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 「本物」の歴史の授業を創るための考え方やアイデアを紹介します。明日を担う賢い日本人を育てるための歴史教育ブログです。

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歴史教育ノ道標88社会科歴史⑤

【歴史教育ノ道標88社会科歴史⑤】
森分孝治『アメリカ社会科教育成立史研究』(風間書房)より。
「科学的歴史教育論(方法主義・内容主義)」の主張が続きました。次に出てきたのが「「文学的歴史教育論」です。なお、この〇〇論というラベルは著者の森分氏によるものですので、当時こういうカテゴリーがあったわけではないようです(たぶん)。

○マクマリーの初等歴史教育論
 マクマリーは教育の最高目標は道徳的性格の形成であり「市民性」とは「社会関係の中で道徳法則を遂行できる能力」であると述べています。歴史学習によって現在の観念や制度を理解し、問題を解決することができるので歴史科は同時に公民科でもあると主張しています。
また「歴史科」は歴史について無地の素材を提供する場であり「読み方・文学」はその素材を洗練された織物にする場であるとして、この2つは内容上は区別するが関連させる必要があると言います(「古事記」「万葉集」「枕草子」「平家物語」などがある日本はとくにそうではないでしょうか)。
学習内容については第6・7・8学年に「偉大な要素」という観点で選択することを、また学習方法では課題解決法を提案しています。
なお、マクマリーは愛国心についても述べていて、愛国心は「現実であり純化すべきもの」と述べている(「強化すべき」と言っていないことに注意が必要でしょう)。
マクマリーの論は私の考える歴史教育の方針に最も近いと言えるのではないかと思われます(案の定、パーカーという人から「保守的で反動性をもつ」と批判されています)。

 なお、もう一つとして「科学的歴史教育論(本質主義)」と呼ばれている提案があります。

①メイスの初等歴史教育論
歴史教育の目的は歴史研究それ自体にあり、歴史外の目標に歴史研究を従属させるべきではないと述べています。また歴史の「出来事」は特殊的・一回的・一次的なものであり、それに対して「観念」は一般的・連続的・再生的なものなので歴史の関連性を教えるならば後者に求めるべきで制度史研究を基本にするべきだと言っています。
②H・ジョンソンの歴史の教授確立
歴史は「発展」の概念で成立しているので科学的歴史、歴史のための歴史を教えるべきと主張しています。
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2019.05.30(Thu) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標87社会科歴史④

【歴史教育ノ道標87社会科歴史④】
森分孝治『アメリカ社会科教育成立史研究』(風間書房)より。
前回に引き続き「科学的歴史教育(内容主義)」の提案を紹介します。

④AHA(アメリカ歴史学会)七人委員会
この委員会では歴史科と公民統治科(初期の公民科で政治学習中心)の学習は有能な市民性の育成に直接関わるとしています。なお、先述の方法主義派から提案されているソースメソッドを以下の3点から批判しています。
*不十分な基礎事項から重大な一般化を引き出そうとしている。*組織的な学習をしていないので正しい見解を形成できない。*歴史研究の技術は訓練できても歴史的思考の訓練にはならない。
上記の3つは不十分な史料・不十分な講義でゼミ形式の学習ばかりしていていては技術は学べても思考力は育たないという批判です。この委員会は個々の事実を概括して関係づけ、データを解釈し、歴史の流れ・傾向・運動を把握して歴史的意義を理解する学習の必要を訴えています。要は話し合いばかりしていても歴史を理解したことにはならない、ということでしょうか。

⑤サモンの歴史科課程論
初等・中等教育においては一般史(今で言う世界史)を教えるべきと主張し、物語歴史からスタートして制度史・文明史へとつながるカリキュラムを提唱しています。
⑥ボーンの歴史教育論
歴史教育の目的を明確にすることを主張しました。歴史教育は自分を取り巻く世界を理解することを目的としていて、そのためには自国史(アメリカ史)理解を中心にして自国史理解のためのヨーロッパ史理解へと進み、さらに歴史の構造的理解(事実をもとに解釈できる)が必要だと説いています。
⑦AHA八人委員会
初等教育8年間の歴史科カリキュラムを勧告しました。1・2年生には祝祭日の背景を教えることなどを提案しています。
⑧プリスの初等学校歴史科学習指導要領
プリスは歴史学習の内容は4つの観点で選択すべき、と提案しています。
*人間の環境への反応(歴史の物語的側面)*自身・環境その接触への解釈(歴史の精神的側面)*学習者の心理的要因(子どもの本質)*学習者の実際的要因(社会的・政治的必要性)
⑨AHA五人委員会
近代史重視の勧告をしました。

方法主義への反動・批判として歴史学習の内容への言及が続いています。

2019.05.29(Wed) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標86社会科歴史③

【歴史教育ノ道標86社会科歴史③】
森分孝治『アメリカ社会科教育成立史研究』(風間書房)より。
まず提案されたのが「科学的歴史教育(方法主義)」でした。次は「科学的歴史教育(内容主義)」が提案されます。これを2回に分けて紹介します。

①NEA(全米教育協会)十人委員会
この委員会の答申は歴史の授業時間の増加をめざしていました。(現代の日本でも学術団体から教育の世界へのよくある動きです)。そこで歴史学習の価値を高めるために歴史と文学を一つにして「人文科」とする案を出しています。歴史を古代古典と同等の価値を持つ人文学として認めさせようとしたのです。どうやらこの時代のアメリカでは歴史学はステータスが低かったようです。歴史学習は精神の訓練として重要であり、比較・判断する能力を培うのに適していると主張しています。
 なお、この委員会の提案は正規コースを始める第7学年の前に5・6年で歴史学習の準備として伝記・神話を位置づけています。そして次の正規コースでは題目法(例:インドにおけるイギリスの講義の後に「インド占領はイギリスにとってよいことであったかどうか?」)によって科学的な歴史研究を行わせるというカリキュラムになっています。
 
②NEA十五人委員会
初等歴史教育についての答申を出しました。

③ケンプの初等歴史教育論
ケンプは歴史的知識はすべて道徳的知識であると主張し、初等歴史教育では物語教材を用いることを提唱しています。

 方法に対して歴史学の内容についての重要性を主張しています。

2019.05.28(Tue) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標85社会科歴史②

【歴史教育ノ道標85社会科歴史②】
森分孝治『アメリカ社会科教育成立史研究』(風間書房)より。
 著者によればアメリカの歴史教育改革運動はおおよそ以下のような経過をたどったようです。
□1880年代
科学的歴史教育論(方法主義)→科学的歴史教育論(内容主義)→文学的歴史教育論
□1900年前後
機能的歴史教育論→科学的歴史教育論(本質主義)
□1910年代
機能的歴史教育論

 では、上記の1880年代。科学的歴史教育論(方法主義)で提唱された考え方をみてみましょう。
①シェルドン・バーンズの歴史教育論
バーンズは歴史教育は歴史研究であるべきで、一般史を教えるのではなくて一般史研究を教える必要があると主張しました。セミナリー方式の学習で子どもに「歴史をつくる」経験をさせなければならないと考えていたのです。バーンズは大学の歴史専攻のゼミのような学習を提唱しています。
②フリングとコールドウェルの歴史教授法論
上記のバーンズの論を継承したのがこの2人です。
 彼らは「歴史が書かれる方法」を歴史教育の原理にするべきだと考えました。一次史料による学習こそが重要と考えてこれをソースメソッドと呼び、生徒に一次史料をもとに歴史解釈をさせるべきだと主張しました。また、この学習を現場に普及させるためにソースブックという注解付史料集を開発しました。今も小・中・高校それぞれで購入して使用する資料集のパイオニア的なものと考えられます。

「方法主義」とラベリングされているようにこの考え方は言わば小さな歴史学者を作るような学習です。

2019.05.27(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標84社会科歴史①

【歴史教育ノ道標84社会科歴史①】
わが国の歴史は社会科という教科の中で教えられています。
 それはもう当たり前すぎて普段は何の疑問も感じていません。しかし、戦前は歴史科でした。ではなぜ現在は社会科なのかと言えば、戦争で負けてアメリカに押し付けられたからです。社会科を発明したのはアメリカです。

 では、そもそもなぜアメリカで社会科という教科が生まれたのか?
 じつは社会科誕生は歴史教育と深いかかわりがあるのです。昨年、森分孝治さんの『アメリカ社会科教育成立史研究』(風間書房)を読みました。これをノートしながら歴史教育はどうあるべきか?を考えてみたいと思います。

 じつはアメリカも社会科成立以前は歴史科がメインでした。公民科は歴史科の中のアメリカ史(当時のアメリカの歴史科はヨーロッパ史とかイギリス史とか一般史とかいろいろありました。アメリカそのものがまだ若い国だったのでこうなるのでしょう)の中の現代史段階に位置づけられていました。

 社会科は1916年に公民教育運動家・ダンがまとめたNEA(全米教育協会)の中等教育改造審議会社会科委員会報告において成立したとされています。もちろん突然できたわけではなく、ここに至るまでにNEAやAHA(アメリカ歴史学会)等の研究団体が提言するカリキュラム改造運動が30年ぐらい続いていました。各学会の学者たちが自分の専門分野を教育の場に反映させたいがためにいろいろと提言するわけです。

1860年~1900年の間にアメリカの歴史教育には次の2つの課題がありました。ひとつめは、歴史科は他教科に比べて地位が低かったので歴史教育を拡充する必要があったという点です。二つめは歴史科を時代の要求に合うものにする必要が生じていたという点です。

2019.05.27(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標83勝利の因子⑥戦争を教える

【歴史教育ノ道標83勝利の因子⑥戦争を教える】
 さて5回にわたって杉山徹宗著『日本人が勝った痛快な戦い』(光人社NF文庫)を紹介してきました。この連載で杉山さんの言う「勝利の因子」を取り上げたのは、それがわが国の歴史教育に足りないところだからです。

 そもそも歴史教育が戦争を取り上げるのは何故でしょうか?
 第1に歴史は「戦争の歴史」でもあるからです。わが国も弥生期のムラ同士の戦いから始まって壬申の乱、源平合戦、元寇、南北朝の戦い、戦国時代、関ヶ原の戦い、戊辰戦争・・・と数多くの戦乱を経験しています。指導内容の軽重はあるでしょうが、取り上げないなどということはありえません。
 第2は現代も世界は「戦争」だらけだからです。戦火がやむときはありません。ということは私たち日本人も「戦争」についての知識と教養を持たなければ「国際人」として失格です。これは歴史教育の大事な役目でしょう。
 第3は現在の私たち日本人の生活は先人たちの尊い命の上に成り立っているからです。戦争・戦乱で散った過去のご先祖様たちの想いを継承するのは現在を生きる私たちの責務です。これも歴史教育が担うべき大事な役目です。

さて杉山さんはこう言っています。
「過去、千三百年間に日本をおそった国家的危機は数多くあるが、それらの危機を乗りきることができたのはまさに「軍事」の大切さを国民すべてが認識していたからである。大東亜戦争後、世界にまったく戦争のない平和な社会が招来されたのならともかく、終戦直後から世界中で軍事紛争が多発し今日にいたっている。それゆえ、軍事や戦史、歴史についての常識を身につけることが、いまわれわれ日本人の急務である」(p5はじめに)

 ところが、未だに日本人の軍事アレルギーは続いています。
 戦争=殺し合い=悪・・・とは単細胞すぎます。この世はもっと複雑です。新指導要領が言うように戦争について多面的に思考・判断させましょう。軍人=戦争したい人=悪者・・・とは完全に職業差別です。人権問題です。子どもを職業差別主義者にするつもりでしょうか。世界中の人たちから軽蔑されます。
 
 戦争学習のあるべき姿は自国の戦史を真正面から取り上げることです。先人の「勝利の因子」を学ぶことはここに当てはまります。戦争、軍事、武器・兵器についての知識と教養を身に着け、戦争を多面的な観点から思考・判断させる必要があります。それが「平和な日本」を創るための基礎・基本です。もちろん、それぞれの成長段階に教育的な配慮をして教育内容と教材を選定し適切な学習展開を行うのは当然のことです。

2019.05.09(Thu) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標82勝利の因子⑤満州事変

【歴史教育ノ道標82勝利の因子⑤満州事変】
 杉山徹宗『日本人が勝った痛快な戦い』(光人社NF文庫)の紹介第5回です。いよいよラストとしたいと思います。
最後は満州事変です。満州事変といえば「日本軍が謀略で騒ぎを起こして戦争を始めたんだ」と騒ぐ輩がいますが、こういうタンサイボウな見方からそろそろ卒業するべきでしょう。「謀略」って言いますが、アメリカもイギリスも中国もソ連もみんな日本の何十倍も「謀略」だらけです。何で日本だけが悪者にされるのか?なぜ日本人自身が「自分の祖先は悪者なんだ!」と騒ぎたがるのか?怪しいです。「謀略」を感じます。

 それはさておき、まずは満州事変がどう進行したのかを簡単に確認しましょう。
 そもそも満州の奉天には軍閥・張学良軍26万人がいました(中国軍?じゃありませんよ。この時代は蒋介石・国民党軍とか毛沢東・共産党軍とかならあります。当時の大陸は軍閥が大小いろいろあるだけの戦国時代みたいなものです。あまりに複雑なので説明を割愛します)。日本の関東軍は南満州鉄道を爆破し、これを張学良軍の仕業として攻め込みました。関東軍は3600人しかいなかったのに圧勝です。さらに満州各地のたくさんある軍閥合計50万人も日本軍はわずか5万人で粉砕し、満州全土を占領しました。日本軍は圧倒的に強かったのです。

 満州には満州人と漢人による複雑な歴史がありますが、見逃してはならないのは満州の軍閥たちは巨大な軍事力のために最悪の政治をしていたということです。法外な税金、麻薬栽培、女性を誘拐して人身売買、略奪、通貨の乱発・・・。当然、満州に住む人たちは日本軍を歓迎しました。さて今回の勝利の因子を確認しましょう。

*その1:張学良の驕り
過酷な支配によって住民から巻き上げたお金で巨大な軍事力を手に入れた張学良はわずか3600人の日本軍をなめていました。しかも、自分が住民たちの怨嗟の的になっていることに気づいていなかったようです。

*その2:軍閥に規律がなかった
そもそも各軍閥はもとは馬賊です。兵士とは名ばかりで暴行、殺人、窃盗、強姦など犯罪だらけです。規律がないのですから軍事行動にも齟齬をきたします。当然、住民からも見放されて協力してもらえません。

*その3: 情報収集で敵の弱点をつかんでいた
張学良は自軍兵士の規律が乱れていることは認識していたので、夜間は武器を倉庫に収めてカギを掛けていました。日本の関東軍はこの情報をつかんでいたのです。奇襲攻撃された張学良軍26万人のほとんどは爆音に驚いて逃げ出したのです。

 満州事変と聞いて戦争アレルギーを起こさずにまずは冷静に勝負の成り行きを確認してみてください。 

2019.05.07(Tue) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標81勝利の因子④奉天大会戦

【歴史教育ノ道標81勝利の因子④奉天大会戦】
 さらにさらに続きです。杉山徹宗『日本人が勝った痛快な戦い』(光人社NF文庫)の紹介第4回です。
 今時「日露戦争は侵略戦争だ」などと無知なこと言っている人はいないとは思いますが、念のために言っておきます。日露戦争は明確に日本の「祖国防衛戦争」です(よくわからない人はとりあえず司馬遼太郎著『坂の上の雲』を読んでください)。前回少々触れた日本海海戦もそうですが、今回の奉天大会戦も日露戦争のときの戦いです。

 当時、最強の陸軍国と言われていたロシア常備軍116万人に対して日本は23万人でした。戦力差は5倍です。しかし、当時の日本軍は満州で遼陽会戦、黒溝台会戦、沙河会戦と大きな戦いで損害を出しながらも勝利を収めてロシア軍を撤退させることに成功していました。そしていよい奉天での決戦を迎えます。ここで数字の上では絶対に不利であった日本軍は秋山好古率いる騎馬隊の活躍もありロシア軍を3分の1にまで減らし、完全に撤退させることに成功しました。その勝利の因子は何だったのでしょうか?

*その1:機関銃を効果的に使用した
この戦いでは重砲、速射砲などの火力は2倍近い差がありましたが、機関銃だけは日本の保有数が上回っていました。この機関銃の効果はじつは日本自身が旅順の戦いで相手側から学んだものでした。この機関銃が日本のピンチの局面を救い、追撃戦で威力を発揮しました。

*その2:常識を外れた作戦を多用した
すべてに劣る日本軍は当時の近代戦争では非常識と思われる作戦で対抗するしかありません。極寒の中の突撃、激戦が続いた後にも繰り返す夜襲などです。これで相手の司令官クロパトキンは冷静な判断ができない精神状態になったと言われています。

*その3:クロパトキンが過去の成功体験を引きずっていた
過去にナポレオン軍を破ったときのロシア軍の戦法は撤退作戦でした。撤退するたびごとに相手ナポレオン軍に損害を与え、奥地へと引きずり込む作戦です。秋山騎馬隊に背後を襲われる恐怖がこの撤退作戦の失敗を予想させ、本来の作戦を遂行できない状況を作ってしまったと言われています。

 相手から学ぶ、相手が嫌がることをする、相手の思い通りにさせない、など私たちが普段目にするサッカーや野球にも関連する勝利の因子です。しかし、この日露戦争で何よりも大事なのは国民全員が「負けたらロシアの属国になってしまう」という危機意識を強く持っていたことではないでしょうか。

2019.05.06(Mon) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標80勝利の因子③黄海海戦

【歴史教育ノ道標80勝利の因子③黄海海戦】
 さらに続きです。杉山徹宗『日本人が勝った痛快な戦い』(光人社NF文庫)の紹介第3回です。
 今回は日清戦争での黄海海戦です。明治期の海戦といえば何といっても日露戦争の日本海海戦が有名です。東郷平八郎の敵前回頭・T字戦法がロシアのバルチック艦隊を破った起死回生の勝利です。しかし、今回はその10年ほど前になる日清戦争の黄海海戦を同書から紹介します。

当時の日本と清国の艦隊はほぼ互角でした。ただし、清国には「鎮遠」「定遠」という最新鋭戦艦2隻がありましたが、対する日本は巡洋艦しかありませんでした。ところが、戦闘は日本の圧勝に終わりました。敵は12隻中5隻沈没・7隻敗走。自軍は1隻も撃沈されていません。勝利の要因はどこにあったのでしょうか。

*その1:操艦技術に差があった
清国側は各艦の操作技術が低く、指揮官の決められた陣形を取ることができずに自由行動にしていたと言います。さらに清国人は演習中の艦上でバクチをするなど士気が低く秩序も乱れていたためにイギリス人の軍事顧問は戦争前に嫌気がさして帰ってしまう始末です。対する日本は海軍用語を日本語に統一し、命令系統は迅速でした。しかも日本人の教育水準は高く、大砲の照準計算・着弾計算の能力は命中率を上昇させて相手とは段違いでした。

*その2:上下一体の団結力
日本は指揮官と兵のコミュニケーションがスムーズで決められた戦術を思う存分駆使できました。また、各自の国家意識も高くこの戦争の意味と意義をすべての指揮官以下全員が理解していたことが大きいでしょう。

 相手がどれほど高性能の武器を持っていようと、人間の技術とその技術を何倍にも有効化するチームワークがあれば勝てるという見本ではないでしょうか?この連載第1回の「敬語」でもご紹介したように日本は上下関係のコミュニケーションが理想的な国なのです。それがこんなところにでもわかります。

2019.05.05(Sun) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |

歴史教育ノ道標79勝利の因子②四川の戦い

【歴史教育ノ道標79勝利の因子②四川の戦い】
前回からの続き、杉山徹宗『日本人が勝った痛快な戦い』(光人社NF文庫)の紹介第2回です。今回は豊臣秀吉の朝鮮出兵・慶長の役で島津義弘が活躍した四川の戦い(四はさんずいが付きます)です。
 これは朝鮮半島の南。海に面した小高い丘に築いた砦に立て籠った島津勢6300人がその30倍以上の敵・攻め寄せてきた明・朝鮮連合軍20万人を破ったという奇跡の戦いです。その勝利の因子を見てみましょう。

*その1:鉄壁の団結力 
 義弘は可能だった援軍を頼むという常識を捨てて島津軍のみで戦う道を選びました。敵0万人に対して1万程度の他力本願はあまり意味がなく、かえって団結心を崩すことになると考えたのです。

*その2:「釣り野伏せ」戦法
 これは相手を油断させて不意を衝く戦法です。こもっていた城を無傷で明け渡し、食料もわざとそのままにして慌てて逃げたと思わせます。さらに周辺住民に「コメ1万石を捨てていく」と吹聴して敵を慢心させるという心理戦です。

*その3:「捨てかまり」戦法
 これは砦の周辺にモグラのように伏兵を分散して潜ませひたすら待ち続けるという戦法です。本隊同士の戦いが始まったら勝敗の分かれ道になる瞬間までじっと息をひそめて待機し、好機が来た瞬間に討って出る最後の切り札です。

 こうした島津義弘の作戦はすべてハマりました。慢心して攻め込んで来る敵を決戦距離まで見切り、一斉連続射撃で怯ませ(薩摩は各自鉄砲を二丁ずつ持っているほどの鉄砲軍団です)、射撃部隊→長槍部隊→示現流抜刀部隊と波状攻撃。さらに数で押してくる敵軍を至近距離まで引き付けて20門の大砲を放射状に一斉発射。そして最後は「捨てかまり」の伏兵が襲い掛かります。これで20万の敵軍は敗走につぐ敗走。最後はわずかに2000人になってしまったということです。
戦いは数ではなく、高い士気と団結心。そして巧妙な戦術で決まることがこれでわかります。

2019.05.04(Sat) | 歴史教育ノ道標 | cm(0) |