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mutukawa34413

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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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ファンタジーの柱

 前回の司馬遼太郎の「遊び」の話の続きである。
 昭和28年に岡田章雄編著『虚構の日本史』(吉川弘文館)という本が出されている。
 ここに「遊び」と同じようなことが述べられている。

 だから考えようによっては、歴史のあゆみを正しく理解し、特定の事件の意義や人物の価値をよりよく認識するために「もしもあの時」という仮定をもうけてみることは必ずしもむだなことではなさそうだ。正しい歴史を築きあげるための足場として、理論の柱を組むかわりに、ファンタジーの柱を組むこともたまには許されてもいいのではなかろうか」(岡田章雄「もしも鎖国がなかったならば」p78)
 
 理論の柱を組むのが歴史学の役割ならば、ファンタジーの柱を組むのが歴史教育の役割だろう。
 どっちが上でどっちが下ということではない。
 その両方が、歴史の正しい理解と事件の意義や人物の価値のよりよい認識に必要だ。
 
 「なってみて」「もし○○ならば」を考えることは歴史の学び方として重要なのである。
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2016.02.29(Mon) | 歴史教育雑感 | cm(0) |

司馬遼太郎の「遊び」

 司馬遼太郎は『この国のかたち 三』(文春文庫)の中で日本が近代史の中でドイツを欧化のモデルに選んだのはなぜか?というテーマについて次のように語っている。
 
 ここで、遊びとしての作業をしてみたい。まず、
「江戸時代をそのままつづけていてもよかったのではないか」
 ということである。答えは、その場合、十中八九、どこかの植民地になっていたろう。

 司馬氏はさらに続けて欧化のモデルをオランダしたら?英語圏の国だったら?いやフランスだったら?と続ける。
 こうした「もし○○だったら」の思考実験をしてみると日本がドイツを選んだ理由が腑に落ちる。
 
 ここで司馬氏が言っている「遊び」が歴史の授業にとって重要なのである。
 私の授業でも、その歴史上の人物に「なってみて」そして「もし○○だったら」を考えさせることをメインの課題にしている。
 こうすると授業は面白くなる。自分が歴史に参加できるからだ。
 しかも、絶対的な正解はない。それでいて実感的に理解できる。

 これは「遊び」の効用である。
 
 
    

2016.02.28(Sun) | 歴史教育雑感 | cm(0) |

小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>

  小学校歴史人物学習 <なってみる日本史~「なってみる」と歴史は面白い!>
  
  ようやくすべてをブログ上にアップすることができました。
  まだ、足りないところ(縄文時代や聖徳太子など)もありますが、とりあえずは完成です。
  
  これまですぐれた授業実践を発表して私を導いてくれた先輩方
  自分の実践に対して親身になって有益なアドバイスをしてくださった「授業づくりJAPAN」のみなさん
  お礼を申し上げます。
  ありがとうございました。

  みなさんのお力添えもあり、私は実践者としてこの学習方式の有効性に自信を深めています。
  小学生のみならず、大人でも歴史を理解する上で有効な方法だと考えています。

  よろしければカテゴリをクリックして「実践・歴史人物学習」の中の授業を一つでもご覧いただければ、と思います。
  ご感想、ご意見をいただければ幸いです。



  

 

2016.02.27(Sat) | 未分類 | cm(0) |

足利義満

  室町幕府の三代将軍・足利義満を取り上げる。
  歴史人物学習として何をシミュレーションさせるべきか?最も悩んだ人物である。
 
  まず肖像画を見せる。
  僧の格好をしていることに気づかせる。
 『足利義満は室町幕府の三代将軍です。金閣を作ったことで有名ですが、武士のリーダーなのですがお坊さんになってしまいました。平清盛と同じですね』 

足利義満肖像画

<ワークシート・第1ページ>
★下の写真と図は京都にある金閣のものです。気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。


金閣

金閣構造図

 子どもたちの気づきは以下である。
「3階建てになっている」
「森に囲まれている」
「造りが今の神社に似ている気がする」
「一番下が貴族の寝殿造で、真ん中が武士の武家造で、一番上が寺の造りになっている」
「一番上に鳳凰が飾られている」
「一番下が金じゃない」
「貴族ではなくて武士と仏を金にしている」

『金閣は全部、金というわけではないのですね』

<ワークシート・第2ページ>
★金閣を作った足利義満
現在、金閣は京都・北山にある鹿苑寺の中にあります。この金閣を作ったのが室町幕府三代将軍の足利義光です。
 金閣はのんびりすごすための別荘ではありません。ここは政治を行うための庁舎でもあり、宮殿でもあります。じつは当時はこの金閣のとなりに天鏡閣というホールの役目をする建物があり、金閣の二階と天鏡閣は空中廊下でつながっていました。
金閣は1階が寝殿造、2階が武家造、3階が禅宗仏殿造になっています。1階の寝殿造だけ金箔が貼られていません。歴史を研究している人のなかには「これは貴族よりも武士の方が上で、仏につかえる者はそれよりもさらに上である・・・ということを意味している」と考える人もいます。

義満と金閣


★室町幕府を盛り上げたリーダー 
 第三代将軍・足利義満

①南北朝を一つにまとめた
鎌倉幕府が滅びた後、しばらくの間は後醍醐天皇による天皇中心の政治が行われました。しかし、これに不満を持つ武士たちのリーダーである足利尊氏は別の天皇を立てて、室町幕府を作りました。敵となった後醍醐天皇は奈良の吉野にのがれました。
 天皇が足利氏が立てた京都の北朝と後醍醐天皇が立てた吉野の南朝に分裂したのです。
 この後、全国の武士は南朝と北朝に分かれて戦いを続けていました。この2つを再びまとめて南北朝合一を実現し、天皇を一つに戻したのが足利義満でした。

南北朝系図


②室町幕府を強くした
足利義満は、まだまだ力の弱かった室町幕府の体制を固めました。当時は、貴族と武士の両方で政治をしていましたが、これをできるだけ武士中心に変えることで室町幕府の力を強めることに成功しました。また、幕府に反抗する武士たちを押さえ、そのたびに重要な領地を幕府のものにしました。
こうして全国に幕府の力を広げると同時に、貴族の世界での地位もどんどん出世していきました。最後は太政大臣という最高の位につくと、その後は僧となりました。


<ワークシート・第3ページ>
★明(中国)との貿易と「日本国王」~足利義満になって考えよう

足利義満は明(いまの中国)との貿易を行おうと考えました。貿易を行えば室町幕府も日本も、経済や文化の面でもっと豊かになれます。
 日本はかつて平安時代に遣唐使を送っていましたが、遣唐使が廃止になってもう500以上も国と国が行う正式な貿易を行っていませんでした。

 そこで、義満は貿易を行うために明の皇帝に使者を送りました。しかし、明の皇帝は「おまえは日本の王ではなく将軍だろう。王でなければ話はできない」と2回も断られてしまいました。
 しかし、義満はあきらめずに明の情報を集め続け、チャンスを待っていました。すると、前の皇帝が亡くなり、新しい皇帝に代わったのです。再び使者を送ると、新皇帝はすぐに義満を「日本国王」として認める使者を日本に送ってきたのです。なぜ新皇帝はこんなに簡単に義満を「日本国王」として認めたのでしょうか。当時の明の新皇帝にはこの皇帝の地位をねらうライバルがたくさんいたのです。そこで「遠交近攻」(中国に古くからある戦術)の考えで、日本と仲間になろうとしたのです。ただし、この称号をもらうということは明の皇帝よりも「国王」は下の位なので「日本は明の家来になる」と認めることになってしまいます。
 さて、義満の部下の中には次の2つの意見があった(という設定にします)。あなたが義満なら、どちらの意見を取り入れますか?

*部下A:「日本国王」の称号は拒否すべし
日本が明の家来になることを認めるなんて、そんな侮辱が許されるでしょうか?昔、聖徳太子が日本の天皇と皇帝は同等であると認めさせたはずなのに、これでは天皇は皇帝より地位が下ということになります。もし、義満様が貿易がしたいからと言って「日本国王」の称号をもらえば「侮辱は許せない」と反対する者が現れて内乱が起こるかもしれません。貿易よりももっと大事なことがあるのではないでしょうか?

*部下B:「日本国王」の称号はもらってもいいが、国内では使わないようにすべし
わたしもAさんの考え方に半分は賛成です。しかし、称号を拒否すれば貿易ができなくなります。そこで、「日本国王」の称号はもらって明に対してはこの称号を使って貿易を行い、国内ではこの称号は使わずに、今まで通り天皇を敬う政治を進めるのです。称号をうまく利用して、貿易によって幕府の力を強くして、国が豊かになることが大事です。

*部下C:「日本国王」の称号をもらって本当の国王になるべし
 国外と国内で称号を使い分けることなんてできるのでしょうか。いっそのこと義満様が天皇よりも偉いほんとうの「日本国王」になればいいではありませんか。明との貿易で豊かになり、その力で室町幕府をさらに強くしていけば、義満様に刃向かう者もいなくなるでしょう。明の皇帝の力で天皇よりも強い力をもった武士のリーダーになるべきです。

◇あなたの考えを書きましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 話し合いの前に意見分布を取ってみた。→の後の数字は話し合い後の2回目の人数分布である。

部下A・・・1組  7人→5人    2組  9人→10人
部下B・・・1組 20人→22人   2組 19人→17人
部下C・・・1組  0人→0人    2組  2人→ 3人

 ではそろぞれの意見を見てみよう。

A派
「天皇よりも偉くなってしまったら、大変だろうし、貿易がしたいなら違う国とすればいい」
「日本国王の称号をもらうといろいろと面倒なことになりそうなので今はやめておいたほうがいい」
「なぜ貿易するためだけに明の家来にならなければいけないのでしょうか?義満も聖徳太子と同じように明に皇帝と天皇は同じ位だと言うことを言った方がいいと思う。日本国王ではなく日本天皇に変えてもらえば家来ではなくなる」
「ここで内乱が起こってしまったら幕府を強化する前に滅亡してしまう。だから今は幕府を強化して落ち着いてから明との貿易を始めればいい」
「明に国内でも称号を使え!と言われたら使わないといけなくなるからBでもCでも内乱は起きる」
「日本国王になったら天皇よりも上になるのに皇帝よりも下になって天皇を侮辱されることになるから、天皇を敬う立場の義満はそんなことはしないと思う。貿易は清盛のように正式じゃなくてもできるからそれでいい」
「南北朝を一つにしたのは義満なのに、もし天皇よりも偉くなったらまた天皇は2つになってまとまらなくなるからそれはやめたほうがいい」
「遠交近攻をしたいなら、日本と同等の仲間になってほしい。国王の称号は拒否して、日本の一番は天皇だということを守る」
「日本は今、天皇中心の政治をしている.Bは少しずるい気がする。明の家来なんてならない。皇帝と天皇は同等を守り、日本の政治を進めていくべき」

B派
「貿易の中で日本で一番えらい人になればいい。国内では天皇よりも下の位で政治は進める。そうすれば反対する者もいなくなり、国も豊かになれる」
「内乱を起こさせないためにもBがいい。貿易をしたら国が豊かになれるけど内乱も押さえる必要がある。天皇は一応立てておいた方がいい」
「貿易もできるし、天皇を敬う政治が進められるし、幕府の力も強くできる・・・いいことがたくさんある」
「今までねらっていた貿易ができる。でも国内で称号のことを話してしまうと争いが起きそうだから国内では使わない方がいい」
「Aの意見だと貿易ができなくなるし、Cの意見だと国内が反対して内乱になるかもしれないからB。貿易は大切だ」
「称号を使うと日本国民に悪いイメージを与えてしまうし、信頼を得られない。やっぱり日本のリーダーは天皇だから。日本国王の称号は明との貿易だけ使うべき」
「拒否してしまえば貿易はできない。国王になったら天皇よりも上になってしまい、天皇は義満に裏切られたと思うかもしれない」

C派
「Aだと今までのことが無駄になる。Bだと称号をうまく利用する言うけれど、なんかビミョー。中国の皇帝はすぐにいいよ!と言っているのだから、ここはもう完璧に日本国王になったほうがいい。そうしたら日本も強くなりそう」
「称号を拒否すると貿易ができなくなる。称号を使わないといずればれる。だからもう日本国王になったほうがいい。天皇よりも上になれば南北朝みたいに分かれることもなくなる」

<ワークシート・第4ページ>
★「日本国王」の称号を受けた義満

義満が選んだのはBでした。
1402年、義満に「日本国王」の称号を認める明の使者が日本にやってきました。義満は金閣でこの使者と会見し、500年ぶりに日本と中国の正式な貿易が行われることになったのです。

義満も「日本国王」の称号を受ければ、それは「日本が明の家来になる」ことを認めることになることはわかっていました。しかし、室町時代の日本では昔とちがい、中国皇帝に日本国内に大きな影響をおよぼすほどの力があるとは考えられてはいませんでした。
そこで義満は貿易を重視する立場から、あえて「日本国王」の称号を受けたのだと言われています。

 しかし、義満は日本の国内では「日本国王」の称号を使いませんでした。もちろん「自分は日本国王になったんだ。すごいだろう!」と宣伝したりすることもありませんでした。使うのは貿易などで文書をやりとりするときだけです。そして、本当の意味での日本の王は天皇であるという考えを変えることはありませんでした。

なぜ義満は称号を使わないようにしたのでしょうか?
 日本国内では中国皇帝の影響がなくなっていたので、使っても意味がないということもありますが、やはり「日本国王」という称号を受けたことに対して批判的な人もいたからです。また、日本の本当の王は天皇なのに、その天皇を差し置いて義満が「日本国王」の称号を受けてことに怒っている人もいました。
ある貴族が『明からの手紙には「義満を日本国王にする」という言葉が書かれているがとんでもないことだ。これは天下を揺るがす大事件だ』と怒っている記録も残っています。


『日本の歴史の中で天皇よりも偉くなろうとした人は何人かいるのですが、みんな失敗しています。天皇よりも偉くなろうとすると、必ずそれに反感を持つ人が現れるからです。織田信長も天皇よりも偉くなろうとしたので本能寺で明智光秀に襲撃されたという説もあるほどです。ですから、天皇は日本の歴史の中でとても重要であることがわかります』

 子どもたちの感想を見てみよう。
*あの大国の明と貿易するのだから、ある程度の批判はしょうがないわけだからこれは義満の大きな駆け引きだったと思う。
*義満が国王になってまで天皇を中心に政治を進めたのはすごいと思う。貿易を重視しながらもこうした決断ができたのもすごい。また、金閣が庁舎だったというのは驚きました。
*すごく疲れた。義満はどうしてこんな危ないことをするのかぜんぜんわからない。
*今日の学習で義満はどんな危険なことをしても明と貿易がしたいんだな~ということがわかりました。でも、僕は絶対に明の家来にはなりたくないです。
*やっぱり天皇はリーダーだな。義満の判断は正解だと思う。国内で使ってはいけないということもたぶんわかっていたんだと思う。

2016.02.14(Sun) | 室町・戦国 | cm(0) |

平清盛

  藤原道長の次に平清盛を取り上げる。
 貴族の世の中から武士の世の中へと変わろうとする胎動を感じ取らせたい。

 清盛の肖像画を見せる。
『今日は武士の世の中を作ろうとした人の勉強をします・・・平清盛です』

平清盛肖像画

<ワークシート・第1ページ>
 ★下の絵は平安時代のようすを描いた『平治物語絵巻』の一部です。これを見て気づいたことを箇条書きで書き出しましょう。


平治物語絵巻

 子どもたちの気づきを見てみよう。
「屋敷みたいなものが焼けている」
「火が燃え広がっている」
「すごい煙」
「鎧を着た人がいる」
「弓矢を持っている」
「馬に乗った武士がたくさんいる」
「武士と貴族の戦いか?」
「源氏と平氏の戦いだと思う」
「逃げている人がいる」
「女の人もいる」

 ここで以下の説明をする。
*これは貴族同士の争いにそれぞれ武士が味方になって起こった戦い。
*そういう理由で相手の貴族の屋敷を武士が襲撃している。
*よく見ると貴族の女の人が逃げたり、隠れたりしている。捕まっている人もいる。

 『貴族と武士の間にはこの絵のような関係があったことをここでつかんでおきましょう』

<ワークシート・第2、3ページ>
★都に進出した武士
 武士はもともと都から離れたいなかに住んでいました。いなかで朝廷や貴族の土地を守るように頼まれたり、自分たちの土地も守っていました。そこで敵に備えて武装し、刀や弓矢などの訓練をしていたのです。
その武士が大都会である平安京に進出するチャンスがやってきました。
 当時、京都の延暦寺・園城寺や奈良の興福寺などの大きなお寺は「僧兵」という兵士を持っていたのですが、こうした寺は貴族と意見が対立したり、自分たちの意見を押し通したいときはこの僧兵を使って貴族を脅かしました。困った貴族は僧兵の乱暴から身を守るために武士にボディガードを頼むようになったのです。
こうして武士の中でもとりわけ強いボディガードである源氏と平氏が貴族に大事にされ、だんだんと政治にも参加するようになっていったのです。とくに貴族同士の争いに、武士が加わった保元の乱・平治の乱の2つの大きな戦いで武士はなくてはならない存在になっていきました。
平安時代の終わりごろは、貴族・寺・武士の3つの大きな力が日本を動かしていたと言えるでしょう。

★平清盛の活躍
都に進出した武士の中で最初に活躍したのは源氏でしたがその後、平氏がライバルである源氏を上回り、力を伸ばしていきました。その平氏のリーダーになってのが平清盛です。では、清盛はどんな人物だったのか調べてみましょう。

①少年のころから貴族の世界を知っていた
清盛のお父さんの忠盛は鳥羽上皇というもと天皇に気に入られ、貴族の仲間入りをして富を得ていきました。清盛も都で貴族の一員として育てられました。しかし、武士の子でもある清盛はすぐれた武将としても成長していきました。

②御神輿に矢を放った
30歳の時にある事件が起きました。延暦寺と平氏の間にもめごとが起こり、僧兵と平氏の間で戦いになったのです。ふつう、僧兵たちは御神輿を担ぎながら相手を脅します。御神輿には神様が乗っていますから「俺たちに刃向かうと天罰が下るぞ」と神仏の力で相手を脅そうとするのです。当時の人はこれをたいへん恐れました。しかし、清盛はそんなことは気にもかけずに御神輿に矢を放ったのです。ぶすりと刺さった矢に当時の人は震え上がりました。清盛は古くさい迷信を嫌い、神仏を戦いに利用する行為に真っ向から挑戦する進歩的な人だったのです。ただし、清盛は神仏をうやまう心は強く持っていました。とくに広島に厳島神社を造ったことが有名です。

厳島神社


③平治の乱で活躍
 貴族同士の争いから起きた平治の乱で清盛は相手側の源義朝を打ち破り、源氏を壊滅させました。これによってライバルがいなくなった平氏がさらに力を伸ばしていきました。

④中国の宋と貿易をした
 平氏は日本近海の海賊退治も行っていました。そのため、日本と宋の貿易にも関わるようになったのです。福原(いまの神戸)を拠点にして貿易を行いました。主な輸入品は中国の銅銭(お金)です。この銅銭を大量に輸入することで日本の経済は活性化しました。輸出品は金、真珠、水銀、硫黄などです。この貿易によって平氏は豊かになっていきました。

⑤どんどん出世する清盛
 清盛は武士と初めて朝廷政治に中心とした参加できる地位に出世し、さらに検非違使という当時の警察組織のリーダーにもなりました。さらに太政大臣という貴族として最高の地位にまで登り詰めました。


★都を平安京から福原に移そう!~清盛になって考えてみよう

 清盛の夢は武士が安心して暮らし、武士が活躍できる世の中を作ることです。では、当時のようすを見てみましょう。
 
*貴族たちはボディガードの平氏がいなくなったら困ると思っているが、内心は「武 士のくせに貴族よりも出世しやがって」と妬んでいる。
*平氏の貴族重視の政治に不満を持っている全国の武士が源頼朝をリーダーにして平 氏に反抗し、各地で戦いが始まった。
*寺のリーダーである延暦寺・園城寺・興福寺などの昔からある大きな寺は、清盛が 厳島神社という新しい神様を大事にしていることを批判している。
*武士のリーダーである清盛の娘が高倉天皇と結婚して男の子を生み、この子が安徳 天皇になった。こうして清盛は藤原道長のように天皇の外戚になった。
*貴族のリーダーである後白河法皇(もと天皇)は昔のように天皇中心の政治に戻し たいと思っている。

 清盛は当時の首都である都を平安京(いまの京都)から福原(いまの神戸)に移すことにしました。なぜ都を福原に移そうと考えたのでしょう?清盛になって考えてみましょう。


福原周辺図

子どもから出てきた意見を紹介しよう。

「平安京を移すことによって、もうみんなに恨まれることもないし、貴族を守る必要もなくなって、これでおおよそは武士の政治ができるから」
「ここはもともと貿易しているところだし、3つの大きな寺から攻撃されるのをさけるため」
「批判してくる大きな寺から離れたい。もしも何かあったら挟み撃ちになってしまう。それに海の近くなら中国と貿易できる。一石二鳥ではないか。それに自分たちのことをよく思っていないいない人たちがたくさんいる所より、田舎の方が安全」
「3つの寺から遠い。まわりが山で守りやすい。海が近くて貿易もできる。源氏の拠点である鎌倉から少し遠くなるし、厳島神社に近くなる」
「平氏を恨んでいる敵から身を隠す。それに貴族からも逃げる。貴族は平氏を妬んでいる」
「平安京のまわりは自分たちを嫌っている人がたくさんいる。大きな権力を持っている人もいて危険」
「源氏が攻めてくるかもしれない。貴族の反乱を起こして源氏と手を組んで攻めてくるかも。安徳天皇を守るためにも都を移す必要がある」
「敵から身を守りやすい。山が3つくらいあるし、海もあるから攻撃しずらい。鎌倉に似ている」
「平氏の力は都市を動かす力まで持っているんだぞ、ということを見せつける」
「福原を拠点にして宋と貿易しているから、都がここにあればもっと貿易しやすくなり、景気がよくなる」

<ワークシート・第4ページ>
★なぜ清盛は都を福原へ移そうとしたのか?
 
 なぜ清盛は都を平安京から福原へ移そうと考えたのでしょうか?これにはいくつかの理由はあると言われています。

①敵から身を守りやすい
 平氏に反撃ののろしを上げたのは武士である源氏だけではありません。延暦寺・園城寺・興福寺などの僧兵も源氏側に味方するようになりました。延暦寺・園城寺・興福寺に近い平安京では守りに不安があったのです。
それに対して福原は背後の北には山、正面の南には海があり、東と西も狭くなっていて大軍が入りこみにくい地形になっていました。

②貴族の対立や争いからのがれ、武士の政治を行いたい
 平安京にいると、貴族の中に起こるさまざまな対立や争いに巻き込まれてしまいます。さらに、これまでは貴族が政治を担当して、武士は戦いを担当していましたが、清盛はそろそろ政治も武士が担当する世の中に変えるべきだと考え、そのきっかけとして貴族の世界である平安京から離れようとしたのかもしれません。

③貿易をさらにさかんにする
福原は清盛が以前から宋と貿易をしていた場所です。ここが都になればさらに貿易は活発になるでしょう。

 都を福原へ移す計画に対して、住み慣れた平安京から離れたくない朝廷や貴族たちは大反対でした。800年もの間、都が置かれていた平安京は自然と風土の豊かなと土地であり、大事な寺や神社に囲まれている歴史のある町なのです。これには平氏内部からも反対があったほどでした。
 清盛はこの計画を強引に実施しましたが、あまりにも反対が強く、わずか半年で都を平安京へ戻すしかありませんでした。
 翌年、源氏との戦いで平氏が不利になる中、清盛は重い熱病にかかり亡くなりました。


 子どもたちの感想を見てみる。
*どちらかというと、僕は源頼朝派なので今まで平氏のことを軽く見ていたのですが、結構すごい人だったということがわかりました。
*平清盛がいろいろなことを考えていたということがわかりました。平氏が実現できなかったことをライバルの源氏が成功させたというのがとてもいい。よきライバルだと思えるようになりました。
*清盛は武士を変えようとしたけど、失敗してしまった。清盛がもう少し生きていたら武士は少しは変わっていたかもしれないと思いました。
*清盛は古くさい迷信を嫌うというところが信長に似ていると思った。だけど、神仏を敬うところは違うなと思いました。福原に都を移してたら源氏は攻められなかったのでは?と思いました。
*清盛は僧兵がいて強い寺があっても、あわてることなく福原に都を移そうとしたことがすごいと思いました。武士の世の中の始まりは清盛の後、というイメージがあったけど、清盛が始める準備をしていたのだな、と思いました。

2016.02.14(Sun) | 平安・鎌倉 | cm(0) |

藤原道長

 平安時代の貴族の学習として藤原道長を取り上げる。
 なお、平安時代の貴族の生活(寝殿造や平安期の文化)を学習した後にこの授業を計画したい。
 
 前回の寝殿造について簡単におさらいした後に道長の肖像画を見せる。 

<ワークシート・第1ページ>
★下の絵は藤原道長(右)と道長の自宅のようすです。気づいたことを箇条書きで書きだしましょう。


藤原道長肖像画

 子どもたちの気づきは次のようなものである。
「道長が庭を見ている」
「視線の先に船がある」
「池を見ている」
「鳥?みたいなものが船に取り付けられている」
「龍みたいなものもある」
「道長以外にオレンジの服を着た人がいる」
「道長は縁側に出てきて見ている」

 以下の説明をする。
*個々は道長の自宅である。
*池に浮かんでいる二艘の船は道長が新しく注文したもので、それが届けられたところである。
*道長は注文していた船のできばえ満足している。
*この船を注文したのは道長の自宅に大事なお客様が来るから。お客様に満足してもらえるように注文した。
*そのお客様はなんと天皇陛下。
*天皇陛下が自宅に遊びに来るとはさすがは藤原道長。

『では、道長について調べてみましょう』

<ワークシート・第2ページ>
★藤原氏と摂関政治
 745年、いまの京都に平安京という都がつくられました。この後、約400年間が平安時代です。
都が平安京に移ったころから、天皇が政治の場で意見を言う必要がなくなり、貴族たちが中心になって政治を進めるようになりました。その中でも藤原氏は、他の貴族たちをたくみに退け、一族の娘を天皇のお后さまにして生まれた皇子を天皇に立てて天皇の外戚(母方の親戚のこと)となって勢力をのばしたのです。
また、藤原氏は、天皇が幼いころは摂政(せっしょう)として、また成長したのちは関白(かんぱく)として政治を動かすリーダーになりました。どちらも天皇を助けて政治を行う仕事です。これを摂関政治(せっかんせいじ)とよびます。

★出世する藤原道長
 道長は966年に兼家の五男として生まれました。
上から道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道綱(みちつな)、道義(みちよし)と4人のお兄さんがいました。また、一条天皇の母である詮子(せんし)、冷泉天皇の奥さんである超子(ちょうし)の2人のお姉さん、後に三条天皇のお妃になる綏子(すいし)という妹がいました。

 道長は上に4人もお兄さんがいましたから、お兄さんのかげに隠れてなかなか出世できなかったのですが、お姉さんの詮子の子どもが一条天皇になり、それに合わせて父である兼家が摂政になると一気に出世しました。しかも、疫病の流行でお兄さんである道隆・道兼が亡くなると、いきなり大事な仕事を任され、政治を動かす仕事に着くことになったのです。
その後、ライバルとなった道隆の子ども・藤原伊周(これちか)を退けて出世競争に勝利すると、自分の娘を天皇のお后さまにして天皇の外戚となり、死ぬまでリーダーとして活躍しました。
4人いた娘はすべて天皇のお后さまや母親になっています。
*長女・彰子(しょうし)・・・一条天皇の后、後一条天皇・後朱雀天皇の母
*次女・妍子(けんし) ・・・三条天皇の后
*三女・威子(いし) ・・・後一条天皇の后
*四女・嬉子(きし) ・・・後冷泉天皇の母

 有名な「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」(この世は、まるで自分の世のようだ。満月が少しも欠けたところがないように、望みがすべてかなって満足だ)という和歌は三女・威子が後一条天皇と結婚するときに読んだものです。


藤原氏家系図

 『天皇が遊びに来るのは親戚だからなのですね』

<ワークシート・第3ページ>
★天皇の外戚になる日がやってきた~道長はどんな夢を見ただろうか?
 
 平安時代の貴族というといつも楽しく遊んだり、ぶらぶらしていイメージがあると思いますが、そうではありません。
平安貴族たちの政治の仕事や大事な儀式の量はたいへんなものでした。仕事と儀式は連日、深夜まで続き、休日はめったにありません。しかも現代とはちがい、平安貴族たちにとっては貴族の世界で出世することだけが子孫を残していくためのただ一つの方法だったのです。

1008年9月11日。
 藤原道長にとって待ちに待った日がやってきました。
 一条天皇と結婚した長女の彰子に赤ちゃんが生まれる日です。この子は将来の天皇になる可能性があります。つまり、道長一族が天皇の外戚になるのです。

この日に道長は夢を見ました(という設定にします)。道長はどんな夢を見たと思いますか?道長になって考えてみましょう。

Aの夢:太陽と月
 夕方、散歩に出た。ふと見ると、空に太陽と月が同時に出ていた。気がつくと右の手のひらに太陽、左の手のひらに月が乗っていた。そのまま太陽と月を持ってやしきに帰り、月を足もとに置き、太陽を胸にだいてそのまま寝てしまった。

Bの夢:物の怪
 やしきの柱のかげや屋根裏、庭の植木の下に何やら人間ではないものがうごめいている。どうやら物の怪らしい。この物の怪は「くやしい、くやしい」と気味悪くわめきたてている。追い出そうとしてもなかなか捕まらずにわめき続けている。

Cの夢:雲の中の人
 大勢の人がやしきの庭から東の空を見て騒いでいる。見ると、雲の中に人がいて地上の人間をとらえて連れて行こうとしている。人びとは「きっと道長を連れて行こうとしているんだな」とか「いや今、道長を連れて行ってはいけない」など騒いでいた。

◇あなたの考えを書きましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。


 話し合いの前に意見分布を取った。

A・・・1組  7人  2組  7人
B・・・1組  7人  2組 11人
C・・・1組 11人  2組  9人
 
 見事に3つに分かれた。 
 ではそれぞれの意見を見てみよう。

A派
「太陽は赤ちゃんが生まれることで、月は天皇の親戚になれることを表している。つまり、両方手に入れられるということだと思う」
「貴族は政治の仕事とか大変なのに、天皇の外戚になることでもっと大変になるので、太陽は昼・月は夜で一日中休む暇もない生活がやってくるのでは?ということを表している」
「和歌で、まるで自分の世のようだ・・・って言っているから太陽と月を自由に操れるということとつながっている」
「太陽はうれしい、赤ちゃんが生まれるから。月は不安、元気で生まれてくるだろうか。道長の複雑な気持ちを表している」
「太陽はこれから生まれてくる子、月はその子の未来」

B派
「物の怪の正体は亡くなった道隆・道兼で、天皇の外戚になれるチャンスを弟の道長に取られたことを悔しがっていると思う。それに出産の時には不安もあるし、こわい夢を見てもおかしくない」
「道長は他の貴族を退けることで相手のくやしがる姿見ていると思うし、天皇の外戚になると敗れた貴族たちが反乱を起こすかもしれない・・・と思って心配していた」
「自分は子孫を残せるけど、子孫をの残せるのはある意味、道長だけだから物の怪は出世競争で負けた人、もしくはお兄さんだったのかもしれない」
「亡くなったお兄さんたちが、何でもできすぎの道長を恨んでいると思う」

C派
「新しく生まれた命と引き替えに道長の命が奪われるのではないかと恐れた」
「自分が出世しすぎてそれを上から見ていた空の人がうらやましいなと思って連れて行こうとした。でも、道長にお世話になっている地上にいる人も連れて行ってほしくないと思っている・・・それぐらい自分は偉いと思っている」
「道長が雲の中に行ったらなんかいい気分で暮らしているということじゃないか」
「道長がとても頭がよくて日本の政治を進めているから、雲の中の人間もそのような人材がほしい」
「道長にとって待ちに待った日だから、うれしくて道長がもしも有名になったら・・・という理想の夢を見た」

 おおよそだが、A派はおめでたい吉夢としてとらえ、B派は出世競争に着目して敗れていったライバルたちの怨念をとらえている。C派の解釈はさまざまである。
 
 この「夢分析」を通して貴族の内面に触れてみるのがこの授業のねらいである。

<ワークシート・第4ページ>
★藤原道長の悩み

 道長は『御堂関白日記』という日記を付けていました。ここには道長の日常の出来事なども記録されています。この日記を見ると道長が夢を見たことが何回も記録されています。しかし、残念ながら「どんな夢を見たか」までは書かれていません。ですから、彰子に子どもが生まれたときに見た夢については正確にはわかりません。しかし、ある程度推測することはできます。

じつは道長が政治のリーダーになったときには、まだ天皇の外戚とはなっていませんでした。ですから、自分がリーダーとしての手に入れた権力を子孫に残せるように、はやく天皇の外戚になりたいものだ、と思っていました。そのためには自分の娘を天皇の奥さんにして、運よく皇子を生んでもらい、その子を天皇にして、自分が天皇の外戚になる必要があります。

道長の娘・彰子と亡くなったお兄さんである道隆の娘・定子はどちらも一条天皇の奥さんでした。定子はすでに一条天皇の第1皇子・敦康(あつやす)を生んでいます。
 「子どもは天の授かりもの」とはいえ、道長はあせっていました。お兄さんはすでに亡くなっているので、自分が敦康皇子のめんどうを見てはいるのですが、やはり自分の娘が皇子を生まなければ天皇と強い関係を結ぶことができないからです。道長は金峯山(きんぶせん)という山にお参りして「彰子に子どもができますように」とお経を埋めて、お祈りをしています。

そんなとき、彰子が妊娠したという知らせが入りました。たいへんうれしいニュースなのですが・・・道長はこのことはぜったいに知られないように「極秘事項」としました。なぜなら、出世競争のライバルや道長に怨みがある貴族たちが呪いをかけるかもしれないからです。
彰子が第2皇子・敦成(あつひら)を生んだとき、彰子のもとで働いていた紫式部は日記に「物の怪がくやしがってわめきたてている声はなんとも気味が悪いものだ」と記録しています。恐ろしいことにこれは夢の中のことではなく、実際に起きたことととして記録されているのです。ですから、もしかしたら道長は不気味な物の怪の夢を見たかもしれません。


 児童の感想を見てみよう。

*道長はいろいろなことを抱えて生きていたことがわかりました。
*道長の願いがわかった。幸せ、悲しみ、不安、いろいろな気持ちになつていたことがわかった。
*なんか初めて人の夢を予想した。本当のことはわからないけど、すごい不思議な感覚。最後の「物の怪」の話が夢じゃないというのがコワイ。
*道長は何でも成功して、不安や悩みがないものだと思っていましたが、今日道長はが不安や心配をしていたということに驚きました。
*平安時代の貴族は平和で楽しそうに見えていましたが、本当は子どものことや出世のことで不安いっぱいだったのですね。
*貴族も忙しいんだなとあらためて思いました。当時は呪いとかよく信じられていたらしいから、こういうことなっても仕方がない都は思うけど、道長はとても複雑な気持ちだったと思います。
 

2016.02.13(Sat) | 平安・鎌倉 | cm(0) |