ。その死体がつみかさなって、みんなまっくろこげの棒みたいになっているんです。

髪の毛に火のついた人たちが大声でわめき、苦しみながら、のたうちまわる。背中の子どもが、そのとき、ギャーッと、異様な声をあげましてね、あわてて、子どもをおろして胸に抱くと、口の中が真っ赤。いえ、血じゃないの。泣いている口の中に、火の粉が入っているんですよ。火の粉が、のどをふさいでカーッと燃えているんです。私はあわてて、それを指でえぐり出しましてね、子どもを下にうつぶせになって、上にねんねこをかぶりましたが、ねんねこにもすぐ火がついてしまいました。私のまつげは、とっくに溶けてし

③東京大空襲の被害
 日本の首都・東京は、1944年11月24日に初めて空襲されました。その後、1945年8月15日まで110回を越える空襲を受けています。
 アメリカの空襲の最初の目的は製鉄工場や飛行機工場などの軍需工場でした。しかし、最初の22回の空襲であまり効果がないと考えたアメリカは空襲の目的を一般の民間人をもねらう無差別爆撃へと変更したのです。
 1945年3月10日の東京大空襲では、午前0時すぎから2時間半にわたって計334機のB29から1600トンの焼夷弾を投下されました。26万8千戸の家が焼かれ、10万人が焼死、40万人が負傷、被災した人は100万人を越えました。(空襲後の写真を見てみましょう)

被害1
被害2
被害3
被害4


★①~③の3つの資料を読んで、東京大空襲のどこに大きな問題点があると思いますか?あなたの考えを書いて下さい。


児童からは以下のような意見が出された。
「日本は弱いのに民間人とかをねらったから、それが僕の中ではすごく悲しくて切なかった」
「アメリカの空襲が無差別爆撃に変更したのが、問題だと思います。そのせいで小さな赤ちゃんまで被害を受けているからです」
「爆弾は爆発すれば終わりだけど、焼夷弾はいろいろなものに飛び移り、町全体を焼き尽くして、人を最後の最後まで苦しめた」
「B29がガソリンをまき散らしたところ。焼夷弾だけでももう十分被害を受けているのに、さらにガソリンをまき散らすというところがひどい」
「木造だからすぐ燃える、というのが問題点だと思います。もともと木造の家は日本の文化ですからしょうがないのに、そこをねらってくるのはひどいです。それにガソリンをまいて焼死させる発想がむごすぎる」

 ここで戦時国際法の話をした。
 子供たちは戦争にルールがあることを意外に思っている。これは大事な知識だ。この国際法の中には空襲の項目もあり、民間施設を狙うことは法律違反だということが書かれていることを教えた。

<ワークシート・第4ページ>
★横浜もねらわれた空襲
この東京大空襲の後も、空襲は続きました。
3月10日 東京(被災者100万人)
13日 大阪(被災者 50万人)
17日 神戸(被災者 24万人)
19日 名古屋(被災者 15万人)
4月13日 東京
15日 東京・川崎
6月~8月 全国55の地方都市

 わたしたちが住む横浜も、1942年4月18日に初めて空襲を受けました。1945年に入ってから、空襲回数は30回を越えました。
 とくに1945年5月29日の大規模な空襲で、横浜市内は壊滅的な被害を受けました。この横浜大空襲では、B29は517機、戦闘機は100機が飛来し、焼夷弾による約1時間の爆撃と機銃掃射で死者は1万人、被災者は32万人にのぼりました。
 現・京急黄金町駅周辺一帯では、電車から退避中の利用客も住民とともに被害にあい、大勢の人びとが焼夷弾による火災により逃げおくれて焼死しました。空襲警報とともに駅構内に逃げ込んだものと思われ、焼夷弾による火に包囲され、火あぶりとなってしまったのです。
 死体は黄金町駅の道路両側に並べられ、引取者を待っていましたが、初夏に近い五月末のことで、強い日ざしによって死体から油と血が流れだし臭気も出てきたため、やむなく死体は埋葬されました。
また、6月10日の空襲では湘南富岡駅(現・京急富岡駅)に到着した電車が爆撃から逃れるためにトンネル内に待避したところ、トンネルの前後に爆撃を受け、80人が犠牲になっています。


被害5
伊勢佐木町周辺

被害6
空襲上空から見た横浜市 

2016.01.13(Wed) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |

千人針

 戦争の「原因」の学習を終えて、ここからは戦争そのものについての学習に入る。
 最初に取り上げるのは「戦時下の国民生活」である。
 ここの学習のポイントは二つあると考えている。
 
 ①第1次世界大戦以降、どの国も「総力戦」になった
 ②つまり、日本の国民は戦地の兵士と一体になって戦った
 
 この授業では①と②を実感させるために「千人針」を中心教材にして教える。

 ワークシートを配布したら<戦時下の国民生活>と板書する。

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は戦争中の国内の生活のようすです。気づいたことを書きだしてみましょう。


勤労動員

学童疎開
千人針を縫う

 児童からは以下のような点が出される。
「女の人が戦闘機を作っている」
「整備しているんじゃないかな」
「ゼロ戦だと思う」
「ランドセルやリュックを背負っているので、登校中だと思う」
「学童専用車と書いてあるので子ども用の電車」
「どこから安全なところへいくのだと思う」
「女の人が何か買ってる?」
「配給で配られているのでは?」

『では、2ページ目を見てみましょう』
 2ページを読むことで勤労動員と学童疎開の画像は意味がわかる。残る1枚は「千人針」のお話と関連することを告げてから読む。

<ワークシート第2ページ>
★戦時下の国民生活

この時代になると、どの国も戦争は軍隊だけで戦うものではなくなっていました。「総力戦」とよばれ、国民の生活や教育、文化などすべてをかけておこなわれるようになっていました。
戦争によってものが不足し、政府は消費節約や貯蓄増強を呼びかました。

戦局が悪化すると、労働力が不足したため多くの生徒や学生が勤労動員されました。また、金属の不足のためにお寺の鐘や銅像のようなものも戦争のために供出されました。

サイパン島がアメリカ軍の手に落ちると、ここを基地にして日本本土に大型爆撃機による空襲が始まりました。このために子どもたちは危険を避けるために親元をはなれて地方に疎開しました。これを学童疎開と言います。

★千人針

 千人針は、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作るもので、お守りのようなものです。これは「武運長久」と言って兵隊さんの戦場での幸運を祈って作られました。
 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつぬって、結び目をつくってもらいます。特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ました。これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかって、兵隊さんが生きて帰ってくるのを祈るものです。
 できあがった千人針を、兵隊さんは銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりして、大切に身に付け続けていました。


千人針1

千人針を見る


<ワークシート・第3ページ>
★千人針を作った当時の人の気持ちを考えてみよう

戦争中の国民生活は苦しいものだったに違いありません。とくに戦争も末期になると自分たちが生きていくだけで精いっぱいの状態だったことが想像できます。
 しかし、そんな中でも、当時の女の人たちは戦地で戦う兵隊さんのために千人針を作りました。いろいろ種類の千人針を見て、当時の人たちのどんな気持ちが込められているか考えてみましょう。



千人針2


千人針3


千人針4


千人針5

児童からは以下のような予想が出された。
*Aについて
「虎は千里を・・・の言い伝えがあるので、それを絵の形にして生きて帰ってほしいと思った」
「虎は強い動物だから戦闘に勝てるように、虎のように強くなって欲しいと考えた」

*Bについて
「五円玉を付けているから、これからも御縁が続きますように、帰ってきて欲しいと言う気持ち」
「振り子のように右いってもまた左に戻れるから、それで国に戻ってこれるようにと考えた」
「お金を付けてお守りの力をプラスした」

*Cについて
「頭を守るために帽子の形にした」
「袋状になっていて家族の写真などを入れていたのではないか」
「生きていくためのお弁当を包むものにした」

*Dについて
「子供用の服の形にして家族のことを思い出してもらった」
「防弾チョッキみたいなものでこれを着て銃弾よけにした」

 Aについては虎の言い伝え,Cについては帽子型にしたこと、Dはチョッキにしたことが正解であることを伝え、どれも無事に帰ってきて欲しいと言う気持ちが込められていることを話す。
 ただし、Bについては正解を保留して次ページを読む。

<ワークシート・第4ページ>
★千人針に込められた思い

◇ある兵隊さんのお話・その1
千人針の形は腹巻、チョッキ、帽子等いろいろです。とにかく千人の女が一針ずつ縫いつづる、その真心が天に通じて神や仏のお守りが得られると信じられていました。
私の母も二人の息子を戦地に送ったため、千人針を作ってくれたものですが、当時の私の村は家も少なくて千人の女性の手はなかなか得られず、そのために母は松江市に野菜などを売りに出かけるときには必ず千人針を持っていって、その売り先の家の人たちにお願いしてせっせと作ってくれたことを覚えています。

◇ある兵隊さんのお話・その2
昭和14年1月10日に歩兵36連隊に入隊して、中国に上陸したのち昭和17年に帰国するまで、千人針の帽子とチョッキは肌につけ続けました。戦いで退却するときに、川を渡るとき恐怖を感じましたが、その恐怖を救ったのがこの千人針でした。

◇ある女の人の話
チョッキにも腹巻にもみんなしました。それにちょうど心臓のあたりに五銭銅貨を、死線を超えるということで、十銭は苦戦を越えてといわれて付けたのです。主人は、どうも南方へ行くらしいよ、と言うもので、私はもう夢中でたくさんのポケットをつくりました。ミシンでザァーッと縫って、千人針ができたあとで、またポケットをあちこちに付けました。


 Bについてはこの文章だけではわかりにくいので板書しながら説明を加えた。

 死線→四銭→4線  五銭→5銭  4より1つぶん多くなる=越えている→死線を越える
 苦戦→九銭→9銭  十銭→10銭 9より1つぶん多くなる=越えている→苦戦を越える

 児童の感想を紹介する。
*自分が生きていくのも大変だった時代に女性が千人針を一生懸命作ったのは、絶対に帰ってきて欲しいという強い願いを兵隊さんに伝たかったのだと思う。兵隊さんもお守りとして家族といっしょにいるような心強いものだったんだと思います。
*女の人は、兵隊さんが生きて帰ってくることを誰よりも祈っていたと思った。
*千人針にはいろいろな気持ちや願いが込められていて感動した。これほど、願いや気持ちが込められていたのなら兵隊さんも安心できていたと思う。
*戦争中でも千人針を作って兵隊さんにもたせるということはその兵隊さんたちを大切にしているのだと思う。
*瀬人針は人の命を守るために作られたのであり、とてもいいと思う。ただ、作るのではなくもらった人の気持ちや早く帰ってきてという意味が込められていてすごくいいと思う。漢字にも意味があり、これならずっと頑張っていられる。
*人々の願いはすごいものでした。他にもいろいろな工夫がされていると思います。人々の思いは苦しい生活よりも強いです。
*今の日本にはない優しさがあると思った。当時の日本人は戦争に行く人全員を待っていたんだということが伝わってきた。

2016.01.09(Sat) | 昭和(戦前・戦中) | cm(0) |