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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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歴史教育ノ道標70聖徳太子と「和」

【歴史教育ノ道標70聖徳太子と「和」】
亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』(新潮文庫)は「飛鳥の祈り」から始まります。
 冒頭の書き出しから、一瞬不思議な気持ちになります。

「推古天皇の御代、上宮太子が摂政として世を治めておられた飛鳥の頃は、私にとって最も懐しい歴史の思い出である。」(p10)

 この文の主語はもちろん、亀井さん本人です。ですから、懐かしんでいるのは亀井さんなのですが、まるで「えっ!飛鳥時代に生きていたんですか?」と言いたくなるような書きぶりです。
 よーく考えてみれば、「歴史の思い出」を懐かしんでいるのだから、これは「歴史について学んだことの思い出」のはずです。日本の歴史についてさまざま学んだうちの「最も懐しい」ものが飛鳥時代だという意味なのでしょう。
でも、もう一度読んでもまるで飛鳥時代が亀井さん自身の青春時代であるかのような印象を受けます。もちろん、それはありえないことなのですが、この先を読み続けていくと読者である自分がそう思うのには理由があることがわかります。

それは亀井さん自身が聖徳太子そのものになって見聞きし、感じ取り、思い描き、沈思黙考しているからです。つまり、聖徳太子になりきって考えているのです。飛鳥時代を生きた聖徳太子と現代の自分の間を繰り返し行き来しているから、上記のような不思議な文章になるのでしょう。

その亀井さんは十七条憲法について次のように言っています。
 蘇我・物部の争い、親しい同族間の悲劇、、嫉妬や陰謀などこの時代を生きた太子は「生の凄惨な流れに身を置」き、「人生苦の深みに思いを傾け」て、「真の救済に祈念せざるをえなかった」。ゆえに「十七条憲法は治世のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。それらの意味をふくめてはいるが、むしろ太子自身の率直な祈りの言葉なのである。私はそう解する」(p13)

 そして最初の三ヵ条について解説しているのですが、有名な第一条「和を以て貴しと為し」の「和」の読みを「わ」ではなく「やはらぎ」としています(そもそも歴史学の世界では通常こう読むものなのか、それとも亀井勝一郎の解釈なのかはわかりません)。
 
わを以て貴しと為し→やはらぎを以て貴しと為し

読みを「やはらぎ」とするだけでかなり印象も変わります。太子の真の想いが見えてくるようです。
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2019.03.30(Sat) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標69歴史の流れとは?②

【歴史教育ノ道標69歴史の流れとは?②】
 前回は歴史の「流れ」とはストーリーであるという話をしました。
 ベストセラーとなった百田尚樹さんの『日本国紀』(幻冬舎)の「序にかえて」には次のように書かれています。
「ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは「物語」なのです。本書は日本人の物語、いや私たち自身の壮大な物語なのです。」(p3)

歴史が物語ならば、歴史教育は物語を教えなければなりません。
 小学校・中学校での教員経験がある斎藤武夫さんは歴史教育におけるストーリーを組み立てたパイオニアです。
斎藤さんが組み立てた「わが国あゆみ」の大きな物語は以下の5つに分けられています。

Ⅰ国家以前・民族文化の基層形成の物語【縄文】
Ⅱ中華文明との出合いと古代国家建設の物語【弥生・古墳・飛鳥・奈良】
Ⅲ中華文明と距離を置いた日本の自己形成の物語【平安・鎌倉・室町・戦国・江戸】
Ⅳ西洋文明との出合いと近代国家建設の物語【幕末から明治時代】
Ⅴ世界の中の日本の自己形成の物語【大正・昭和・平成】

この「われわれの物語」のアイデアについて斎藤さんはこう述べています。
「アイデアの原点は、国家=「外部」があって初めて成立するという視点である。具体的に言えば、「外国=世界」の存在とその刺激・影響・強制力である。特に、わが国の来歴は、外来文明との遭遇を歴史の結節点として物語るのがわかりやすいし、日本人のアイデンティティーとしても了解できる物語になるのである。」(斎藤武夫『学校でまなびたい歴史』産経新聞社p232)

私の歴史授業も基本的にこの斎藤さんの<大きな物語>を踏まえているつもりです。さらに、私はこの<大きな物語>の中で活躍する人物に着目して日本を創ってきたその人物一人一人の<小さな物語>も大事にしたいと思っています。
歴史の「流れ」とは民族の<大きな物語>と<小さな物語>そのものではないでしょうか。

2019.03.29(Fri) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標68歴史の流れとは?①

【歴史教育ノ道標68歴史の流れとは?①】
 歴史を学ぶときは「流れ」をとらえることが大切である―よく聞かれる言葉です。
 そもそも歴史の「流れ」って何でしょうか?
 ここではその考え方のいくつかを拾ってみました。

①「流れ」とは因果関係である
 個々の用語をバラバラに記憶するのではなく原因-結果という因果関係で覚えましょう!という意見です。受験対策などでよく言われているようです。
②「流れ」とは大きな視点で見ることである
 時代の変化を大まかにとらえることが大事だという意見です。大まかにつかんでから「なぜ」と考えてみましょう、と言う人もいます。これも受験対策に関連しています。
③「流れ」とはストーリーである
 並べ替え問題などに対処するには歴史漫画などでストーリーをつかんでおけば前後関係が理解できるという意見です。これも受験関連です。流れさえつかんでいれば、細かい年号を覚える必要はないですよ、と言うわけです。

 どれももっともです。考えてみれば因果関係も大きな視点もストーリーもほぼ同じことを言っています。要するに分離されたバラバラの知識はあまり意味がないし、それをなんの脈絡も無く記憶するのはもっと意味がないという話です。
哲学者のアーサー・C・ダントはこんな例を引いています。
「例えば交通事故が起きたときに警官が「何が起きたのか?」と尋ねたときに「事故が起きた」という答えではなく、その事故のストーリーを知りたいと思っているはずである。(『物語としての歴史 歴史の分析哲学』国文社p244)

歴史の事柄を知る=ストーリーを知ることだというわけです。
 授業で「本能寺の変」の学習したときに「これは何が起きたと考えたらよいのでしょう?」と質問して、ある子が「本能寺で事件が起きた」と答えたとしましょう。教師であるあなたはきっと「いやそうではなくて・・・」と言うはずです。あなたは典型的な「下剋上」が起こったことに気づかせたいのです。ですから、信長が部下である光秀に殺されたという具体的な事実、もともとは部下だった光秀がなぜ?などの事件前との関係など「本能寺の変」のストーリーを発言してほしいと思っているでしょう。(つづく)

2019.03.26(Tue) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標67「なんで三笠を」子どもの一言②

【歴史教育ノ道標67「なんで三笠を」子どもの一言②】
「先生!なんで日本は三笠を出動させなかったんですか?」
 これは大東亜戦争の学習の第1時を終えたときに子どもたちが発した衝撃の一言です。 
 私は、大東亜戦争(太平洋戦争)の学習は第1時に戦争学習のオリエンテーションを行います。日米の戦争について知っていることを出し合った後に教科書を読みながら年表の空欄を埋めます。すると、いろいろとわからない地名や○○事変などの言葉が出てきます。ひとまずはこれらの地名や言葉を大ざっぱでもいいの知ることが必要でしょう。

 すると、どの教科書にも必ず掲載されている当時の日本の最大支配地域を示す地図が目にとまります。「すごい!日本ってこんなに領土があったんだ」と子どもたちは興奮します。その後、日米戦争に関連する画像を見せながら真珠湾攻撃、マレー半島攻略等の破竹の進撃、ミッドウェイ海戦、沖縄戦等の不利な状況、そして敗戦へと説明していきます。
 最初は興奮していた子どもたちもだんだん意気消沈です。当たり前です。自分の国が負けるんですから。子どもたちは当時の国民と同じ気持ちになっているのです。

 さてこうして授業が終わった後のことです。
 終了と同時に児童5、6人がダダダッと黒板の前の私のところに駆け寄ってきてみんな同じとを言うのです。
「先生!なんで日本は三笠を出動させなかったんですか?」
 えっ?と私は驚きました。予想もしない質問だったからです。
「日本海海戦のときのように三笠を出せば勝てたはずだよ」
「なんで三笠を出さなかったの?出せば日本は勝てたのに」。

 日露戦争の東郷平八郎の学習がこんなところに顔を出すとはまったく予想もしないことでした。これは子どもたちの純粋で健全なナショナリズムです。ロシアのバルチック艦隊を破った戦艦三笠は現代の子どもたちの中でも「神話」になっていたのです。
この子どもたちの姿を見ていると連載・第59回で扱った映画『明治天皇と日露大戦争』が戦後に観客動員数第1位(44年後に『千と千尋の神隠し』に破られるまで1位を保持)の大ヒットになった理由がよくわかります。

2019.03.25(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育の道標66「神さまあ・・・」子どもの一言①

【歴史教育の道標66「神さまあ・・・」子どもの一言①】
「どうして日本のために一生懸命に頑張った人は早死になんだろう?神さまあ・・・」
 これは、幕末期の高杉晋作の授業をした後、授業の振り返りを書かせたときのある女の子の感想です。

 この授業の前には坂本竜馬を扱っていますが、それ以外には、早死の人物というのはとくに学習で扱っているわけではありません。では、なぜ彼女はこのような感想を書いたのか?

 これは私の憶測ですが、幕末期という時代の雰囲気を彼女は敏感に感じ取っているのではないかと思うのです。つまり、彼女はこの時代の大きな変革のうねりを感じていたのです。私の歴史授業は人物中心学習ですから、そのうねりを作り出しているのは幕末期を生きた個々の人物であることを彼女は理解していると思われます。

 もう少し詳しく言えば、当時の志士たちが「日本を西洋列強の植民地にしてはならない」という目的のために途方もなく巨大な敵と対峙していることを学習の中で感じていたのでしょう。その任務遂行は困難の連続であるはずです。

 竜馬と晋作というたった2人の例を学習するだけで、この2人のほかにも多くの若い日本人が命をかけていたに違いないと直感しているのです。それが上記の「どうして日本のために一生懸命に頑張った人は早死になんだろう?神さまあ・・・」という感想になったのではないかと思うのです。
先人の生き方に強く心を動かされていることがわかります。

2019.03.24(Sun) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標65歴史学者をめざした理由

【歴史教育ノ道標65歴史学者をめざした理由】
 「歴史と歴史学と歴史教育は似て非なるもの」と書いたことがあります。これについて格好の例がありますのでご紹介しましょう。
 日本中世史を専門としている歴史学者に野口実さんという方がいます。私も鎌倉時代の授業を作る上でこの方の著作をかなり参考にしました。当時の武士というものを捉える上でとても勉強になりました。
 
 さて、野口さんによれば武士というのは「広域暴力団の組長のようなもの」だそうです。リアルに考えればそういうものなのかもしれません。で、ここで大事なのはこの野口さんが自分が歴史学者をめざした理由をこう書いているんです。

「そして、冒頭に述べたように、日本の社会には、現代に至るも、地域・企業・学校などあらゆるところに、美化された「武士の魂」が蔓延し、再生産され続けているのである。先の述べたように、こんなことを書いている私でさえ、どうして日本中世史を専攻するようになったかと問われれば、子供の頃の「勇ましい武士への憧れ」と答えざるをえない」(野口実『武家の棟梁の条件』中公新書pvi)

 野口さんは歴史学から見た武士を上記のように「広域暴力団の組長のようなもの」とリアル?に捉えているのですが、歴史学者を志したのはリアルな武士ではなくカッコイイ武士に憧れたからだと「告白」しています。ということカッコイイ武士がいなくなってしまったら野口さんのような歴史学者をめざす少年・少女はいなくなってしまうのではないでしょうか?

 すると優秀な歴史学者が生まれなくなるどころか、歴史学を志す少年・少女がいなくなるかもしれません。憧れのないところに夢を持った人材は集まりません。カッコイイ武士は「歴史」です。リアルを追求するのが学問としての「歴史学」です。そしてカッコイイ武士もリアルな武士も教えるのが「歴史教育」です(ただしカッコイイとリアルは教育的な観点から教える順番というものを考える必要があります)。この3つは互いにリスペクトし合うことが大事です。

戦後の実証主義は歴史学を「進歩」させたかもしれませんが、それが歴史教育を捻じ曲げることにつながってはいないか?と心配です。これは社会科歴史(社会科というアメリカ生まれの世界でも珍しい特異な教科の中で歴史を教えようとすること)とも相まって歴史をリサーチ対象としてしか見ようとしない<憧れのない無国籍な歴史学習>にしてしまっているのではないかと警鐘を鳴らしたいと思います。

2019.03.23(Sat) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標64信長と弥助②

【歴史教育ノ道標64信長と弥助②】
 さて「弥助」が日本に来てから約360年後のことです。
日米開戦の前年の1940年に、来栖良夫さんは『くろ助』という児童文学を発表します。あの「弥助」が主人公です。

物語では「弥助」は「カルサン弥助」=「くろ助」と名付けられ、信長のお馬廻りに任ぜられます。彼は信長の遠乗りにいつも一番に追いつく俊足で、周囲の人々に望まれれば手品なども見せます。もともと陽気な性格で信長ばかりか周囲の人々からも気に入られていきます。彼の一番の理解者はキリシタンで足の不自由な老武士伴太郎八です。本能寺の変では2人も奮戦しますが、太郎八は安土の戦場へ旅立ち、くろ助は命を助けられ南蛮寺に移されます。そして彼の夢に故郷アフリカの両親が現われます。

 一読後の感想は正直あまり面白いとは思いませんでした。ストーリーがやや暗くて積極的に子どもに勧めたいという気持ちにはなりません。「そこがいいのだ」という評価もあるのかもしれませんが(実はこの作品は29年後の1969年に発表されて日本児童文学者協会賞を受賞しています。来栖さんは戦前は綴方運動をしていた教師なので戦前と戦後で作品の評価に違いがあるかもしれません。現在もフォア文庫に入っています)。

 この『くろ助』が執筆された時代背景について前回ご紹介した『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(太田出版)の著者であるロックリー・トーマスさんは次のように書いています。少々長いのですが引用します。
「ここで忘れてはならないのは、日本が第二次世界大戦に参戦した大義名分は―最終的にどういう結果になったにせよ、また戦後に歴史がどう捉えたにせよ―、ヨーロッパ列強の植民地支配からの脱却だったという点だ。二十世紀初頭には世界中の何百万もの人々がこのメッセージを信じ、日本の方策を支持するにせよしないにせよ、そこから何かを感じ取っていた。その中には、ガンジー、中国最後の皇帝溥儀、孫文、スカルノ、アウンサンといった著名人や、それほど有名ではないアジアやアフリカの独立運動の指導者たちもいた。今日ではほとんど忘れられているが、日本軍には日本国内の日本人だけでなく、台湾と朝鮮の植民地部隊や中国と満州の志願兵、遠く離れたインドの反植民地主義者の同盟軍も含まれていた。また、二十世紀初頭にには、欧米列強による統治と支配を終わらせてアジア人のためのアジアを築くという汎アジアの夢の名のもとに、中国やフィリピンで起こった独立運動に参加して死ぬまで戦った日本人志願兵もいた」(p99~100)

信長と弥助のエピソードはアジア・アフリカの独立運動に影響を与えた日本人と日本軍のエピソードへとつながっているのです。こんな壮大な話を歴史の授業に結び付けたいものだと思います。

2019.03.21(Thu) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標63信長と弥助①

【歴史教育ノ道標63信長と弥助①】
 「きりしたん国より黒坊主参り候」(『信長公記』)
 あの織田信長が「弥助」という名の黒人青年を家来の一人に加えていたことは有名です。戦国時代にイエズス会のヴァリニャーノが実質的には奴隷として日本に連れてきたことがその書簡に記されています。
 信長はこの肌の黒人青年が「墨を塗っているに違いない」と考えて着物を脱がせて体を洗わせたと言われています。何事も新奇なものに興味を示した信長ですから初めて見る肌の黒い青年に関心を持つことは理解できます。
 ところで、信長はこの青年を「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、ゆくゆくは城主にしようとまで考えていたというのですから驚きです。また、自宅と刀を与えて時には道具持ちをさせていたという史料も残っているそうで、松平家忠の日記にも「弥助」は「扶持もちの士分」だったと書かれいます。
 きっと「弥助」は優秀な人だったのでしょう。でなければ「実力主義」の信長が単に好奇心だけでここまで取り立てるとは思えません。
 この青年を決して奴隷扱いせずに「弥助」という名前まで与えて家来の一人に加えていた事実は、信長をはじめとして当時の日本人は肌の色で相手を差別するような感覚がなかったことを証明しています。
「1581(天正9)年、堺の港に上陸した弥助の存在は、大興奮の渦を巻き起こした。彼の体の大きさや、立派に飾り立てたイエズス会士の列に加わっていた事実も後押ししたにちがいない。この時代の日本人は、黒い肌やアフリカ人に対してとくに否定的なイメージは持っていなかったようだ。リチャード・コックスの記述によると、仏陀の肖像が黒い肌で描かれることもあり、黒い肌が崇拝の対象だった可能性もある。(中略)弥助が日本人に雇われた最初のアフリカ人だったかどうかは定かではないが、リチャード・コックスによれば数十年のうちに、数多くのアフリカ人が日本で雇用されるようになっていた」(ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』太田出版p60)
 よく映画やドラマで出てくる「弥助」が信長を慕っていて本能寺の変では最後まで信長を守ろうとするシーンが描かれています。上記のような事実を知ると「本当にこうだったかも?」と思えてきます。
 きっと弥助も日本人を好きになったに違いありません。(つづく)

2019.03.20(Wed) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標62太平記

【歴史教育ノ道標62太平記】
 坂本太郎さんの著作『史書を読む』(吉川弘文館)から歴史教育のヒントを探る第3回です。
 今回は『太平記』を取り上げます。『太平記』は、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその後の南北朝分裂、将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの軍記物語です。
ちなみにタイトルの「太平」は細川頼之の管領就任で太平の世が来たことを喜んで付けたという説が有力らしいのですが、坂本さんはこれには懐疑的です。むしろ、太平でない状況をあえて太平と名付けたいわゆる反語的な意味があるのではないかと言っています。
さて、今回は中身の話ではなくこの軍記物の扱いです。
 坂本さんによれば、『太平記』は明治初年にその史料価値を問われたことがあったそうです。当時の高名な歴史学者たちは「太平記は史学に益なし」(久米邦武)など否定的な見解を論じていたようです。
歴史学の勃興時代に『太平記』はやり玉にあげられていたわけですが、これに対して坂本さんは反論しています。
「しかし、これには一つには水戸の『大日本史』が余りにも『太平記』を信用し、その記事によって、南朝武士の誠忠を讃えたことに対する反撥の意味が、底流に存したことを私は看取せずにはいられない。すべて学説は先行の有力な学説を破り、それを乗り越えるために、存在の意味を見出すが、歴史書の編修でも、先行の歴史書の史実の認定を誤りを指摘し、史観の歪みを正すことに生甲斐を求める」(p165)
歴史学は歴史の真実を解き明かしてくれる大事な学問ですが、こんな人間臭い問題も潜んでいることを知っておく必要があるかもしれません。
「明治になって伝えられた西洋の、厳密な史料批判の上に史実を構成するという実証主義は、修史局の諸学者の脳裏に深く刻まれ、その応用の第一として、当時世上に大きな影響をもった『大日本史』を槍玉にあげたのである。『太平記』が史料として役に立たないと論じたのは、一時の熱病のようなものであって、今日から見れば強いて欠点ばかりを挙げて、『太平記』を誹謗したという感を否み得ない」(p165)
いわばないものねだりをしているようなものだということです。
私は同じ軍記物である『平家物語』を源平合戦の授業の中で必ず紹介します。那須与一の話や源義仲、義経の活躍などの場面が生き生きと伝わり、子供たちは喜びます。そして、その時代を理解する上で有益です。時代の雰囲気や当時の人々の考え方がよくわかるからです。
坂本さんはこう結んでいます。
「『太平記』は史学に益なしどころか、大いに有益であると、私は言いたい。『太平記』の描く人物像は、変転きわまりない時勢を生きた人として、多種多様であって、興味が尽きない」(p166)

2019.03.19(Tue) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標61扶桑略記

【歴史教育ノ道標61扶桑略記】
 坂本太郎さんの著作に『史書を読む』(吉川弘文館)から歴史教育のヒントを探るの第2回です。
 今回は『扶桑略記』を取り上げます。これは平安時代の私撰歴史書で著者は比叡山の僧・阿闍梨皇円(あじゃりこうえん)です。六国史をはじめ寺院関係の日記等を参考に編纂されています。なお、書名の「扶桑」とは中国の伝説で東海のはてにある巨木のことで、日本の異名です。
さて、この扶桑略記の中には面白いエピソードがあります。それをご紹介したいと思います。醍醐天皇の時代の日中交流の記事です。
「それは延長4年(926)2月、興福寺の寛健法師が、唐の商船に乗って入唐求法し、かねて五台山を巡礼したいと申し出て、天皇の許しを得たという話である。これだけなら何の変哲もないが、法師はその際日本の文筆を持って先方に行きたいと願ったというのである。詳しくいうと菅原道真・紀長谷雄の詩各三巻、橘広相の詩二巻、都良香の詩一巻計九巻、小野道風の行草の書各一巻である。これを唐に流布させたいというのであるから、日本文化の発達に対する並々ならぬ自信のほどがうかがわれる」(p87)
遣唐使廃止以後もこうして僧侶がたびたび渡航していたようですが、こんなファイティング・スピリッツをもったお坊さんが平安時代にいたとは驚きます。本場・唐の人に日本の文筆のすごさを見せたやりたいという心意気に拍手を送りたくなります。
坂本さんは続けてこう解説しています。
「これを日本文化独立の一つの微証として、辻善之助博士は特筆するが、たしかに近々二百年程の間にかの国から全面的に受け入れた漢詩や書を、すぐれた人のものに限って先方に持って行き、流布させようというのは、日本人の外国文化摂取の逞しい力量を示したものとして注目に値する」(p88)
平安時代の文化の学習では国風文化として日本独自の文化が発展したと教えますが、そこにこのエピソードを入れてみると日本独自の文化の発展イメージが変わるのではないでしょうか?
 異文化を積極的に取り入れ、自家薬籠中のものとしてしまうのが私たち日本人の特徴ですが、さらにそれを発展させてオリジナルを超えるものへと育て上げようとする逞しさも日本人の大きな長所でしょう。

2019.03.18(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |